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0930:myDataBase
0916:キレイゴト
0914:策士希望
0912:流れる時の記憶#4「意志未来」
0911:隠れた情報
0908:知のからくり#1「一般化」
0906:産みの苦しみ
僕は仕事柄、というよりも趣味柄、「データベース」というものにとても関心がある。最初は学園祭の委員会で使用するデータベースを、MicrosoftのACCESSというソフトで作成したのがきっかけだが、それ以来データベースというものに魅せられ、趣味でも、またバイトでも、あるいは今後の仕事にでも、このデータベースというものに触れていけたらと思っている。
データベースとは何かというと、これまたいろいろな答えがあるだろうが、僕なりの定義を言えば、様々な情報を効率的に利用するための仕組み(システム)となる。ただ単に多くの情報が集まってもそれはデータベースとはならない。たとえば多くの新聞を買ってきてそれを床に並べても、それはデータベースではない。データベースでは、もちろんそこに含まれる情報がなければ始まらないが、それよりもそれを「利用」するための仕組みがなければならない。
そしてそのデータベースを、僕たちは一つすでに持っている。それは何かというと、それは僕たちの頭脳である。僕らは生まれてから死ぬまで多くの情報に出会い、そして必要に応じてそれを記憶する。そしてその情報を必要に応じて検索して、現実の様々な場面で利用する。この頭脳というデータベースは、コンピュータのデータベースにも及ばない優れた性能をもっていて、あいまいな言葉から関連する情報を引き出したり、または直感で情報を選んだり、または複数の情報から新しい知識を生み出したりすることもできる。
このデータベース、ここではそれをマイデータベース(myDataBase, mDB)と呼ぶが、このmDBの性能を決めるものは、mDBの持つ情報の量だろうか。確かに多くのことを知っていることは、知らないことよりは良いだろうが、しかしデータベースにとって重要なのは、その持つ量ではなく、情報を利用する仕組みである。
この情報が氾濫する時代に、多くの情報を自らの中に保管していくことは難しい。そしてそうであるならなおさら、その情報を利用する仕組みをうまく考えてやる必要がある。例えばよく利用するホームページのリンク集を作成してみたり、自分だけの検索エンジンを作ったりする。あるいは辞書や辞典をいつも手元においておいたり、よく利用する情報だけを手帳に書いておいたりする。自分の頭の中、あるいは自分のすぐ手元、あるいは少し離れたところなど、様々な情報を保管する場所によりレベル分けし、そして紙やコンピュータなどの記憶媒体とをうまく使い分けて、その保管した情報を利用する仕組みを考える。自分だけの効率的なmDBを構築していく作業は、「知識マネジメント」や「IT革命」などが叫ばれている現在、より重要となっていくだろう。
そして僕は、そんなmDBを支援するソフトを、コンピュータで作れないかと思っている。例えばこのDaily Essayも、自分の中にある様々な考えをうまく記録・保管し、また時に検索・利用するためのmDBの一種である。一言メモなども、そんな目的が多少はあった。紙とコンピュータと人間の頭脳が結集したスーパーデータベース。それは社会的にも、そして何より自分自身にとっても挑戦に値する、大きな課題の一つなのだ。
以前「リフレイン」という文章で、僕の文章は主題への「導入」と、主題の「提示」と、主題からの「落ち」からなると書いた。そして大抵は、その主題はタイトルに表される一つだけで、それが文章の中で形を変え表現を変え何度も登場することで、つまりはリフレインによって、全体が長くなったり短くなったりすると書いた。時々主題が二つ存在してしまったりもしてしまうが、その時は大抵長すぎて意味が分かりにくくなり、変な文章になってしまう。先に書いた「策士希望」などは、ちょっと主題を詰め込みすぎて、全体として分かりにくい文章になったなと思っている。
導入と提示と落ち。僕は、書きたいテーマが思い浮かんだだけではまだ文章を書かない。そのテーマはとりあえずノートにメモしておくが、実際に文章を書くのはまだ先、「導入」のアイデアが浮かんだ時だ。導入のアイデアが思いつくと、とりあえず導入と主題の提示、そしてその繰り返しまでは、意外とスムーズに文章を書くことができる。けれど「落ち」の部分で、僕ははたと困ってしまうのだ。書き始めた文章にどのような「落ち」をつけるか。これは意外と難しい。
と、ここまでが今回の文章の導入だが、今回のタイトルになっている「キレイゴト」とは、僕が良く文章に「落ち」を付ける時に使う手段である。例えば「それは難しいが、誰かがやらなきゃいけないのだろう」とか、「それは困難を極めるが、いつかそれを成し遂げたい」とか、何か最後に落ちを付けるときに、僕は自分の体裁を整えるような「キレイゴト」をよく使ってしまうのだ。
このキレイゴトは何も文章を書く時だけに限らない。キレイゴトとは、とりあえず荒波も何も立たないで済ませる「安全な発言」である。もちろんそれ自体に嫌悪感を持つ人もいるが、まあこう言っときゃとりあえず安心だろうという、会話、あるいは文章の中のSafety Pointである。人は、というよりも僕は、ある時は意識して、またある時は無意識的に、このようなキレイゴトを使ってしまう。おそらくそれをすることは、僕自身をどこか安心した気持ちに落ち着かせるのだろう。
人によってこの「落ち」を付ける時に使う手段は違う。ある人は、多少皮肉的に「世の中とはこんなもんだ」と締めくくることで、自分の中の気持ちを落ち着けるかも知れない。あるいは「社会がみんな悪いんだ」とか「政治家が悪いんだ」とか「人間の本性は悪だから」とか、そういう言葉で終わらせる人もいるかもしれない。けれどどういう言葉で終わるにせよ、どういう手段で締めくくるにせよ、自分のその「癖」を知っておくのはとても重要なことである。
自分がその表現にこだわるのには、もしかしたらそこに何かしらの「信念」めいたものがあるからかもしれない。「理由」があるからかもしれない。あるいはただ単にそれが楽だからなのかもしれない。どちらにせよ、自分がよく用いてしまう安全な発言、無難な終わり方――僕にとってそれは「キレイゴト」である訳だが、それを考えることは、難しくも楽しいことだと僕は思う。
と、この「難しくも楽しい」も僕がよく使う「キレイゴト」である。今回も結局キレイゴトで落ちをつけてしまった。もっと違う落ちの付け方を開発しないといけないな。
「策士」という言葉がある。策士というと、何か相手を騙したり陥れたりするような悪いイメージがあるが、けれども「策」というのは、創意や工夫を凝らすことで巧みに物事を達成していくことであって、必ずしも陰謀や悪企みであるとは限らない。例えば問題を解決するために、あるいはイベントを実現するために、創意や工夫を凝らして有効な手段を構築する。そんな「策士」というものに僕は成りたいと考えている。
ではその「策士」にはどうすればなれるのであろうか。僕は「策士」が「策士」たる条件とは、自らが関与しているその事柄を「必ず」達成させることであると考える。よく自らの手を汚さずに物事を達成することが策士の美徳であると考えられているが、しかしそれは誤りである。策士にとって大事なのは、「手を汚さずに」「安全な場所から」「表には出ずに」何かを達成することではなく、その何かを「必ず達成する」ことである。この何かを成し遂げた数により、そしてその成し遂げたものの大きさにより策士としての能力が問われる。言い換えれば策士とは「実現者」であり、影にいるというよりはむしろ、表に立って何かを成し遂げていく人物である。そして何かを成し遂げるには、それが大きなものであればあるほど通常の方法で行うことは難しく、何らかの飛躍(leap)をしなくてはならない。そしてその飛躍を、策士は自らの知恵を絞って、あるいは多くの人たちの英知や力を結集して、実現させるのである。
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しかしその飛躍のための「策」を、最初から明確に持っている策士はそう多くはない。例えば「持続可能な発展」という壮大な夢のような目的を達成するための長期戦略を、明確に答えられる人はまずいない。しかし答えられないからといって、その人が優秀な策士でないかというと、実はそうでもないのである。
「何か」を実現するために明確な長期戦略を策定し、そしてそれを狂うことなく実施していくことは確かに重要なことであろう。しかしその何かが壮大であればあるほど、その長期戦略を策定することは難しく、そして仮に策定できたとしても、どこか机上の空論めいたものになってしまう。そのような戦略を無理に押し進めれば、それは複雑で頑強な現実の前に、いつかは空中分解してしまうであろう。
策士にとってより重要なのは、明確な戦略を策定する能力以上に、「着実なる一歩」を踏み出す能力である。そしてその「一歩」の上に、前の一歩を最大限活用する形で、次なる一歩を積みあげる能力である。道など無い海のような未来に向かって、進むべき明確な一本の道を予測するのは難しい。それよりも重要なのは、その海に向かってまずは第一歩を、自らの全身全霊をかけて踏み出すことである。そしてその一歩を最大限生かす形で、次なる一歩を、全身全霊をかけて積み上げることである。
そのことは決して「可能性」を狭めることにはならない。一歩を着実に進むことで、人はその次に進むべき未来の幅を広めることができる。そしてそれを繰り返していけば、人が自らのビジョンを見失わないでいられる限り、いつかはビジョンを実現することができる。その結果だけを見るのならば、精一杯踏み出し、そして最大限過去を未来へと生かしてきたその実現までの道筋は、あたかも運命に導かれたかのような、計算尽くの長期戦略のもとに実行されたかのように見えるであろう。
策士にとって重要なのは、明確な「ビジョン」を常に心に持ち、それを必ず達成させるのだという気概を持ち、過去を最大限生かしながら、現在を最高の純度で持って生きることである。その純度の高い生き方をしている限り、やがては自分が進むべき未来の中に、「ビジョン」達成までの明確な道のりが浮かび上がっていくことであろう。未来を見据え、過去を生かしながら、現在という時を最大限生きていく。そんな「策士」というものに、僕は成りたい。
中学や高校で英語を習うと、「未来」には二つの未来があると教えられる。「単純未来」と「意志未来」だ。「単純未来」は、例えば「明日雨が降るだろう」などという場合であり、これは英語では' It will (It'll) rain tomorrow. 'となる。それに対し「意志未来」とは、「私は明日学校に行きます」などという場合であり、英語では' I will go to school tomorrow. 'となる。
この二つの未来の違いは何だろうか。「単純未来」は、ただ時が流れればおのずと訪れる未来のことを表す。先の例で言えば、明日になればこちらが何をせずとも雨が降っている、という意味になる。他の例で言えば、明日で23歳になるだとか、春になれば暖かくなるだろうなどがそうだ。これらは特に何もせずとも、ただ時が経てば必ず訪れるであろう未来であり、そしてその未来は人の力で変えられる類のものではない。雨が降るのも、年を重ねるのも、春になって暖かくなるのも、人間がどうこうできるものではないのだ。
これに対して「意志未来」は、自分あるいは他人などの「何か」が、現実に対して何らかの「行動」を加えることで訪れる未来である。この未来は、何かがそれをしなければ訪れることはない。自分が明日学校に行かなければ、「明日学校に行く」という未来は決して訪れない。他の例で言えば、2時間で宿題を終わらすだとか、友達がやって来るだとかがそうだろう。これらは自分や他の何かが働きかけて始めて訪れる未来であり、つまりはその未来の実現はすべて自分、あるいは他の何かの「意志」にかかっている。そしてその「意志」次第では、未来は変わってしまうのだ。
単純未来と意志未来。これらを突き詰めて考えることは実に興味深い。この二つが言おうとしていることは、未来にはこちらが手を加えずにも訪れる未来と、自らが創り上げなければならない未来とがあるということである。つまりは人間の意志と、人間の意志とが及ばざる自然の法則や偶然などが相い絡まって、未来という時が紡がれるのだ。
未来は人の意志により創られるものであり、そしてまた単純に訪れるものでもある。このような未来を予測することは実に難しい。何故ならばただ単純にこうなるという予測だけでなく、人がどのように動くかをも予測しないといけないからだ。「未来を予測する一番の方法は、未来を自らで創り出すことだ」という言葉があるが、きっと我々の思う以上に、未来というものは、単純なものではなく意志によって紡がれるものであるのだと、私は思う。そしてそんな未来を的確に予測するには、様々な現状の情報を集めて未来を予測する以上に、未来をこう変えるのだという強い意志を持つことの方が、より重要なのだろう。
「現実」は私たちが思う以上に複雑で多面的で、そこには普段ではなかなか気付かない、表面的に読むだけでは読みとれない様々な情報が隠れている。そしてその隠れた情報を読みとり楽しむためには、いつもとは違う「視点」でものごとに接する必要があるのである。
例えば週刊誌のあるページを読むとき、人はそこから何を読みとるだろうか。普通の人なら、ただ単純にそこに書かれている内容ー例えば今度新しいCDが出るとか、誰かが今度結婚するとかを、そこに書かれてある文字や写真から読みとるだろう。けれど少し冊子の編集などに興味がある人は、その文字にどのようなフォントが使われているかだとか、文章と写真をどのように組み合わせて編集しているかなどの、レイアウトなどに関する情報を読みとるだろうし、また文章を書くのが好きな人などは、どのように文章を始めているかだとか、どのような言い回しを使っているかなどにも注目するだろう。
また何かしらのイベント会場、例えばコンサートなどに行ったときでも、そこで何を楽しむかは人によって違う。普通ならば登場するアーティストの歌や話などを楽しむだろう。けれどちょっとイベントの裏側をかじったことがある人ならば、例えば受け付けはどのように行っているのかだとか、人の誘導はどうしているのかだとか、またトラブル対策はどのようにしているかだとか、ゴミの分別はどうしているのかなどにも注意を向けることができ、そしてまたそれを楽しむことができる。
私たちが目にし耳にする「現実」は思う以上に複雑で多面的である。そこには様々な情報が込められており、ただ表面的に眺めているだけではその隠れた情報に接することができない。そんな隠れた情報を発掘するには、様々な体験を通して、様々な「視点」を身につける必要がある。そうして身に付いた様々な視点は、複雑な現実を読み解くだけでなく、多面的な現実から多種多様の楽しさを引き出すのにもきっと役に立つであろう。現実の楽しみ方は一つだけとは限らない。様々な視点を身につけることにより、一つの体験を一石二鳥にも三鳥にもすることができれば、今を生きることはより楽しく面白くなるだろうと、僕は思うのだ。
人間の重要な能力の一つに「応用能力」がある。これはある場面で役に立った知識や技術を、それと似た違う場面へと適応する能力であり、この能力により自分の経験を何倍にも生かすことができる。そしてこの「応用能力」を実現するには、とある個別な具体的な経験の中に、何か他にも役に立つような一般的な知識や技術を発見する「一般化」という技法が必要になる。
この「一般化」は人間が持つ基本的な技法の一つであると共に、人間がつい陥ってしまう思考の癖―「知のからくり」の一つでもある。人はある個別的な経験や具体的な事柄の中に、何か他のことにも役に立つような「共通要素」が含まれていると信じ込む。そしてその信じ込みをもとに、一生懸命その「共通要素」を探そうとし、時にはそれをでっちあげる。例えばとある会社の経営者が、自らの体験を元に「絶対儲かる方法」とかという本を書いてみたり、また元野球の投手が自分の経験を生かして解説者になったりすることは、何らかの「一般化」を行っているとともに、自分がした個別の体験の中に、他にも応用することのできる「共通要素」が含まれていると信じているからに他ならない。
しかし全ての事柄が「一般化」できるとは限らない。例えばある17才の少年が凶悪犯罪を犯したとして、「世の中の17才はみんな凶悪犯罪を犯す可能性がある」と一般化するのは強引である。またその少年がインターネットをやっていったからといって、「インターネットによる仮想の人間関係に慣れてしまったために、実在の人間を殺してもよいという錯覚が生まれたのだ」とするのも強引である。その少年はたまたま17才だったのかもしれないし、たまたまインターネットが好きだったのかもしれない。そんな原因であるとも分からない単なる年齢や趣味などを一般化して、この年齢、この趣味を持った少年は危ない、と一般化するのは強引すぎると言えるであろう。
けれどこの強引な一般化は、日常の至るところで行われているものである。人は何らかの事件や個別な体験を社会の他の事柄にも役立てたいと思うばかりに、そこから懸命になんらかの教訓を発見しようと努力する。しかしある事件や個別な体験の中に必ず他の事件にも当てはまる「共通要素」があるとは限らないし、またあるとしても、それを区別するのは難しい。けれどもその難しさと関係なく、人は様々なことがらを「一般化」しようとしてしまうし、そしてその「一般化」されたことがらをつい信じてしまうのだ。
「一般化」にあたっては、そもそもそれが一般化できるのか、そして何が一般化できて何が一般化できないかという、「共通要素」と「特殊事情」を正確に区別する必要がある。それは自分が一般化する場合だけでなく、他人が一般化した事柄を簡単に信じ込まないためにも、「一般化」に込められた「知のからくり」を見抜く時にも必要となる、重要なものであろう。
「壊す」のは一瞬かもしれない。しかしそれと同じものを再び「生み出す」のは、一瞬でできる訳はなく、果てしなく長い年月が必要となる。何かを「生み出す」ということは、何か新しいものを創り上げ、また何かを成し遂げるということは、それを「壊す」のよりも、「鑑賞」するのよりも、「理解」するのよりも、「批評」するのよりも、大変大きな苦労が伴うのだ。
例えば、受験生が非常に苦労して解いたテスト問題でも、それを丸付けするだけならすぐに終わらすことができる。そしてその結果に合わせて、良かった悪かったと判定を付けることも、それなりの苦労がいるとしても、比較的簡単に行うことができる。
また文章や音楽だって、それを読むのは短い時間で済むかもしれない。それを聞くのはほんの数分で良いかも知れない。そしてその文章を理解して、あるいはその音楽を堪能して、様々な「批評」を言うのにも、それなりの苦労が必要となるものの、それは文章を書く際の苦労に比べれば、音楽を作る際の苦労に比べれば、小さなものである。
何かのイベント、例えば学園祭のようなイベントだって、それを見るのは数日間で終わるかも知れない。そしてそのイベントを見て、あれが良かった、あれが悪かった、もっとこうだったら良いのにと感想を述べることには、さしたる苦労は要しないかも知れない。しかしそのイベントが実現されるまでには、何ヶ月、あるいは何年もの間の、様々な人たちの苦労が存在しているのである。
もちろん、他人が創り上げたことを見て、理解して、感想を言う、あるいは批判するのは、とても重要なことである。囲碁の世界に「岡目八目」という言葉があるように、周りから見る人の方が、当の本人では気付かない様々なことを発見できるのは確かな事実であり、そしてそんな他人からの指摘により、その作品やイベントがさらに良くなることだって大いにある。
しかしその、自分が当事者でないから保てる「八目」の差を、いかにも自分の才能であるかのように思いこみ、作品を良くすることよりも、作品を「壊す」ことを目的として批評するような、「産みの苦しみ」を背負うことを避け、安全な場所から批判することだけを目的とするような、そんな「無責任な批評家」には僕はなりたくはない。むしろその「産みの苦しみ」を一身に背負う「創造者」や「実務者」というものに僕は憧れ、そしてまた尊敬の念を抱く。僕もまた、常に何か新しいものに挑戦し、常に自らが関わって物事を実行することで、そんな「産みの苦しみ」を忘れないようにしていきたい。