blowing wind Daily Essay
* [Vol.9] 2000年10月〜12月のエッセイ

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* 1105:小さな社会
* 1026:マニュアル主義
* 1017:NOISE
* 1015:0と1
* 1010:行き着くその果て
* 1005:その問いの後ろ


1105:小さな社会

 僕らが生きるこの「世界」は果てしなく大きい。けれど僕らが暮らすその「社会」は限りなく小さい。そしてその世界と社会のギャップは、時に人を惑わせる。

 60億もの人が生きるこの世界。経済と社会のグローバリズムが叫ばれる現在、僕らはその視野をはるか遠くへと広げることが求められる。日本だけでなくアジア、世界へと自らの視野を広げ、自らのアンテナを伸ばし、テレビやインターネットなどのメディアを駆使しながら、世界中の出来事に目を向け、関心を持つことが求められる。そのような意味では、僕らが生きるこの「世界」は果てしなく大きい。そしてその大きさは、決して昔には存在しなかったものであろう。

 けれどその広大な世界の中で、僕らが暮らすその「社会」は限りなく小さい。例えば60億も存在する人たちの中で、僕らは一生のうちにどれだけの人を知るのだろうか。またその人達の中で、いったいどれくらいの人と交流を持つのだろうか。

 8000人規模の大学であっても、あるいは300人規模の高校であっても、または40人規模のクラスであっても、その全員の人と交流がもてるわけではない。その全員が、自分の「社会」に入りこんでいる訳ではない。自らが日々を暮らす「社会」、それは研究室かもしれないし、職場かもしれないし、あるいは家庭かもしれないし、そしてそれらの複合体かもしれないが、そんな自分のごく身近な「社会」とは、自分の手の届くその「社会」とは、「世界」の大きさに比べれば限りなく小さなものである。そしてその小ささは、もしかしたら今も昔も、さして変わってはいないのかもしれない。

 この広大な「世界」には多数の「社会」が存在する。それは「世間」といった方が近いかもしれない。タレント業界だって一つの社会だし、また学会だって一つの社会だ。サークルや会社もそうだ。結局人一人が暮らすことの出来る社会とは、ごく小さなものでしかない。けれど広大な世界と小さな社会とのギャップが、時に人を惑わせる。決して大きくはない「社会」にその身をおきながら、広大な「世界」に目を向けそれを感じそれを論ずる。それを誤り無くできる人は、おそらくは「世界」でも少数なのだろうと、僕は思う。

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1026:マニュアル主義

 僕は「マニュアル主義者」である。マニュアルというとよく「マニュアル人間」などといって批判されることがあるが、その批判の対象はマニュアルにより個々人が自分の考えで行動をしなくなるということであって、マニュアルそのものの存在が批判されているわけではない。そしてまたマニュアルという存在は、確かに個々人の思考を停止させる側面もあるかもしれないが、むしろ個々人の思考を促進させるものでもあると僕は思うのだ。

 思考が促進されるのは、特にマニュアルを「作成」する場合だ。僕は今までに、各種イベントなどを通して受付マニュアルや警備マニュアルなどを作成してきたが、マニュアルを作るということは思うよりも大変な作業である。まずマニュアルというものは、「完全」に近いものでなければならない。例えば準備事項が漏れなく網羅されていなければいけないし、また人の流れや人の配置についても、問題が起きないような最適な選択がなされていなくてはならない。皆がこのマニュアルに沿って行動をするのだから、そもそもマニュアルに穴があってはいけない。そしてそんな穴のないマニュアルを作るには、実際のあらゆる場面を想定して、様々な事態に備える必要があるのだ。

 そしてまたマニュアルは、「分かりやすい」ものでなくてはいけない。極論を言えば、今日から入ったバイトでもそれを読めばとりあえずは問題なく仕事をこなせるような、そんな分かりやすさがマニュアルには求められる。「完全さ」「分かりやすさ」を追求したマニュアル、そのマニュアルを作るという作業は、思うよりも大変だが、思うよりも楽しいのもまた事実である。

 そしてそんな「マニュアルを作る」という視点を身につければ、他人が作ったマニュアルも楽しく読むことができる。マニュアルにはその作成者の様々な思考が凝縮されて詰まっている。そんな他人の思考の結晶に触れることはまた、自分の思考を活性化させることにもつながるのだ。

 「マニュアル」というのは人間の思考をまとめるための一つの様式、つまりは「知の表現様式」である。それは性質的には「論文」「法律」などと似たものである。そして人間の思考が「マニュアル」という形で表現され蓄積され、それにより他人が閲覧し批判していくことが可能になれば、結果として人間の知的活動は大いに促進されるだろうというのが、僕の予想であり、そしてまた信念なのだ。

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1017:NOISE

 「他人」とは自分の「音」を乱す「NOISE」でしかない。親であれ友人であれ恋人であれ、どんな親しい人であっても、その存在は自分の存在を揺るがす「雑音」でしかない。

 人はみな、自分の思考や自分の感情や自分の行動を、より調和して統一の取れた「和音」へと昇華しようとする。いうならば自分の中に、調和のとれた統一した「価値世界」を形作ろうとする。そして他人とは、どんな親しい人であれ、最終的にはその音を乱し、その世界を揺るがす「NOISE」でしかない。最終的には、他人は他人でしかない。自分の考えを完全に理解してくれるわけでもなければ、完全に自分のために生きてくれるわけでもない。彼らは彼らの考えで行動し、彼らの視点でものごとを理解し、そして彼ら自身のために行動する。そんな自分とはまた違う「和音」を持つ他人の音は、結果として自分の「和音」を乱す「NOISE」でしかないのだ。

 けれどもそんな音の乱れは自分の中に様々な感情を生み、そんな雑音の揺るぎから今までにはなかった様々な思考が生まれる。他人とは自分の「音」を乱す「NOISE」でしかない。しかしその「NOISE」がなければ、自分の「音」の乱れがなければ、変化も進化もありえない。

 僕らは他人に多くを求めてはならない。僕ら自身が心の中に築くべき「和音」は、どうあっても他人に奏でることはできない。他人が手伝ってくれるのは、自分が築いたその和音を乱してくれるだけ。その乱れは、時に大きな苦労をもたらしもするが、しかし結果としその乱れにより、より頑固な洗練された「和音」が作られる。いや、作るべきなのだと、僕は思う。

 他人とは自分の「音」を乱す「NOISE」でしかない。どんな親しい人であっても、その存在は自分という基盤を揺るがす雑音でしかない。しかし僕はその雑音を求める。良い意見でも悪い意見でも、好意でも敵意でも、多くの「NOISE」を自分の中にとりこみ、そして自分の思考を乱す。自分の存在を揺るがす。そしてその乱れから、その揺らぎから、より洗練された自らの「音」を作り出す。他人とは「NOISE」である。そしてその相反する雑音との触れ合いこそが、人生なのだと僕は思う。

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1015:0と1

 0と1とからなる世界がある。会話も全て0と1だけ。文字も全部0と1だけ。そこに存在するものが全て0と1だけでできている、そんな「デジタルの世界」がこの世の中にはある。

 そしてそのデジタルの世界とは、このコンピュータの世界である。いや、その表現は正しくはない。正確には、私たちはコンピュータを用いて、その0と1のデジタルの世界を垣間見ることができる。コンピュータはこのデジタルの世界の水先案内人であり、コンピュータの世界とはこのデジタルの世界の、ほんの入り口であるに過ぎない。デジタルの世界は、ネットなどを通じて様々な場所へとつながっており、それは「現実の世界」「心の世界」とはまた違う次元に存在する、「第三の世界」とも呼ぶべきものである。

 コンピュータが可能にした偉大なことの一つは、そのすべての物事を0と1とで表したことである。文字、画像、音楽、動画、ソフトウェアをも含めたすべてのものを、コンピュータは0と1という言葉で表現する。もちろん、その表し方は様々である。例えば文字であればJISやEUC、SHIFT-JISなどの様々表し方がある。画像だって、JPEGやGIF、BMPやEPSなどの様々な方式がある。しかしこれらは、0と1の羅列を人間にとって意味あるものへと変換するその方式が違うだけであって、すべてのものごとが0と1に変換され、そしてすべてのものごとが0と1から生まれていることには変わりはない。いわばこの0と1は、すべての言語を超えた超越言語であり、「デジタルの世界」の構成元素とでも呼ぶべきものである。

 現実世界のすべてのものごとは、水素や炭素などの103の元素から成っている。その103の元素の組み合わせで、人間も含めた様々な生物、物質が形作られる。それと同じくデジタルの世界では、0と1とが構成元素であり、その組み合わせにより、文字や数字、ソフトウェアなどの様々なものが形成される。ではいったい、私たちの心の世界の構成元素は何であろうか。私たちの様々な思考や感情、思い、悩み、これらはいったい私たちの心の中で、どのような超越言語により表現されているのか。そしてもしその超越言語をつかむことが出来れば、私たちは感情や思い出という漠然としたものを、自分の心の中で再現したり、または保管したり、あるいは他人へと伝達することができるかもしれない。それが良いのか悪いのかは分からないが、そんな心の世界の構成元素を見つけ出すことが、科学的な大きな興味をもたらしているのは、また確かであろう。

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1010:行き着くその果て

 「目的の国」という言葉がある。この前辞書を引いていたら偶然見つけたのだが、個人的にその響きが気に入ってしまい、僕の「好きな言葉」リストに入れてしまった。本来はカント哲学において使われる言葉なのだが、正直言って哲学的なその意味はよく分からない。いつか本などを読んで勉強しようとは思っている。

 最近、といっても今年の1月くらいからだが、僕はこの「目的」というものに囚われている。というよりも引っかかっている。「目的」というのは「意味」や[意義」に取り憑かれた人間らしい言葉で、自分が今行っている行為にどういう意味があるのか、それがどんなことへとつながっているかという「目指す先(aim, goal)」を表すものである。そしてそんな「目的」を常に「意識」しながら日々行動していくことは、一つの理想的な生き方とされている。例えば会社の経営や国の政策などでは、予め長期的な戦略を立てて、それに基づいて一年ごとの目的や目標を設定していくことが求められる。また個人が論文や企画書を書き上げる時でも、たいていは最初にその目的なるものを書かなくてはいけない。

 もちろん目的を意識しそれを明記することは大切であるが、僕はこの「目的」というものにどこか引っかかっている。それは一つは、すべての行動に明確な目的が必ずしもある訳ではないし、またそれをその本人が予め意識しているわけでもないということである。目的とは先に「築く(found)」ものであると同時に、後から「気付かれる(found)」ものでもある。人は時として理由もない行動を起こし、そして後からその行動の理由を探し、あるいは理由を付ける。それは珍しいことではなく、むしろそんな先の築きと後の気付きを通して、人はより多くのことを学んでいくのだと僕は思う。そういう意味では、予めがちがちに目的を定めておくことは危険でもあるだろう。

 そしてもう一つは、何かのため、何かのためとその行為の「先」を追い求めていくのならば、その行き着く果てにあるものは「生きる目的」なのではないかということである。しかし人が何のために生きるのかという、その「生きる目的」なるものは、そう簡単に答えを導けるものではない。

 僕が「目的」というものに引っかかっている最大の理由は、その行き着く果てにある「生きる目的」への答えが見出せないからなのだろう。そしてそのことが、「目的」という概念そのものに何かしらの疑念を抱かせるのだろう。「目的」というこの奥深い言葉との格闘は、どうやら長らく続きそうだ。

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1005:その問いの後ろ

 人は時に様々な問いに悩まされる。例えば自分とは何なのか、生きるとはどういうことなのか、自分は将来どうしたら良いのか、何故人を殺してはいけないのか、人を愛するとはどういうことかなど、それは実に様々だ。そして人は、時に他人からそのような問いを尋ねられる。ある時は友達から、ある時は恋人から、ある時は部下から、そしてある時は子供から。そんな時人は、果たしてどのうような答えをしたら良いのだろうか。

 この間「何故人を殺してはいけないのか?」という本を買って読んでいたら、とても興味深いことが書いてあった。このような様々な問いかけは、その問いかけ自身よりも、何故その人がその問いに悩んでいるのかの方が、より重要であるというのだ。このような問いは、真剣に考えれば考えるほど答えを出すものは難しいものである。そしてそうだからこそ、子供の何気ない問いかけに、大人の方がむしろあたふたしてしまうことが多々ある。けれどより重要なのは、その問いを何故その人がするようになったかであって、むしろその問いの後ろにあるものに対して答えを出していく方が、より効果的なのである。

 人が自分とは何かなどと考えるのには、いろいろな場合があるだろう。ある時は本当に哲学的意味で考えたいと思っているのかもしれない。そしてある時はただ単に何気なく問いかけたのかもしれない。そしてある時は、何か自分に自信がもてなくなったから発した問いなのかもしれない。その場合と状況に応じて、答えるべき答えも違ってくる。

 最近ぼくの周りには、「将来どうしたら良いのだろう」という問いに悩んでいる友達がいる。そして時にそのような問いを、僕自身も投げかけられる時がある。人がこの問いに悩むとき、その背景にあるのは、おそらく未来への不安と、自分への不安なのだろう。先の見えない不安に襲われて、そして自分を見失って、このような問いにとらわれるのだろうと僕は思う。

 これらの問いに対する一番の答えは、むしろその答えの内容ではなくて、その人自身が答えを探す過程でたどり着いた「確信」である。そして他人の僕に出来ることは、その本人が確信に至る手伝いをすることであって、必ずしもその問いに答えることではない。僕はその問いに色々答えたりはしたが、おそらく僕がその問いに答えても、彼自身が彼自身の答えにたどり着かなくては、本当の意味はないのであろう。確信へと続く道のりは厳しく険しいが、僕の友達がいつかはその確信へとたどりつくことを、今の僕は祈るしかない。

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