なぜ桜は好まれるのか



日本に四季はなかった

あなたは、四季のうちどれがお好きだろうか?

この質問に悩んだとしても、意味がわからないということはない。四季のイメージが統一されているからである。国や民族によっては異なった解釈を持つだろうし、1年が4分割とも限らないのである。

そもそも、季節というのは気温や太陽の高さから出たものとは考えられない。もちろんそれらにより季節は移り行くものだろうが、実際は、人の行動や自然の状態を指すものだろう。つまり、「衣替えの季節」だとか、「若葉萌ゆる季節」というようにである。そして、日本は縄文以来の農耕民族であるから、最大の行事は「種まき」と「収穫」であったはずである。魏志倭人伝によると、これらふたつにしか分かれていない(中国は春夏秋冬)とある。(魏志倭人伝自体が日本を記したものか、あるいは一部の集団のみを指すものかなど、筆者自身はあまり信憑性を感じていない)天文学の発生自体がこれらを適切に執り行うためにあったと言えるだろう。

天文学によりこれらの時期が春分や秋分に近いことから、春分や秋分も重要な位置を占めてくる。六道という占いがある。これは春分と秋分を起点として、その日の吉凶を占うもので、何事にもよいという大安から、仏滅(昔は物滅でホトケとは無関係)までに分けるのである。今でも、結婚式は大安だとか、友引に葬式はいけないだとか、我々の行動を支配している。その起点が春分・秋分であることは、それらが重要な起点であった証だあろう。

1年の始まりはいつだろうか?

言うまでも無く「春」である。1月1日ではない。カレンダーが出来る遥か以前から春が存在した。そのため、多くの民族が「春」を、現在のカレンダーでは春分の頃、切れが悪いので4月1日を年の始めとした。ヨーロッパでは、4月1日は新年を迎えるめでたい日なので、お祭りをしていた。後に1月1日に年初めが移ったが、4月1日のお祭りは残った。エイプリルフールはこの名残である。

以上のように、日本では、春が1年の始まりであり、それは稲作を中心とした農耕民族にとっては、特に筋蒔き(米の種まき)が重要なのである。なお、その重要性は現在の日本においてもいささかも変わらない。



桜前線は北上する

桜前線も北上中という季節になった。なぜ、桜前線は北上するのだろうか。

桜前線とは、日本各地にソメイヨシノを指定した標準木を設け、それらが開花した位置を線で結んだものである。桜前線は桜が開花前線である。これが北上するのは、桜の開花が南では早く、北では遅いからである。しかし、長野県など高地では開花が遅れる。

桜の開花は、気温によって決まるからである。

桜が咲くということは、雪が融けていて、ある程度の気温、水温になった証である。この気温、水温だと稲が発芽できる。1年の作業開始を示している。

作物栽培で重要なのは、種が芽を出すこと、実を付けること、取り入れができることである。芽が出ないほど早く種まきをしたのでは何にもならないし、時期を逸して実が付かなかったり、取り入れが出来なくなってもだめなのである。

自然のことを人間が知ることは難しい。自然のことは自然に聞くしかない。餅は餅屋、ワインはソムリエである。それが桜を代表とした、植物や自然現象により季節を知る理由である。



桜を愛でる

さあ、1年の仕事始めだ。事がうまく行くように、神に祈ろう。お祭りだ、飲めや踊れ。

まあ、現在でも初詣に行き、おとそを祝い、舞を奉納しているから、変わっていないのだが、年の初めが4月だったら、どこがいいだろうか?

桜の木の下。

花見の起源はは神事だったのではなかろうか。

魏志倭人伝では邪馬台国を卑弥呼が治めていたとなっている。ある説では、邪馬台国は大和国であり、卑弥呼は姫巫女だという。沖縄弁では他県人をヤマトゥンチュウ(大和の衆)ということも符合する。

今は昔、卑弥呼が桜の下で豊作を祈って神事を執り行っていたかもしれない。

前ミレニアム(西暦1000年頃)は平安の世であった。少数の特権階級である貴族にとっては桜は楽しむもの。何も実作業をしない管理職が貴族で、それが偉いと勘違いしたのが現在の国家公務員キャリア制度に続いているようだ。彼ら桜に春を詠んだが、庶民は桜に種まきの季節を知らされ、豊作を祈り、汗水たらして働くのである。

江戸に入り、武家社会でも桜を賛美した。散り際の潔さが武士の好みに適ったという。多分こじつけであろう。江戸の町民も花見を楽しむが、彼らを一般人と考えてはいけない。江戸は特別な地域である。都市部と農村では貧富の差が激しく、落語「長屋の花見」ではタクワンでお茶を飲むのが笑いとなるが、農村では本当にそれも贅沢だったに違いない。

誰もが花見ができるようになったのは戦後だろう。NHK「おしん」は明治の終わりころが少女時代だったと記憶しているが、おしんが一家揃って花見をしているとは思えない。おしんが特別ではなく、戦後しばらくまで普通にある話であった。

特権階級の真似がしたいのが庶民であるから、日本中が花見をするようになったのだろう。それがバカ騒ぎになってしまったのは情けない。江戸時代なら幕府に禁止されるだろう。

冷静に考えると桜は美しくない。遠くからだと赤や黄色の花の方が綺麗に見える。春なら「いちめんの菜の花」がいい。チューリップはカタカナなので論外である。日本の春ではなく、オランダの春になってしまう。普通の桜は薄いピンク、桜色で、遠くからは白い花に見える。隣の家の桜の花びらが自分の庭に散っても許せるが、桜の落ち葉なら許せないというのは身勝手で、差別しているのが間違っている。桜の花びらも散ればゴミにすぎない。

。好きな宝石を聞かれても分からないからダイヤモンドと答えるように、好きな花がわからないから桜と答える人が多のではないか。薔薇愛好者や蘭愛好者はいるが桜愛好者はあまり聞かない。さくらんぼ農家が桜愛好者なのだろうか。

桜の花は命短く散っていく。その名を採った桜花は日本軍の有人ミサイルで、その操縦者は必ず爆死する。日本人は花火好きでもあるので、桜に美しさより、儚さや潔さを見たのだろう。

春浅い時期に葉のない梅や桜は厳しい冬が過ぎさり、新たな年の始めを知らせる。それらが桜を好むようになった所以ではなかろうか。それが、時の権力層の解釈を加えつつ、今日に至る。

などと考えて桜を愛でる。

平和だ。




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