オリンピックの精神



参加することに意義がある

『参加することに意義がある』とは近代オリンピックの父、クーベルタン男爵の有名なことばである。そのまま受け取ると、オリンピックに参加できるだけで素晴らしいということになる。確かに、オリンピックはその地域で最も強いアスリートが出場する。もちろん、出場できなかった選手の中にも、素晴らしい実力を持っている人も少なくない。ある意味では、出場選手はその地域の代表であり、ナショナリズムを確認させられる存在である。筆者はオリンピックで日の丸が中央に揚がり、君が代が流れるシーンに感動を禁じえないが、日の丸や君が代反対派の人々はどう受け取めているのだろうかといつも思う。例えば、国家が<つんく>作、<モーニング娘。>歌であっても、感動が薄くなるような気がする。ちなみに、『I Wish』では<なっち>のパートが少なく残念である。

参加した、あるいは参加できただけで素晴らしいのだから、勝敗にあまり拘るなというのが本来なのだろうが、最近、他の意味でも真理であることに気が付いた。

それは近年のオリンピックへの警鐘でもある。



肉体改造から改造人間へ

オリンピックでもドーピングは当然禁止されている。薬物により競技を行うことは、反則としてはかなり重い罪となる。しかし、食事や運動による肉体改造には制限がなく、禁止薬物でなければやり放題である。

旧東ドイツでは少女に男性ホルモンを注射し、男性化させていた。遺伝子的には女性であるから、女性として競技に参加するが、肉体的には男性である。メダルは取れたが、その後遺症で肉体的にも精神的にも苦しみ、性転換した人までいて、今なお千人もの人々が苦しんでいるそうである。

高地での練習により赤血球数を増加させるのはもはや常識である。選手は血液を検査し、食事や飲み物を管理される。それもビジネスとしてであり、広告料や出場料などにより成り立っているのである。

選手も観客も、より速く、より遠くへという思いは同じである。100mが5秒だったり幅跳びが20mだったりしたらどうだろう。不可能ではない。チータは最高時速120キロだし、イルカは水泳が得意である。動物の筋肉は人間の比ではない力を持っているという。事実、遺伝子操作により、それらの能力を得ようという研究がされている。数十年後のオリンピック選手はもはや人間とは呼べないものになりそうである。

改造人間は我々の代表たりえるだろうか。例えば、仮面ライダーなら、幅跳びや高飛び、ボクシングやテコンドーなら向かうところ敵なしだろう。しかし、それを本当に我々は望んでいるのだろうか。



だから、参加することに意義がある

人間の人間による人間のための競技会がオリンピックであるべきである。改造人間のためのものでは決してない。だから、『人が人として、参加することに意義がある』ということになる。クーベルタン男爵の言葉は、実に奥が深かったのだ。

そういった意味では、パラリンピックの方が人間的であり、オリンピック本来の姿を残しているような気がする。筆者はオリンピック以上の感動を受けることがしばしばあるが、いかがだろうか。パラリンピックにこそ、参加することに意義があるという言葉が一致するのではないだろうか。

中国で、魚の角膜を人間に移植する手術をした医師がいて、問題となっているが、失った足の代りにイルカの尻尾を移植すれば、人魚の出来上がりである。あるいは義足での競技が可能なら、アンドロイド化も可能ということになる。パラリンピックもオリンピックと同じように、選手が改造人間化していく危険性は持っているのである。

これらを防止するため、早めの対策が必要である。本来の意義を守るために。




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