ネット後進国日本



パソコン後進国となった訳

日本はパソコンやIT関連機器も普及しているように思っている。確かに機器はあるだろう。それは戦後に日本人が復興から得た経済的地位によるものであり、日本が先進国であるからではない。確かに、経済的には先進国の中に入れてもらっているが、パソコンやIT関連においては、まだまだ後進国である。

通常は、後進国という言葉は使用しないことになっているが、自分のことだからいいだろう。それより、発展途上というのは先があるような印象を受けるから使用できないのだ。日本のIT関連が、今以上に発展する可能性がないからである。

戦後、日本の技術は世界的に認められるものだった。なんでも真似して作ってしまう。それも、より小さく、軽くするのがお家芸だった。だから、「Made in Japan」が世界中に溢れていたのである。現在はどうだろう。日本製よりも、他のアジア諸国製が溢れている。特にパソコンなどの電子機器については、台湾製が良いとされているのだ。

日本がパソコンについて後進国となったのには理由がある。

まだパソコンがマイコンと呼ばれていた頃。それほどの遅れはなかった。というより、まだ大きかったコンピュータを小型化し、マイコン制御が可能なくらい小さくしたのは日本が世界初であった。アメリカでエンジンを制御するためにマイコン製造の白羽の矢が立ったのは日本の東芝であった。4ビットマイコンである。

その後もアメリカのメーカーに引けを取らない技術力を発揮し続けたが、時代に変化が起きた。IBM社がパソコンを販売したのである。「IBM PC/AT」(パーソナル コンピュータ/アドバンスト テクノロジー)がそれである。現在販売されているパソコンは、すべてこの後継機である。AT互換機というのはそのためである。

PC/ATはパーツの組み合わせでできている。IBMはその仕様を公開し、他のメーカーがパーツを作れるようにしたのである。多くのメーカーからパーツが提供され、多くなればなるほど、性能・品質は高くなり、価格は安くなった。世界中に広まるのは当然だっただろう。

しかし、アメリカと肩を並べるほどだった日本は、自らの技術により、それらを参考にしながらも、独自のパソコンを作り上げていた。NEC PC-9800シリーズである。開発当初は両者とも似たものであったが、世界対日本の1メーカでは競争はできるはずもなかった。日本のパソコンは独自に発展し続けた。互換性がなく、部品も高価なものに成長してしまったのである。ちょうど、進化の系統樹において、枝分かれしたようなものだ。アップル社のように生き残ったメーカもいるが、PC-9800シリーズは系統樹から消滅した。現在のNEC製パソコンはAT互換機(100%ではないらしい)であり、以前のPC-9800シリーズとの互換性はまったくないのである。

日本がPC-9800シリーズにより鎖国していたその間に、台湾がパソコンの世界的中心地にまで発展したのである。江戸時代の鎖国により、日本文化は元禄文化などのように独自に発展したが、西洋化は明治の開国、鹿鳴館時代までおあずけとなったのと同じである。日本の西洋化が、それが良いというわけでないが、遅れたのだ。

そして、その地位を奪い返すには遅すぎたのであり、今後もその可能性はないだろう。完全な後進国となったのである。



日本はIT後進国を自覚すべし

政府はITをお題目にしている。意味は多分知らないだろう。首相は最初、「イット」と読んだらしいし、現在までに勉強したとも思えない。なぜなら、勉強熱心なら「首相の心構え」までいかなくても、「問題の起きないスピーチ」くらいは勉強しているはずだからである。

5年後までに通信網を整備するらしい。諸外国ではすでに整備済みなのに5年もかけていいのだろうか。どうして、こんな事態になってしまったのだろうか。

これも、1社による独占が原因である。電電公社、NTTである。

NTTが分割民営化されたといっても、NTT東日本とNTT西日本に競争原理が働いているとは思えない。テリトリーが違うから戦うはずがない。米国ではAT&Tをはじめ多くの電話会社があったため、本来の意味での競争があった。これは鉄道においても同様の現象がある。競争やライバルがあって、発展するのである。

世界には、電話はおろか、電気もない地域がいくらでもある。森首相は電気も電話もない地域なら携帯電話を使えばいいと発言して失笑を買ったが、ひどい間違いではない。衛星通信の携帯電話なら地球上のどこからでも通話可能であり、日本でも災害時のために準備しておく企業や自治体もある。先ごろ、その会社が経営不振になったようだが、高価であるため浸透しなかったためだ。時代より早すぎたのだ。

通信料金が高いと普及しない。もちろん、機器などの初期投資もそうである。やっと少しだけ安くなったとはいえ、爆発的普及の材料にはならないだろう。市内通話はサービスとして無料であるべきである。

それだけではない。回線が低速なのだ。高速通信が可能な接続での多くは10Mbpsであり、NTTの通常は64Kbps(ISDNの場合)である。一応解説すると、M(メガ)は百万、K(キロ)は千である。ということは、10Mとは1000万、64Kとは6万4千という値になる。bps(ビット/秒)は回線を1秒間に流れる信号を表す単位である。通信方式や圧縮によりコンピュータ内部のビットと等しくない場合もあるが、概ね同じだと思って差し支えない。単位を円として金額だと思えば、その違いの大きさが実感できるだろう。

政府がどのように通信網を拡充しようとしているのかわからないが、おそらくNTTを使ったもので、64Kかよくて128Kだろう。5年後にそれでは、IT先進国からずっと引き離されるのは目に見えている。マラソンで言えば、先頭に付いていくのは無理だから第2集団か第3集団でいいから適当に走れと指示しているようなものである。経済の原理では先頭に立った者が最も儲かるのだからこの指示では儲からない。政府のIT戦略では、すでに負け戦であることが決まっている。

戦に無能な将に従って赴く兵は不幸である。政府に諸葛亮孔明がいるようには見えない。盆暗という言葉がある。盆とは博打をする賭場のことであり、暗いというのは、見えていないということである。つまり、場の状況が読めず勝てないばくち打ちを表す。政府も状況が見えておらず、IT分野において勝てない戦略を打ち出している。この政府は××である。(××には何と入るでしょうか)



他山の石

政治家が言葉を知らないのは昔からで、不祥事などを他山の石とすると発言した人がいた。まあ、対岸の火事とは言えないだろうし、教訓にすると言っても、逮捕されないようにうまくやるという意味が汲み取れる。

他山の石とは、他の山で採れた石、この石とは宝石を意味している。玉石混交の石ではないのだ。他の宝石で自らの宝石を磨く。つまり、良い行いなどを見習って行きたいという意味である。悪いものに使てはならない。

明治以降、日本は諸外国に自らを合わせ、仲間入りすることを目指してきた。鹿鳴館時代は外国人との混血化を奨励までした。特に戦後はその傾向が強まり、西洋化は文明開化時以上である。歌は英語の題名、グループ名も英語、髪の毛が黒い者は珍しい。ロカビリーブームやグループサウンズブームの比ではない。

もちろん、他山の石として、西洋文化を取り入れるのはいい事だろう。だが、形や見た目から入るのは少々違ってはいないだろうか。幼児は周りの影響を受けやすい。幼児に良いことと、悪いことの区別は難しいはずだが、悪いことはすぐに真似するが、良いことはなかなか覚えてくれない。人間は本質的にそうらしい。

政府も例外ではない。外国から執政に都合のよいところは取り入れるが、それによる弊害は考えない。義務教育で、個人主義を教え、個性を伸ばし詰め込み教育はしないようになった。成績より自由な個性を良しとしたのである。その結果、学力が低下し、団体行動が取れなくなった。成人式がああなったのは、義務教育の帰着に他ならない。また、犯罪の低年齢化も、教育方式を真似た外国に単に近づいているだけである。これも、当然である。

都合のいいところは真似て、不都合な部分には蓋をする。プルサーマルについてもそうだ。他県では違うだろうが、新潟県内ではプルサーマル奨励のCMが流されている。そのCMが敬愛するエジプト考古学の吉村教授であることが悲しい。それによると、欧米ではプルサーマルが盛んで実績もあり、リサイクルできる唯一のエネルギーだと力説している。盛んだという外国は、フランス、ドイツであるという。どちらの国も原子力発電を廃止しようとしているのを、なぜ紹介しないのだろうか。核燃料のリサイクルでいえば、高速増殖炉もんじゅは、稼動すると核燃料が増えて行く夢の原子力発電であった。事故があり夢のままになっているが、研究自体を諸外国はやめてしまっている。

原子力発電を廃止する国がやっていたから日本もやるというのは滅茶苦茶な論理である。外国で問題が起きた薬品を、それでも日本は使うと宣言するようなものだ。HIV感染血液による血液製剤を、外国で問題になった後も使用して被害を拡大させたのも、そういった体質によるものである。

良いところは真似するのは当然だが、それによる他の弊害も併せて検討すべきであるし、先進国がそれにより現在はどうなっているのかも広報すべきである。

これからの経済は、ITによるところが大きいが、すでに先進国からは離され、このままでは日本経済は崩壊するだろう。赤字国債を減らす努力をし、ITは早期拡充を目指し、5年後には世界のトップとなるような政策が必要である。

首相は誰でもいいのだ。首相はコロコロ代わるし、大臣はそれ以上に代わる。はっきり言って、誰でも大差ない。自民党から旧社会党などへ与党が移り変わっても何も変わらないのがその証拠である。この国がこうなったのは、官僚=キャリアによるのだ。

いっそのこと、無政府状態の国を見習った方がいいのかもしれない。




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