正しい言葉を考える



「正しい」の定義

1+1=2

この式は正しい。

偉人の中にはこれを疑問に思った人もいたが、我々には疑問の余地がないくらい普通のことである。では、なぜ正しいのだろうか。

値として、1を定義し、1から1だけ多い数を2と定義されているためである。10進数である前提があることもあるだろう。2進数なら1+1=10である。

このように、定義がはっきりしているものは、誰にでも正しいかそうでないか判断可能となる。しかし、言葉にははっきりした定義がない。広辞苑や国語辞典には言葉が定義されているようだが、そうではない。意味が書いてあるだけなのだ。

言葉は時代によって移り変わるものである。古事記や枕草子、江戸文学や明治の文豪の作でも、不明な言葉や今とは意味の異なる言葉が出てくる。古事記に至っては漢語であるから、読み下すことも困難だ。口語の発音を漢語化するためか長く複雑な名前になっていて、モンゴル人の名前のようにも感じる。枕草子では誰もが知っている「いとをかし」は「非常に趣がある」と教えられた。橋本治氏の桃尻語訳では「すっごく素敵」と訳されている。どちらも正しいだろうが、「趣がある」では意味が解らない若者も多そうである。そういう人からすると、正しい訳ではないだろう。

しかし、言葉の本来の意味を知ることも必要でる。コギャルに通じない日本語は正しくないということはないし、コギャルが使っている言葉が正しいとするのも違うだろう。では、どの程度浸透すれば正しいのだろうか。誤用も大多数の人が認めれば正しいとせざるを得ない。

「独壇場」は正しいだろうか。これは「どくだんじょう」と読む。辞典にもあるし、パソコンの日本語入力でも表示される。これは「独擅場」が本来の言葉である。「どくせんじょう」と読む。パソコンの日本語入力では表示されないほど誤用の方が広まっている。難読誤読の問題集などでなければ、前者を使用した方が正しいとされるだろう。

「快刀乱麻」という言葉は、映画やドラマから広まったのだろう。これも本来は「快刀乱麻を断つ」であり、「快刀」によって「乱麻を断つ」ように、物事をすっぱりと解決したり、乱れを一掃することを意味する。

これらのように、多くの人が用いる言葉は正しいのだろう。しかし、その元となった言葉や、本来の意味を知っていた方がよりよいのも事実である。そして、それを知ると、本来の意味の方が、より正しいと感じるようになるはずである。結果、誤用が多いのは、元の意味、正しい言葉をちゃんと学ばなかっただけだということが解る。

コギャルや若者言葉を笑ってばかりはいられない。ワイドショーばかり見ている主婦は更に酷いものだろう。



ちょっと昔のことば

「おまえ100まで、わしゃ99まで、共に白髪の生えるまで」

結納に共白髪があり、こんな言葉も以前はよく聞いたものである。これは、誰が言っているのだろうか。

これは妻が夫に言っているのである。逆だと思っている人も多いだろう。「おまえ」は「御前」で、「ごぜん」である。「御前様」というと解りやすい。もっとも、誤用するような人は「午前様」しか知らないのだろうが。

似たように「キサマ」がある。漢字では「貴様」であり、どう見ても綺麗な言葉で謙譲の意図が汲み取れる。「貴男・貴女」「貴方」はその名残だろうか。軍隊か戦後の映画の影響で、異なった使い方がされている。

また、丁寧語も時間が経てば丁寧さを感じなくなるのも事実である。ご丁寧な言葉の例に「おみおつけ」がある。元は「つけ」である。丁寧にするために「お」を付けて、「お付け」。更に「み」を付けて「みおつけ」。更に「お」を付けてしまったのである。だから、漢字で書けば「御御御つけ」である。「御簾中」や「御台所」は「殿」や「御館様」の御内儀のことであるが、お読みになれるだろうか。前者は、「御簾」(みす:すだれ)の中に居るということだが、「ごれんじゅう」と読む。後者は「みだいどころ」である。

逆に言えば、日本人は丁寧語が好きな民族だということになるだろう。

「くしゃみ」は今では風邪の兆候の「ハクション」自体を意味している。元がくしゃみの音だと思っている人もいるかもしれない。江戸っ子は「ハークション!ちきしょうめ」と決まり文句のように言うという。「くしゃみ」は、この「ちくしょうめ」に当たる言葉である。コマーシャルにも使われたので知っている人も多いだろうが、能などでは「くっさめ」である。その元は「くそはめ」で、漢字にすると「糞食め」で、「くそくらえ」とまったく同じことばなのだ。呪い(まじない)のことばとして、くしゃみの後に言ったのである。



言葉と宗教

「袖触れ合うも多少の縁」ではなく、「袖振り合うも他生の縁」である。現在生きているのは今生(こんじょう)で、「今生の別れ」などと使うが、「他生」は今生ではない、前世のことである。「こうして遭ったのも前世の因縁」だという意味である。これは仏教の輪廻転生思想によるものであり、仏教の因縁とは、原因があって結果という縁がある因果応報という思想である。

日本は仏教が主だろう。葬式や墓参りのときだけの俄か仏教徒が多いだろうが、クリスマスや結婚式だけの似非キリスト教徒よりはマシである。では「懺悔」はどう読むのだろうか。キリスト教では「ざんげ」であるが、仏教では「さんげ」である。濁らない。

米英における宗教はキリスト教が主であり、彼らは聖書を読み覚えるが、日本の仏教では「お経」は何を言っているか解らないし、そんな抹香臭いことは避けがちになるから、ことばすら覚えない。しかし、生活や言語は宗教に依存している部分が多いのである。「抹香臭い」ですら通じないかもしれない。

イエス・キリストがジーザス・クライストなのは常識だろう。新約聖書にある「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」は英語ではない。では英語の名前で言えるだろうか。「MATTHEW」「MARK」「LUKE」「JOHN」である。あえて日本語発音にすれば、「マシュー」「マーク」「ルーク」「ジョン」となり、ぐっと身近な感じがしてくる。

「猫に小判」「豚に真珠」「馬の耳に念仏」「糠に釘」は無駄や無意味を指す意味である。この中にキリストの言葉があるのだが、ご存知だろうか。

ファイナルアンサー?

「豚に真珠」、新約聖書に書いてある。

「門前の小僧、習わぬ経を読む」があるかと思えば、「習わぬ経は読めぬ」というのもある。「七転び八起き」があれば「七転八倒」もある。「三度目の正直」があれば「二度あることは三度ある」である。どちらでもいいようにできている。「来年の事を言うと鬼が笑う」といい、「昔の事を言えば鬼が笑う」という。鬼は大抵笑っているらしい。

「仏の顔も三度まで」は、軍を進める前に釈尊(お釈迦様)がいたため攻め入ることなく退いたが、数度目には釈尊がおらず、攻撃したことから出ている。三度まで過ち(戦い)を起こさないようにしてくれたのである。

数字を使った言葉には3が多い。日本人が3が好きなのは、長嶋監督の背番号だけのせいではないようである。日本人は「3、7」が好きで、「4、9」を嫌う。「死、苦」の音のためだろう。西洋の「13」はキリスト教において、キリストの第13使途ユダに由来するのに比べるといかにも安直にも思える。しかし、「死、苦」は仏教の根幹(釈尊の悟りの重要事項)でもあるから、宗教から発しているといえば同じなのである。

「死」というと「一休さん」を思い出す。長い紙に何かありがたい言葉を書いてくれという願いに「し」と書いたのは昔話である。一休禅師は「親死に、子死に、孫死に」と書いた。願った人は何を不吉なと怒ったのも当然であろう。だが、これが一番幸せなのだというのだ。人は生まれたからには死は避けられない。仏教では重要な事柄であるが、当たり前っちゃ、当たり前(タモリ風)。だが、この順番が違うと悲しみは順番どおりの時の比ではないというのである。流石に大人の一休さんは深い。



外来語の氾濫

日本は外来語が氾濫している。外来語をありがたがる傾向さえ感じられる。

歌は英語の題名に英語の歌詞、グループ名ならほとんど外国語風になっている。子供番組の主題歌でさえ英語であることもある。英語が必要なのは真実であり、それに問題はないが、正しくない英語を聞かせ、正しい日本語すら覚えられないのはいかがなものだろう。

しかし、昔も相当酷い取り入れ方をしている。温故而知新、それを見てみよう。

ミシン。機械的に縫製することができるものである。

外来語だが、何処の国でも通じないだろう。ソーイング・マシーンの最後だけにしてしまったのである。筆者の場合、単にマシンというと、コンピュータを表すし、人によっては車を表すだろう。医者なら、麻疹だと受け止めるかもしれない。これはかなり酷い。

アイロン。鉄のことであるが、通常洗濯物などのしわを伸ばす物をいう。

発音はアイアンが適当だろうが、アイアンというと、ゴルフクラブの種類になる。これは引っ掛けで、英語でもアイアンはアイロンのことである。動詞として用いるとアイロンがけをすることを表す。発音だけの問題だった。

「裏の畑でポチが鳴く」は「はなさかじいさん」であるが、そのじいさんの犬の名前は何かご存知だろうか。「しろ」である。「ポチ」の方は明治以後に作られた歌であり、はなさかじいさんの時代はずっと昔なのだ。「ポチ」は長崎・出島で外国人が犬を呼んでいたのが広まった、「小さい」の「プチ」と同じであり、いわば「ちび」である。

人名、地名は昔の方が凄いことになっている。リンコールン、ペルリなどはまだ原型が解るが、ギョエテは可哀想である。ゲーテのことである。

日本人は外国の地元の発音には無関心で、日本風にすべてしてしまうようである。しかも、勝手に約す始末である。ロス・エンジェルスをロスという。向こうではLAだ。これは自らについても同じで、日本は「にほん」か「にっぽん」かも示さず、外国では「Japan」だという。「ハポン」や「ヤーパン」は少しは似ている感じもするが、「ジャパン」は差が甚だしい。「J」の発音の違いで、最初にヨーロッパに紹介した言語からの移り変わりだが、それを訂正することさえしないのである。全ての国を現地発音に変えれば、より国際化に近づくと思うのだが。

「かるた」「カード」「カルテ」は別の物を表す。病院では、診療カードを受付に出すと、カルテが用意されて診療してもらえる。診療カルテを出して、カードが出てくるというと妙である。実は、カルタはポルトガル語、カードは英語、カルテはドイツ語からの外来語であるが、同じ言葉の発音違いである。医療用語は昔の日本ではドイツ語だったため、こういう混乱が多い。レシートはレセプトという。英語のレシートの綴りには「p」が入っているから、尚更混乱しやすい。江戸時代の医学はオランダ語だったから、それも含めると滅茶苦茶になる。ちなみに、江戸時代の医者は無資格だったから、誰でも看板を出すだけで医者になれた。藪医者がいて当然である。

「カンガルー」や「カレー」は英語からであるが、英語になるときに勘違いがあった。これは向こうの責任だが、外国も同じだという例だろう。カンガルーを始めて見た人があれは何だと聞くと、「カンガルー」(わからない)と答えたという。カレーも、あれは何だと聞いたら、具のことだと思って「カリ」と言ったらしい。諸説あるので、その辺は正確には解らないが、知らないととんでもないことになる。鍋料理を始めて見た人がこれは何だと聞いたら「てっちり」と言ったら、鍋料理がすべて「てっちり」になってしまうようなものである。もっとも、力士が食べる鍋を「ちゃんこ」だと思っている人がいるのだから、同じようなものである。力士の食べ物全部が「ちゃんこ」で、食物全体を現すのである。

英語発音をちゃんとしようとすると最初は恥ずかしいだろうが、妙な日本的発音の外来語を氾濫させておくよりいいように思うのだが、いかがだろうか。

旧約聖書によると、人が神に近づこうと巨大な塔を建てたが、神の怒りに触れ、塔は壊され、人々の言葉も別々にされてしまったい、その塔はバベル(乱れ)の塔と呼ばれたという。言葉は乱れる方向にのみ向かうのかもしれない。エントロピーは必ず増大するのであるから、その傾向があるのは当然ではあるが、神(自然、時の流れ)によって変遷するのは致し方ないが、ことさら自らの手で乱す必要はないはずである。言葉を守ることができるのは、人間だけなのだ。




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