死生観と宗教



生命について考える

命は大事なものとして考えられている。

生命というと、動物や植物を思い勝ちだが、微生物や細菌、ウイルスなども生きている。ある乳酸飲料では、小さな入れ物の中に400億の乳酸菌が生きているという。

それらも命があるだろう。

生命の起源は単細胞生物で、多細胞に進化したという。古代、最初の生命は、単細胞といっても、細胞壁、核、ミトコンドリアが合体してできたもので、3種類の生物からひとつの細胞が作られたのである。

ミトコンドリアは、酸素を使ってエネルギーを作り出す生物で、これがなければ細胞は生きていられない。当然人間の体にもあり、核にあるDNAとは異なる独自のDNAを有する。通常DNAは両親から半分ずつ受け継ぐが、ミトコンドリアのDNA、即ちミトコンドリアは母親からのみ受け継ぐものである。

体の細胞は一つ一つが生きている。死んでしまえば新たな細胞が取って代わる仕組みになっている。大規模に細胞が死ぬ場合、組織が欠落することになる。

サンゴは、サンゴ虫の集合住宅だ。多数のサンゴ虫によってひとつのサンゴが構成されるが、あたかもひとつの生物のようである。

クラゲは、ひとつの生命と見えた幼体が、岩などに取り付き、分裂して何体ものクラゲになるのである。

多細胞生物は細胞という生物の集合体である。生きた細胞はそれだけで生命を感じさせる。

脳もいくつもの細胞で構成され、その多数決により科学的に反応しているものである。

命はどこにあるのか。

心臓にあると考えたり、脳にあると考えたりする。

全ての細胞に命があると考えるべきだろう。



宗教的死生観

宗教の最重要な役目は法律としてである。

泥棒や殺人を禁止しているのは法律として、法治国家となる以前では機能していただろうし、生活をどう送るかも、決まりごとを示していたのである。

次に死後の世界を提示し、亡くなった者を弔ったり、より良い死後を迎えるための生き方を教えたりする機能を持っている。

第3に為政者が国を運営するためのより所である。宗教により国政を思い通りに動かすことが可能なのである。

これらは完全には分離できないだろう。

殺人を禁止した宗教でも、異教徒なら殺すことを奨励する。国のために死ぬことは魂に最善の方法で、命を賭けることもいとわないようにできるのである。

日本人は先の大戦でこれを知っている。それが無宗教へ駆り立てるのかもしれない。

死後の世界があるとすることが間違いなのである。

生命は細胞単位のものであり、たったひと瓶の乳酸飲料の400億の細胞も死後の世界に行くとすれば、物凄い魂が死後の世界にいることになる。

人間だけが死後の世界があるとか、人間が頂点に君臨するというのは、人間の驕りに過ぎない。

仏教的には、輪廻転生思想があり、小さな虫も、家畜も、人間も、行いにより行き来する。その上に転生しなくてもいい段階もあり、人間はそれを目指すのである。

死後の世界はないし、転生もしない。天国は西洋のもので、日本では極楽だが、それらも地獄もない。死ぬと無になるのではなく、太陽系が作られたときから存在する、元の物質に戻るだけだ。

だから、国の為に死ぬことも、天国に行くわけもなく、単に死ぬという事実だけなのだ。命を賭けてテロを起こすなど、騙されているのだということを知らなければならない。

命を賭けるのは、自分のためだけとしなければならない。命を賭けて愛するとか、愛するものを守るのも、よく考える必要がある。その対象が、指導者や為政者、宗教ではならないからだ。



幽霊と心霊写真

人間には精神があり、その精神は完璧なものではない。異常をきたしたり、崩壊することもある弱いものである。

だからガードする仕組みも持っている。

幼児期に虐待を受けると心に傷を負う。トラウマやPTSDとしてよく耳にするが、その虐待を自分ではないと精神が逃げようとする。ある種の現実逃避であるが、そのため多重人格になるのである。実際にいくつもの人格がひとりの人間に形成されるのだ。1台のパソコンに異なるOSが動くと考えれば分かり易いだろう。

眠ると夢を見るが、これは記憶に刺激が加わり、それが引き出され、それを分析し理由付けをして理解しているのである。死者も現れるし、子供の頃の思い出も出てくるだろう。夢の中で死んだこともあるだろう。夢は脳が解釈した結果であるため、心臓が悪ければ本当に死に至る危険性もあるほどリアルに感じるものである。

また、人体を守るために恐怖を感じる。高いところが怖いのはそのためである。鳥だって、最初は高いところが怖いようで、雛が巣立つとき、飛び出すのを躊躇する。

暗闇が怖いのも、夜行性の動物から逃げていた夜行性時代の名残だろう。それに昼光性となるときに得た色の感覚(夜行性時に一度退化した)によってか、夜目が利かなくなったし、目に頼ったため、音や匂いによる危険察知能力も非常に弱くなった。

学習により、火や刃物が怖いと思ったり、拳銃やミサイルが怖いと思ったりする。学習していないと、拳銃の発砲音がしても直ぐに伏せたりできないだろう。何の音かときょろきょろして銃弾を受けてしまう危険もあるのだ。

脳は危険を察知し、恐怖を作り出す。不信なものに理由付けするのは夢を見るプロセスと同じであるし、理由付けにはそれまでの体験や知識が用いられる。

ジャージを着た小さな妖精、風呂の排水溝に吸い込まれる妖精などが見えるのは、脳の構成した理由付けによる。コロポックルはアイヌの伝承だが、最近はジャージを着ているのだろうか。

幽霊も同じである。そう見えるのだから、本人には現実である。脳はそう見たのだから。安倍譲二氏の著書に「だってオレ見たんだもん」には反論してはならないとある。見た人を否定すると喧嘩になるし、喧嘩が命に関る商売をしていたためである。その人の脳はそう判断したのだ。それが論理的でなくても、科学的でもなくても仕方ない。しかし、事実は個人の判断の外にある。

霊感があるという人は、正常な判断力に欠けているのだろう。幽霊もおばけもジャージを着た小さな妖精も同じである。

心霊写真も、人間が顔を認識する場合同様、目と口だけで顔に見えるのだ。埴輪は単純な顔だし、へのへのもへじも顔になる。

写真でも、カメラによってシャッターの動作が異なるのに、心霊写真でそれを検証しないのはおかしい。

横幕走行では、前幕が走行し、ある間隔で後幕が走行する。縦幕走行では、それが上下となる。簡単な方式のシャッターも金属盤が動いて開閉するのである。

つまり、一瞬のようだが、写り初めと終わりまではタイムラグがある。横幕方式では60分の1秒、縦幕では125分の一秒程度の時間差となる。

幽霊も心霊写真も信じてはいけない。それは思い込みによるものなのだ。それをお祓いしないといけないなどという詐欺師に引っかかってはならない。

陰陽師が流行りで、それらしいのが雨後のたけのこのように現れた。あれは、鬼が都を攻め、天狗が闊歩していた時代のものだ。陰陽道で残ったものに、土用がある。土用には神の加護が得られないが、その代わりに玄武が護ってくれる。玄武は黒を表すから、黒いものを食べる習慣となった。泥鰌や鰻を食べるようになり、夏には栄養価の面から鰻を食べる習慣が残ったのである。




トップページへ