食べ物の好き嫌いと偏食



好みは十人十色

人の好みは十人十色で、食べ物に限らず、好き嫌いはそれぞれである。

アイドルでも、誰が好きかは人によって違う。“モーニング娘。”が好きだという人でも、なっちは好きだがごっちんは嫌いという人だっているし、その逆もいる。

森前首相が好きだと言う人もいれば、小泉首相が嫌いだと言う人もいるかもしれない。

しかし、それを矯正されることはほとんどない。

食べ物についても、好物と苦手なものが存在する。

好物は年齢に伴い変化するし、苦手なものが食べられるようになったりするのであるが、大人は病気にでもならなければ矯正されることはない。

色々な人がいるから、色々な料理があるのである。

子供が偏食になるのは、大人の影響である。

子供は親を見て育つ。その時に、自分が嫌いだと言えば、子供も嫌いになるのである。間違った思想も親のものをそのまま受け継いでしまうのである。それを払拭するのは、広い学習と年齢が必要になる。

ただし、余程のことがないと、子供のときに身についた生活習慣は変えられないし、食べ物の好みもそうは変化しないのである。それが、いわゆる“おふくろの味”となる。

もうひとつは、味にある。美味いものは好きで、不味いものは嫌いなのだ。それが普通の人間だろう。カレーライスは年齢を問わず、好まれるものだが、美味いカレーもあれば、不味いカレーもある。不味いものを食べさせられ続ければ、カレーだって嫌いになるのである。

偏食の子供の親は、自分も偏食であるか、料理が下手か、素材が悪いのである。

農薬づけや促成栽培の食物は不味いのだ。肉だって不衛生な環境で育てるため、本来食べるはずのない肉骨粉を与え、抗生物質も投与する。日にあたることなく、金網の中で動くこともままならず、ただ肉として供されるのを待っている家畜が美味いはずはない。

では偏食をどうすればいいのだろうか。



調理方法の工夫

ちゃんとした素材を選び、適切に料理すれば不味いということはない。

しかし、そこには好みが存在する。

偏食を治すための工夫というと、例えば野菜嫌いのために、野菜を細かくしたり、煮溶かしたりするが、それでは誤魔化しに過ぎない。姑息な手段だ。(姑息の文字を分解すると凄い。姑(しゅうとめ)の自らの心である。老婆心ながら補足)

筆者は鮭(しゃけ)が好きである。

しかし、生鮭を焼いたり、煮たりしたものは嫌いだし、サーモンフライも嫌いな食べ物である。塩ジャケ(新巻鮭や塩引き)として焼いたものか、スモークしたサーモンをマリネにしたものが好きなのである。

豆も好きだが、甘く煮たものは食事としては食べられない。納豆は好きだし、枝豆も夏の必需品である。食事以外の時間なら甘くても食べられる。小豆の餡子や甘納豆も食べられる。しかし、それらを飯のおかずにはできないだろう。

豆腐も、それだけでは食べられない。薬味や醤油があれば食べられるようになる。湯豆腐や肉豆腐は好物だが、すき焼きの豆腐は食べない。すき焼きは豆腐のための料理ではないからだ。

すき焼きについて、“美味しんぼ”では肉を不味く食べる手段と一刀しているが、それも見方の違いで、筆者はすき焼きを、卵を一番美味く食べる方法だと思っている。

こう書くと偏屈に映るかもしれないが、好みとはそういうものである。例えば、生肉は食べられないが、ステーキや焼肉は好きだと言う人も同じだろう。刺身は嫌いだというのも、外人には多いだろうが、同じことなのだ。

トマトをそのまま食べるのは、トマトの刺身ともいえる。筆者はトマトは丸かじりなら生で何も付けずに食べられるが、包丁で切ったものを醤油だけでは食べたくない。それは熱を通したり、トマトソースにするべき状態なのである。

工夫とは、小賢しい小手先の工夫ではなく、まっとうな、昔からある料理から最も好みの料理を探すだけでいいのだ。



食材より栄養重視

牛肉に不安があって、主婦は豚肉や鶏肉を多く使うようになった。

それでいい。

野菜が嫌いだという子供も、食べられる野菜もあるだろう。それを探せばいいのであって、無理やり食べられるようにするのは親も本人も楽しいことではないだろう。食べられるものを見つけ、段々食べられるものを増やせばいいのである。

ピーマンが嫌いだという子供は多い。ピーマン自体、あの緑の未成熟なものは美味くない。生で、そのまま齧って美味いピーマンなら、子供も食べるだろう。トマトが美味いのは完熟したもので、青いトマトは食べるに値しないのと同じである。

そもそも、食べられるようにすべき食材と、食べる必要のない食材がある。

栄養的に等価であれば、美味いものを食べればいい。ピーマンが嫌いなら、ピーマンと同じ栄養素を持つ野菜を探して試せばいいだけである。もちろん、ピーマンでも肉詰やチンジャオロースーなら食べられるなら、それで充分である。

もうひとつ大事なのは、食べられた方がいい食材と、食べられなくてもいい食材を明確にすることである。

イナゴ、蜂の子、ザザムシなど、食べられなくてもいい。一般的ではないからだ。外国では他の昆虫も食べるし、半分ひよこになった卵を茹でて食べる。こういったものは食べたい人だけ食べればいいだろう。

食べられないと困ると思うものは、こういった珍味やゲテモノ以外のものであって、名前で簡単に区別できることが分かった。

日本語の名前”かどうかで決めていい。

日本語の名前のついた食材は食べられた方がいいが、外来語(ヨコモジ)の名前なら無理してまで食べる必要はないのだ。もちろん、食べて好きなら問題はない。どんどん食べればいいだけの話だ。

調理方法も、フライだのムニエルだのではなく、天ぷらや塩焼きや煮つけでいいのであり、パンよりごはんなのである。

関西出身者には納豆が食べられないという人がいる。誰もそれを偏食とは言わないし、治そうともしない。納豆が食べられない親が、ピーマンを食べなさいというのは説得力がない。

そもそも、親が食べられないものを子供に食べなさいというのは理不尽だろう。どんな動物も親が食べるものを見て、食べられるものを学習しているのである。だから、牛は草を食むようになり、牛肉は食べないのだ。

ピーマンやトマトなど食べなくても、日本人は生きてきた。昔からある日本の食材を、昔ながらの調理方法で食すのが肝要である。ピーマンならしし唐、トマトなら茄子が同属であるが、それにこだわる必要もない。

牛乳嫌いも不味いからだろう。どんな人でも赤ん坊のときは母乳を飲んだはずで、母乳嫌いの赤ん坊は聞いたことがないからだ。母乳は無理だろうから、他の乳製品か、他の食材で栄養を補給すればいいだけである。もちろん、メーカーには美味い牛乳を造る努力をして欲しいものだ。

長生きのための食べ物では、沖縄料理が挙げられるが、外来の食材はそうは使われない。豚肉や昆布や豆腐など、食べるべき食材が主である。

日本人の食文化を受け継ぐようにするのが親の務めであり、好き嫌いをなくすということだろう。何でも食べられることだけがいいのではないのだ。そして、子供の好き嫌いをなくすためには、親の好き嫌いをなさなければならないのである。




トップページへ