宮崎アニメの魅力とは



特命リサーチ200X

特命リサーチ200Xの「宮崎アニメの魅力分析」なるものの観た。

網膜に映った画像と脳が見た画像の違いを中心にし、表現方法などにも言及していた。また、動画の動き表現も解説し、自然現象的動きと動物的動きを解説していた。

このコーナーは、宮崎アニメの宣伝のためか、それとも宮崎アニメを取り上げると視聴率を稼げるためだろうか。

とにかく、内容的に説明が不十分であることと、重要な点が語られていなかったのだ。

まず、目と脳では見え方が異なる点を補足しよう。

そもそも、目には上下が逆転した像が映っている。その映ったものを脳が分析判断して、何が見えたかを記憶させ、それを判断しているのである。

その際に、水晶体(レンズ)の調節状況と、左右の目の見え方の違いから対象までの距離を推定している。

両目の間の少し先、鼻先あたりにマッチ箱(煙草の箱などでも)を狭い面を手前に立てて置くと、前面だけでなく、ぼやけるが左右の面も見える。遠近法では、前面だけになるはずが、ふたつの目で見るとそうはならないのだ。カメラのレンズはひとつしかないから、遠近法通りになるため、絶対に同じには見えないのである。片目で見れば、カメラを同じになるのが体感できる。つまり両目で見える範囲は、片目で見るより広い範囲(左右の面)になるのだ。

つまり、網膜に映ったものとカメラが写したものとが同じではなく、一方の網膜としか同じ画像にならず、もう片目とは異なっているのである。これでは同じに見えるはずがない。

また、レンズには焦点距離がある。35mmフィルムに普通(36mm×24mm)に写す場合、見た目(網膜像)と同じになるのは焦点距離が50mm〜55mm程度のレンズである。それより短焦点のレンズを広角、長焦点のものを望遠と呼ぶ。

広角では広い範囲が写るが、前景はより大きく、背景はより小さく写る。また、ピントが合う範囲が大きくなる。これを被写界深度が深いという。被写界深度は焦点距離だけでなく、絞りにも依存する。明るい所では多く絞り(被写界深度は深くなる)、暗ければ絞りを開ける(同、浅くなる)。これは目の明暗順応と同じであるため、明るい所の方が被写界深度が深くなり、より遠くまでピントが合うようになる。蛇足だが、視力検査は明るいところで行うと有利なのだ。

望遠では背景も大きくなり、被写界深度は浅くなる。また、拡大撮影する場合も被写界深度は浅くなる。顕微鏡ではっきり見える範囲は極めて限られた範囲であるのは体験されていることだろう。

そして、レンズ付きフィルムやコンパクト単焦点カメラは、実は広角になっているのである。その方が近くの広い範囲(室内でのグループ撮影など)に有利だからだ。

このため、こういったカメラで写真を写すと、実際に見た目と更に異なって見えてしまうのだ。スナップショットなどを写す場合、75〜105mm程度の望遠が望ましいとされる。それだけ背景が大きく見えるからだ。広角では画像の歪みが出るものがある。魚眼レンズはその歪みが大きいものである。ドアののぞき穴で見たのと同じ画像である。

これを番組制作側は当然知っている。望遠で写した画像と広角で写した画像を対比させて見せていたのだし、そんなことも知らないカメラマンがいるとは信じられないからだ。宮崎監督を持ち上げるのが意図されているようだが、他の作家や映画監督も百も承知のことなのだ。古典的とさえ言える。

この焦点距離による画像の違いを用いる手法として、アルフレッド・ヒッチコックの「めまい」を参考にしていただきたい。人物の大きさを変えずに、カメラの位置の変化とズームで背景の大きさが変化する面白い効果を出している。

また、脳が分析・判断した画像には誤りが出る。だまし絵はその誤りを利用しているのだ。



脳が見た画像に近づける

平面の画像を元に絵を書いた場合と、立体の実際の風景を見て書いた場合ではできた画像が異なる。

宮崎監督が写真を見て作画するのを嫌うのは、それでは動きが出せないからだろう。実際に動かすには作画が頭の中で完成していなければ描けないからだ。

小さな子供は遠近法を知らない。だからその絵は、異様に大きな自分と、自分より小さな家や木が描かれる。遠近法によるパースペクティブ(通常、パースと略す)表現は、技法を知らなければ描くのは難しいだろう。子供に要求しても無理である。

遠近感は平面図からは直接得られないから、擬似的に作り出す必要がある。

一番分かり易いのはピントの合った範囲を特定することだろう。また、自分が動くと、遠くの物より近くの物が速く動くことは子供でも知っている。筆者も子供のころ、太陽や月が自分を追いかけていると感じたことがある。

これらを表現するのに、マルチプレーンカメラが用いられる。アニメでは背景・人物・前景を密着させ撮影するのが普通だが、マルチプレーンカメラではこれらを別々の台に載せ、それぞれに異なる移動量を与えて撮影するのである。また、これを用いると、実際にピントが合う範囲を変化させられる。

しかし、カメラの向きの変化(パン)や視点移動によるブレは作れない。これには漫画で用いられる動線を用いる。

そしてこれらは、宮崎監督が発明したのでもなく、誰でも知っている手法である。

ただし、宮崎監督は飛行機が好きで、空撮的表現は得意なのは事実である。



宮崎アニメの本当の魅力

アニメでも漫画でも映画でも、作品の良し悪しは脚本が一番大きく関る。

それは、その作品が何を伝えたいのか、何をしたくて作品を作ったかである。

昔、宮崎監督が語った「アニメを見て、感動して、人に話すのがもったいないくらいの作品が目標」が全てだろう。

見る者を作品に引き込むには、その世界観が重要である。

世界観とは画像だけでは表現できないもので、色々な年齢、異なる考えを持った登場人物がさりげなく表現しなければならない。それは生活観である。

もうひとつ重要なのは時間経過である。なぜなら表現しているのは空間ではなく、時空間だからだ。

これを伝承(言い伝え)や年寄りの思い出として語るのである。

ルパン三世カリオストロの城(通称カリ城)では、時計塔のカギとなっている指輪の伝承である。風の谷のナウシカでは、青き衣の救世主の予言や、火の七日間と1000年前の腐海誕生である。となりのトトロのマックロクロスケ(すすわたり)をばあちゃんが「小せえ頃にはワシにも見えたが、そーかい、あんたらも見えたんけ」も時間を感じさせている。

子供と年寄りの表現も宮崎監督が得意とするところだ。年寄り(ばあさま)を思い出して欲しい。見事に作品に深みを与えている。もちろん、声の出演者が日本有数の女優であることも相乗効果としてあるのだが。

世界観、人生観、生活観を、現実とは異なるもので構成し、見る人を引き込む。

ストーリー展開のスピード感や意外性も秀逸で、ハッピーエンドの大団円が与えられる。人は悲劇的幕切れよりハッピーエンドが好きなのだ。なぜなら、誰しも自分の人生がハッピーエンドであることを望むからだ。感情移入すれば、アニメの登場人物にも同じように思うのである。

高畑氏の蛍の墓(野坂氏原作)も、現実(原作も)はどうあれ、助かって欲しいと思うのが普通だろう。蛍の墓は見たことがないので詳しく書けないが、例えばこういうのはどうだろう。

少女の最期を曖昧(明日のジョーのラストのように)してフェードアウト。

子供(主人公の少女の声で)が、「それで、その子はどうなったの?」

フェードインすると、縁側で子供とおばあちゃんが話ている。

おばあちゃん「助かったさ、いっぱい神様にお願いしたからね」

子供「今も生きてる?」(心配そうな声)

おばあちゃん「生きてるさぁ」

にっこりするおばあちゃんに、主人公の少女の特徴や面影。

そもそも、その子供が主人公の少女にそっくり(髪型は今風)である。

これなら筆者も見る気になる。主人公、それも子供が死ぬのは、たとえそれが現実で、そこに重要なメッセージがあったとしても嫌なのだ。となりのトトロでメイちゃんが、溜池で水死していたらどうだろう。子供の水死は時折ニュースとなるから、水に子供だけで近寄らないようにという重要なメッセージとはなるのだが、それを望むのだろうか。例えばこうなる。

溜池のサンダルはメイのもので、捜索によりメイの水死体が見つかる。

隣のばあちゃんはそれを苦に入水自殺。

お母さんも心労から病気が悪化し程なく死去。

さつきは家出して、今でいう援助交際に明け暮れる日々。

ラストシーンは揺れる影。

カメラを引くと、トトロの大楠で首を吊ったお父さんが揺れていた。

こういうストーリー(トトロがネコバスを呼ぶより現実的)がいいと思う人は、一度病院に行くことをお勧めしたい。

先の展開は分からないようにしながらも、期待どおりのハッピーな結末となるのが嬉しいのだ。これは、水戸黄門や大岡越前など時代劇では当たり前だ。最後の戦闘シーンで、水戸老公が殺される可能性もあるはずだが、誰もそれを望まないし、印籠が出されるのを知っているのに、印籠が出ると嬉しいのだ。メイが行方不明のまま、サツキがトトロに神隠しされ、お母さんが病気で死んだら、誰も感動しないだろう。

それに声の出演陣の豪華さ、久石氏の音楽など、これ以上はないというくらい贅沢にできているのである。




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