名も無き神の話



日本の神

日本の神は、八百万(やおよろず)の神であり、森羅万象に神が存在していおり、また、神話にも数多くの神が出てくる。太陽も月も神が存在するし、山だって海だって存在する。奥方をカミサンというのは、山の神からの言葉だろう。

人もまた神であって、戦前は天皇は現人神(あらひとがみ)であった。仏教的な見方をすると、人は死ぬと仏となる(実際は可能性、転生の結果、仏となることを成仏という)が、神道的には神となるのである。神社では故人を奉っているものも多い。狐だってただの石でも木でも奉ることがあるくらいだ。

こう見ると、日本の神とは、偉人であったり、自然あるいは超自然的なものの擬人化である。自然はカオスであり、人の思いは受け付けないが、神とすれば、祈りが届くのかもしれない。そのための擬人化でもあるのだ。

工事の前には地鎮祭をする。安全を祈るのだが、祝詞(のりと)はあっても読経は聞かない。もしやったら、縁起でもないということになるだろう。まして、キリスト教などの神父(牧師)がやっているのは記憶に無い。

しかも、一時期、神仏合体という荒業を使ったことがある。仏も神も合体してしまったのだから、凄いことである。現在でも、神棚と仏壇の両方がある家はいくらでもあるのだ。ふたつの宗教を信仰しているのだから世界的に珍しい国だろう。しかも、本人達は無宗教だと思っていて、釈尊(おシャカさま)の誕生日より、キリストの誕生日を騒ぐのだから、滅茶苦茶である。

世界的には多神教も多い。神話というのは世界中にあるが、ひとりの神では神話にはなりにくいからかも知れない。それらの神は実に人間的(?)な感情を持っているし、どうやら有性生殖である。

そんな中、「自分こそ唯一の神である」という神が現れたらどうだろう。

我々から見ると、胡散臭い限りだ。



名も無き神

『我輩は神である。名前はまだない。この世が真っ暗だった頃、「光あれ」と言って世界に光をもたらし、天と地を分けた。草木を創り、太陽と月と星を創り(光あれと最初に言ったのは、ビッグバンのことだ)、動物を創り、人間を創って、休んだのは7日目のことだった』(筆者なりに要約)

名も無き神とは、この神が、名前を教えてくれず、神の名を呼ぶことも許さなかったのだ。名前を知らないから呼べないと思うのだが。ただ、「在って在り続けるもの」とは名乗っている。聖書の中では“ヤーウェ”や“エロヒム”と呼称する。なお、エホバは誤った読み方だという。

この神はユダヤ教の神である。それを旧約聖書としたのがキリスト教で、コーランの神になるとイスラム教の神である。つまり、この唯一神というのが、これら共通の神なのだ。

これは面倒な問題を作り出すことになった。

誤解無きよう補足すると、この神は最初は唯一神ではなく、モーゼス(モーセ)以降に唯一神として確立されたのである。なお、最初の信者は、アダムとエヴァ(イブ)でもなければ、あの箱舟のノアでもない。エイブラハム(アブラハム)という、例の息子を生贄にせよと言われた男である。新約聖書でナザレのイエスは、「エイブラハムの子であるデービッド(ダビデ王)の子」としているのである。ここでのこの神はモーゼス以降の解釈による。

神は唯一神でも、宗教が大きく異なるのである。しかも、それぞれに聖地なるものをもっているのだが、同じ神だから、同じ場所(ユダヤ教の聖地をそのまま聖地としている)になってしまうのである。だから、聖地奪回によって自らのものにしようとする。十字軍はその聖地奪回の軍勢である。

元はユダヤの神で、ユダヤ教の聖地であったエルサレムは、7世紀にはイスラム教によって支配された。それをキリスト教が11世紀に奪回したのである。その後再び奪われ、十字軍は200年間に7回(8回という説も)の遠征を行っているのである。

キリスト教国とイスラム教国との争いは、もう1000年もの因縁なのだ。

この神の困ったことは、唯一神であり、我がままだということに尽きる。だから、信じる者たちも、我がままになるのだろう。また、選民思想や救世主思想が根底にあるのだから、他を認めるということも出来ないのだ。

有名なモーゼスの十戒のいくつかを見てみよう。

1 私はあなたたちの神、唯一にして、全能の神である。あなたたちは、私以外のどんなものも神としてはならない。

2 偶像を作って神としてはならない。私はねたむ神であるから、私を憎む者には子孫まで罪を問い、私を愛し私の戒めを守る者には末代まで慈しみを与えよう。

3 神の名をみだりに唱えてはならない。

以下略

(これらは今日の文面の要約であり、元の文章は原語でそれぞれ2語だったという)

どうだろう。信じている人には自然なのかもしれないが、筆者には恐ろしくさえ思えてしまうのである。

キリスト教は、ユダヤ教ベースにしただけで、いわば破棄されたもの(旧約)で、信仰の中心はジーザス(イエス)の言葉(新約)である。だから、原子爆弾で大量殺戮したり、テロの報復をしたりできるのだろうが、「汝の敵を愛せ」はどこに行ってしまったのか不思議でならない。

宗教による争いは歴史も古く根深い。元の神を信仰する人と、その神の子だという者を信仰する人と、神の預言者の言葉を信仰する者達の戦いである。傍から見ると無意味な戦いに過ぎない。

それでも、十字軍が200年に渉ったことを考えると、アメリカなどキリスト教国がイスラム全体を敵に回せない理由が明らかとなるだろう。ミレニアム級の泥沼なのである。それに、この神は迫害に遭うと救世主が出てくるのだから始末に悪いのだ。仏教でも次の救世主(弥勒)が予言されているが、その次期は、アンドロメダ銀河と我らの銀河が衝突(30億年後)してから数十億年後にもなり、太陽の寿命(50億年後)より先の話である。

キリスト教徒から見ると、例え同じ神を信仰していたとしても、信じられるのはキリストであり、他の預言者の言葉などはないのも同然であるし、邪教としても映るのである。誰だって、自分が正しく、それに従わないものは間違っていると思うだろう。他の宗教でも同じであるから、絶対にお互いは認めないのである。

仏教徒とキリスト教徒のようにまったく違えば少しはいいのだろう。宗教というものを理解できれば容認できるからだ。なまじ同じ神で、同じ聖地になっているからややこしいのである。

この神の困った性格は、自分を信じる者とそうでない者との差別が激しいことであり、自分に背く者へは容赦しないということである。

父を騙して相続権を奪っても、神に背いていないからOKだ。また、その子供達は、妹に岡惚れした男が、妹を強姦したので兄達が相手とその家族に、割礼して神を信じるなら結婚を許すと約束し、割礼して動けない男達を皆殺しにしてもOKである。

こういう話が多いのだ。神を信じれば救われ、背信者や異教徒は粛清されるべきだという思想なのである。こういう思想は危険であり、現代的ではないと思うが如何だろうか。

ともあれ、触らぬ神(信者)に祟りなしである。



科学的な見方

信仰のない者には神の存在は信じがたい。神は科学的に証明できるのだろうか。

以前、キリスト教徒である友人に話を聞いた。聖書の書かれていることの真偽についてである。宗派(?)によって解釈が違うかもしれないが、答えは簡単だった。そういう瑣末なことではなく、教えやその精神が重要なのだそうである。しかし、あえて科学的(現実的)に解釈してみよう。

宇宙の成り立ち、太陽系の形成、地球における生命の誕生。それらは科学的なものであり、いわゆる自然と時間が作り出したものである。

それを神と擬人化したとすれば、不思議な点はひとつもない。神は自然そのものとすれば、日本の考えとさしたる違いはないといえるだろう。旧約聖書(ユダヤ教の聖書、キリスト教でも用いる)では、擬人化により初期の神というイメージを形成し、その後は、予言などにより神の意思を伝えるようになっている。

人間を創っても最初は裸であるというのは、生まれたときの姿(バースデイ・スーツ)であって科学的といえなくもないが、これには違った側面があるのではないだろうか。ギリシャ神話の神々はスケベである。古事記にもエロティックなシーンがある。これらは人々の興味を引くためではなかろうか。つまらぬ話より、エロティックだったり、奇跡や大スペクタクルの方が誰だって興味を持つだろう。アラビアンナイトが夜伽話によって貞操を守れたのは、興味を引く話だったからなのだ。そういう見地では、心理学的に有効となるよう構成されていることになる。

また、神がかりしたり、神の声を聞くのはよくあることだ。幽霊を見たり、何者かが夢枕に立つのは日本でも聞くからだ。神が自然そのものの擬人化であり、これらにより予言が与えられたとすれば、脳の中で擬似的な記憶(夢のようなもの)が形成されたとすれば、理解できるのである。彗星や日食なども、知らなければ超常現象であり奇跡である。なにしろ、太陽が地球を回り、地球は平らで、その縁では海が滝のように流れ落ちていた時代なのである。

人類としての伝承が聖書に反映しているものも多い。例えば、海面の高さは時代によって異なり、氷河期の名残で海面が数百メートルも低い頃、人類は今より広い土地を利用できた。現在の大陸棚は当時の平野である。日本に最初の人類が渡った頃、大陸と地続きだったのはご存知だろう。日本だけのはずがない。地中海も紅海もそうなのだ。逆に、かなりの海抜の山でも、海の化石が出てくることも知っている。それを見たら、今なら誰でも時間経過を考えた上で、こんなところまで海だったのかと思うだろうが、昔の人は大洪水で一時的に海になった(ノアの箱舟)と考えたかもしれないのである。

星が超新星爆発し、彗星が訪れ、日食や月食があると、それが何か判らなければ不吉だろう。隕石が落ちて町が壊滅することもあった(ソドムとゴモラ)だろう。隕石を知らなければ、天からの災いにより滅んだのは、「きっと罰が当たったのだ」と解釈するかもしれないのだ。そして、そんな力があるのは神だけなのである。塔も、ピラミッドのような形状なら倒れないかもしれないが、普通の塔を高くしていけば壊れる(バベルの塔)のは当たり前である。建築学や力学を知らない者は、高くしたから壊れたのは、天に近づこうとしたからで、やはり神の怒りだと考えてしまうのである。

我々が過信している科学も、まだ先(未来)がある。発見されていないことも多いのだ。数百年後の未来から見れば、まだまだ原始的となるかもしれない。(蛇足ながら、鉄腕アトムの誕生は2003年で、ドラえもんは2112年9月3日生まれである)

聖書が書かれた頃、病気は悪霊の仕業だったし、太陽も月も地球の周りを周っていた。もちろん、地球は平らで、端では海が滝のように落ちていたのである。そして何よりその頃の科学は、聖書の中に書かれたものこそが正しかったのだ。ガリレオの「それでも地球は回っている」は、聖書の記述と異なるから裁判になったのである。

逆に言えば、「その頃はそうだった(信じられていた)」なのだ。それを認めて、現在の科学とは異なることを認識しておけばいいのである。昔の人が加持祈祷で病気が治っても、現代人は薬がないと治らないのである。一種のファンタジー世界と考えることが重要であり、そのまま現代に当てはめたり信じてはならないのだ。

また、西洋占星術も、作られたその頃は正しかったのかもしれない。しかし、人類が月や火星に行こうとしている現代では、科学的ではないことは明らかである。ある種の遊びとして受け入れるだけにすべきだ。タロットもトランプ占いもそうだ。占いは、足裏診断やシャクティーパットと同じである。姓名判断は漢字を持たない人々には関係ないのだろうか。どんなに画数が良くても(確認していないが)、田吾作や権平衛では現代を生き抜くには苦労しそうである。

科学的とはそういう意味である。非加熱血液製剤も危険が判るまでは安全だと信じられていたし、狂牛病の肉骨粉もそうである。その当時の科学水準(つい最近ではあるが)を判断しないと、単に間違いだとなってしまう。その当時は正しく、現在は間違っているというのが正しい見方だろう。




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