クリスマスの話



キリスト誕生の謎

いつもならジーザズ・クライストと記述するのだが、話題がクリスマスであるため、分かりやすく日本で用いられる名称を使用することにする。

クリスマスを辞書で引くと、「キリスト降誕祭」と書いてある。

しかし、クリスマスはイエス・キリスト(ナザレのイエス)の誕生日ではない。

この起源は、紀元前の「冬至の祭り」にある。初期のキリスト教の降誕祭は1月や3月に行っていたそうで、今の12月25日となるのは4世紀になってからである。新年を迎えるのが1月であるのに、暮れも押し迫ってからに行うのは不思議に思うだろうが、西洋の新年は4月であったから、今で言えば9月くらいの感覚である。正月が4月であった名残に、エイプリルフールがある。あるいは、決算年度が4月からなのも、西洋の仕組みを取り入れる際に残ったものだろう。米や農作物が重要だった日本なら、年末を決算期とした方が合理的である。納税が年末(年末調整や確定申告)になっているのは、その年貢的な考え方からだろう。

キリストが、紀元前の誕生であることは多くの学者の一致した意見である。紀元前を“BC”というが、これは“BeforeChrist”の頭文字であり、“キリスト以前”という意味である。ナザレのイエスは、誕生時にはキリストではなく、西暦1年にキリストとなったのかもしれない。これは釈迦が悟りを開いて仏陀となったのにも似ている。なお、キリストとはメシア(救世主)のことである。実際は、適当に決めたのだろうが。

今回は、クリスマスはキリスト(ナザレのイエス)の誕生日ではないことを知った上で、更にキリスト誕生の謎や不思議を見ていくことにする。

なお、元にするのは新約聖書の記述である。



誰の子か

キリスト教ではキリストは神の子である。

これは決められたことなのだ。キリスト教の世界では、神と、その子であるキリストと、精霊は元々ひとつであるとして“三位一体(さんみいったい)”という考えに統一している。

普通の我々でも、子供の親のうち、母親は確認できる。が、父親はそうだと思うしかない。まあ、見た目が似ていて血液型が不自然でなければよしとする。DNA鑑定まですると、疑っているようで夫婦仲も危なくなりかねないからだ。

イエスの父、というより聖母マリアの連れ合いはヨセフという。

聖母マリアは信仰の対象とまでなっているのに、ヨセフは肩身が狭い思いをしているのは、“処女懐胎”により“神の子”を身篭ったのだから、ヨセフは関与していないという見方からである。つまり、無関係なのだろう。

しかし、マタイによる福音書の冒頭、“アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストまでの系図”が永遠と記述され、次の記述となる。

マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストと呼ばれるイエスがお生まれになった。

おーい、マリアは何処の誰なんだー!

と叫ばざるを得ない。

つまり、アブラハムから続く正統な信者の家系であるヨセフだが、イエスには続いていない。イエスは信者の家系にはないのである。

お解かりだろうか。

イエスは神の子であるから、家系には元々関係なく生まれる。しかし、それが生まれるためには、正しい行いをした正しい家系が必要だったのである。

異教徒や正しくない信者では、神の子が生まれたことを信じなかっただろうからだ。

家系としては繋がっていない。しかし、神の子が生まれるための下地として必要だったのである。

正直者のおじいさん・おばあさんの家に、かぐや姫や桃太郎が授かったのと同じである。嘘つきで欲張りの家に拾われなかったのはそういうことなのだ。



処女懐胎

マリアは処女でイエスを身篭ったという。

処女でも妊娠はする。だたし、それでも受精を行うために男が必要である。

詳しくは後述するが、女性が自然に(男が関与しなくて)妊娠したとしても、男性であるイエス・キリストは絶対に生まれない。

そもそも、この処女懐胎は正しい記述なのだろうか。

実は聖書には“乙女”であるとしか書いていない。誰かが、神秘性や純潔、マリア信仰のために思想操作したのだろう。

とはいえ、神の子であるというのだから、その線で検証しなければならないだろう。

まず、イエスが人間かどうかである。

人間でなければ話は終わりである。もちろん、三位一体の考えからすると、人間ではないのだろう。人間ではない物ならマリア自身も無関係である。単に母体として借りただけであり、代理母のようなものに過ぎない。従って、この説を取ると、マリア信仰は無意味であることになる。これは、「エイリアン4」を思い起こせばいいだろう。

では、神とマリアとのハーフというのはどうだろうか。

生物には種の壁がある。これが最も顕著なのが混血である。種が近ければ混血ができるが、遠いとできない。イクラに人間の精子をかけても半漁人にはならないのである。

人間には23対の染色体がある。染色体は細胞の核の中にあり、簡単に染めて観察できたことから名づけられた。その染色体の中にはDNAが2重螺旋でしまわれている。その一部には遺伝情報があるため、それを遺伝子と呼んでいる。

染色体23対は父と母から片方づつ受け継いだものである。ひとりの人間の細胞では、細胞分裂の際に23対(46個)全てがコピーされ、分かれる細胞両方に同じものが格納される。卵子などの生殖細胞の場合、これとは異なる動きをして、“減数分裂”という対の片方だけの染色体(23個)にされる。両親を合わせることで23対の染色体に戻るのである。

性別を決める遺伝子として、X染色体とY染色体がある。女性はX染色体を対で、男性はXとYを片方ずつ持っている。つまり、性別が決まるのは、男性からX染色体かY染色体のいずれを引き継いだかによるのである。

女性だけからは、女性は生まれる(クローンでも)可能性はあるが、男性であるY染色体を受け継ぐことはありえないのである。あるヘラブナはメスだけで子孫を残すが、それはすべてメスである。これらの染色体はXXYになっているのである。

もし、神が何らかの力でマリアを懐胎させたとしても、男性だと思われるイエスを産ませるには、マリアの染色体だけでは不可能なのである。神だから何でもできるとすれば、マリアの卵子(生殖細胞、減数分裂済み)に、何らかの男性因子を持った染色体を合わせたのだろう。妊娠から出産まで正常に過ごしたとすれば、着床やホルモン分泌が正常であったことを意味する。つまり用いた染色体はほぼ人間と同じだったことになる。種の壁を乗り越えられる程度だったのだ。

ここで旧約聖書冒頭を思い出せば、その謎が解ける。「神は自らに似せ、アダムを創った」のである。その神は全知全能だから、染色体、つまりはDNAも忠実にコピーしたのだろう。それなら、神の染色体は人間の男性と等しいのは自明の理である。新約聖書によると、精霊により身篭ったのだから、精霊の染色体も人間と等しいのだろう。

現代の科学では、DNAが等しい場合、等しい性質を持つことになっている。クローンがそれである。ということは、人間は神と等しい性質であることになる。クローンでも、親と子という見方ができる。人間(アダム)は神のクローンであり、イエスは神のクローンの子孫なのである。

ということは、イエスが神の子であるならば、全人類もまた神の子である。

次に、実際は(キリスト教の考えと異なるが)人間との間に出来た普通の人間であるとしてみよう。この場合、ヨセフが父かそうでないかに分けられる。

ヨセフが父なら、普通である。いわゆる、トンビがタカを産んだだけである。そうでない場合、処女だと信じていたマリアが妊娠し、ヨセフは怒り、悲しんだだろう。ヨセフをなだめるための方便として、「神様が懐胎させた」というのもありうる話だ。コギャルが妊娠を知って怒った父親に言いそうなことである。

実際、ある説では、別の男とマリアとの間にできた子供だと知った上で、ヨセフはマリアを娶りイエスを育てたという。その男はローマの兵士パンテラであった。それを成人し知ったイエスは家を出た。マリアに対し、イエスが「婦人」だの「誰」と言っているのは、そんな家庭環境にあったためかもしれない。

今ならDNA鑑定という手がある。DNAを分析できれば、誰の子かはっきりするし、あるいは神のDNAを発見できるかもしれない。しかし、残念ながら、イエスの遺体は何者か(神を含め)により紛失しているのが残念である。まあ、当時の遺体があっても、DNA分析は難しいだろうし、第一マリアもヨセフも遺体がないのだから実際は無理なのだが。それに、ミトコンドリアDNAは母親からしか受け継がれないから、イエスとはいえ神と同じミトコンドリアではなさそうである。ミトコンドリアの性質が異なると運動能力やエネルギー代謝に違いが出るだろうから、神と同じ能力はないかもしれない。

処女懐胎ではないが、釈尊の誕生も似たような話である。釈尊の母はマヤ夫人という。彼女が腕を上げた時に、わきの下から白い象が入って、妊娠したと言うのである。男女の営みによるものではないと言う点で同じである。白い象というのが「白い象の鼻のようなもの」だとすれば、面白いことになるのだが。

ということで、イエスが誰の子であったかは、以上のことを参考にご自分で推理していただきたい。

また、受胎告知から3賢者に祝福といった大事な出来事であるが、マルコ伝やヨハネ伝にはないのだ。知っていれば、書き忘れるような些細なエピソードではないはずである。後世に捏造されたエピソードというのが筆者の意見である。なお、実際にはイエス自身がいなかったのだという答えもありうるだろう。

こういうことは、当事者(信者)ではない、我々のような者が冷静に判断できると思うし、いわゆる“傍目八目”でもあろう。キリスト教徒ではなくとも、クリスマスをキリスト降誕祭と思って、飲んで騒ぐ国民なのだから、そのくらいの自由はキリストも許してくれるに違いない。



馬小屋で産声

イエスが馬小屋で生まれたというのも有名な話である。

当時、産婦人科なんてないだろうから、どこでもいいのだが、気になることがひとつある。

我らが聖徳太子(厩皇子)がやはりそうなのである。

聖徳太子は高貴な生まれだと思うが、なぜ馬小屋なのか。旅の途中、お金がなく、農家に泊めてもらうなら、馬小屋というのもあるかもしれない。奥の細道に「のみしらみ 馬がシトする 枕もと」というのがある。

聖徳太子が存在したか否かはともかく、その逸話にキリスト教の流れが入り込んだのではないだろうか。

キリスト教がローマ帝国の国教となったのは4世紀のことである。それはシルクロードを通って(ローマ帝国はすぐ傍である)、中国にも伝わっただろう。遣隋使などでそのことを知った者が、聖者としての逸話を借用したのではないだろうか。

そいういう話は多いのだ。

神秘的な話や神話には似た話が多い。伝承によるものもあるだろうし、同じことを思いつくこともあるだろう。簡単なのは、借用である。聖書も他の神話や逸話を借用している部分は多いのだ。

これには利点がある。話を考える時間を少なくできるし、よく出来たものなら説得力が違うのだ。伝道時にそういうエピソードを言うと、中には「そういえば、そんな話を聞いた覚えがある」という者もいるだろうからである。または、他の聖人や偉人と同じだと言うことでハクも付く。

最近の歌の世界、そういうのが多いように思う。「孫」というヒット曲が他の歌にそっくりだとか、誰の歌がどの歌の盗作だとか言われるが、これも同じ論理なのだ。いい曲は耳に残る。思わずそれが自分の曲にも反映するのは自然なことである。

いい曲に似ていれば、聴く側も、耳になじみ易いこともある。ハロープロジェクトというのだろうか。つんくファミリーというのか。つんく氏の曲はとにかくどこかで聞いたことがあるフレーズが多い。その方が簡単に出来て売れるのだから当然なのだ。

元に話を戻す。

イエスは日本に逃れたという説もある。確か東北に墓がある。

中東から来るなら、北からとは考えにくい。インド経由で、東南アジアを通って来るだろう。沖縄経由か、朝鮮半島経由だろう。いずれにしても、九州から入って、近畿地区を通り、東北に至ったと考えるのが自然である。それなら、イエスの話が聖徳太子に借用されることもあるだろう。もっと飛躍すれば、イエスこそ聖徳太子だということもあるかもしれない。到来時期を気にしてはいけない。聖書では数百年生きることはザラであるし、なにより神の子なのだから。

そうであれば、キリスト教の伝来が、イエズス会のフランシスコ・ザビエルではなく、他ならぬイエス・キリスト本人だということになるだろう。

あるいは、古事記に鼻の大きなサルタヒコノミコトというのが出てくるが、それがイエス・キリストをモデルにしたものなのかもしれない。

日本人こそ、実はイエスの子孫だというのも楽しいではないか。

だから、キリスト教徒でもないのに、イエスの降誕祭をするのかもしれない。




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