地球に優しいとは



愚かなエコ主婦

テレビでエコロジーなのか節約術なのか、どこかの主婦がしたり顔で説明していた。

油の処理は固めるか紙に吸わせて捨てるのはいいし、洗剤も自然に優しいものを少量使うのもいい。風呂の残り湯を洗濯に使うのは最早常識である。

愚かだと思ったのは、「“米のとぎ汁”が海を汚すから、植木にやる」という主婦を見たときだった。

筆者の疑問は、彼女はトイレをどうしているかである。

米のとぎ汁と、大小便とどちらが汚いか。

人によって答えが異なるかもしれないが、前者は、よしんば口に入ってもさほど気にならない。だが、後者はどんなに加熱しても口にしたいとは思わない。

昔、といってもつい数十年前まで、人糞尿は大事な資源だった。肥料として使われていたのだ。おそらく、米のとぎ汁より、より良い肥料だと考えられる。江戸の長屋には、共同便所があり、そこに排泄されたものは、大家の所有物であった。それが農家(百姓)に売れたから、いい収入源だったのだ。

その主婦の愚かさは、肥料として有効な糞尿を捨て、米のとぎ汁を使っていたということだけではないのだ。

今や、下水道はかなり普及している。その主婦の地域の下水道は、トイレの排水と、キッチンの排水は別々の処理施設に運ばれるのだろうか。もし、下水では一緒になってしまうなら、まったく意味がわからないのだ。

実際は、大小便はトイレに流すしかない。そうしないと、不衛生として指導を受けることになるだろうし、第一、ご近所が黙ってはいまい。

だから、意味がないのである。

また、大小便をトイレに流すことが容認されるとすれば、食べ残しのラーメンをトイレに流すのも同じである。

人間は、管である。口から入れて、最終的には出すしかないのだ。食べる前と、その結果物とどう違うというのだろう。



もっと愚かな人々

読者の中には、論点に違和感を感じられるかもしれないが、汚いものがより自然を汚すという考えもあるらしいのだ。

汚くない、つまり、クリーンならいいという考えである。

そう言われると、納得するかもしれない。

例えば、原子力発電である。

原子力はクリーンエネルギーだという。

水力発電、太陽光発電、地熱発電、波力発電、風力発電などはクリーンである。自然から直接エネルギーを得るからである。

地球を汚さないのが、クリーンであるから、原子力はクリーンなのだろう。放射能が漏れても、元々、自然界にあったものだから、問題がないという論理だと思われる。しかし、生物にとっては、放射能は死活問題なのだ。

最近の原子力関連施設では、そのクリーンな放射能がよく漏れ出す。被爆者も出る。

米のとぎ汁とは、訳が違うのである。

原子力発電やプルサーマル先進国であった、ドイツは風力に移行し、原子力発電を封印しようとしている。フランスも同様である。アメリカと日本だけが、更に原子力に依存しようとしているだけなのである。

なぜ、日本は、プルサーマルを推し進めようとしているのか。

実は、簡単な理由なのだ。

別の例を出そう。

非加熱血液製剤はどうして禁止されなかったのか。AIDSの危険があったのに。

危険な脳硬膜はなぜ禁止されなかったのか。新型ヤコブ病の危険があったのに。

肉骨粉の輸入と使用がどうして続けられたのか。狂牛病の危険があったのに。

利益優先だからである。

国民より企業が優先されるからである。

それは、族議員の利益のためだからなのだ。

だから、原子力発電が続き、プルサーマルが禁止されないのである。



騙されてはならない

地球の優しいというのは、悪いことには感じないだろう。

しかし、なぜ、そうなのか、どこまで必要なのかが論じられていないのである。

汚水は減らしたいといいながら、ビンや缶詰は洗って出せという。

ゴミは細かく分類しろといいながら、一緒に焼却したり、同じ場所に埋め立てる。

家電リサイクルとして高額な処理費用を負担させ、そのため家電の買い控えや、不法投棄を増加させている。

政治家は先など考えられないのだ。

最も遠い未来が次の選挙でしかないのである。

逆に、エコロジーの御旗の元、色々な規制を増やすのは、どこかにそれを望む企業がいるからだろう。家庭から出るゴミなど、企業から出るものに比べれば、汚染度合いは低く、量も少ないのだ。

学校給食やコンビニから出される残飯(売れ残り)と、一般家庭から出る量は雲泥の差である。

考えてみれば、これも理由が明らかだ。

大きなところは手をつけずに、従うところ、大人しいところから規制していくのが、日本のやり方なのだ。

国家予算を見れば、出口である省庁や特殊法人をきちんと改革しないまま、赤字国債を乱発し、税金その他の負担を国民に押し付けているのが分かる。

メディア規制法案でも、有事法案でも、国のあるいは政治家の都合のよいようになっていて、国民に痛みを強いるものなのである。

省庁の体質も、外務省の嘘ばかりの報告から明らかである。また、その報告に対し、「外国を信じず日本の見解を信じよ」との小泉総理の姿勢は、まさしく“ファッショ”に他ならない。

恐ろしい限りである。




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