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予備知識
ビザンツ帝国の歴史を追うにあたり、はじめに知っておくべきことについて。
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ビザンツ帝国とローマ帝国の違い
ビザンツ帝国とはローマ帝国の一時期を指す言葉であり、『ビザンツ帝国』という名前の国があったわけではありません。
『ビザンツ帝国』とはローマ帝国の中世の頃を古代ローマ帝国と区別する為に、後世になってつけられた名前で、正式の国名は『Politeia ton Rhomaion(ローマ帝国)』。古代のローマ帝国とは、(1)キリスト教化されている(2)ギリシア化されている 部分が異なります。
ローマ帝国のどの時代からを『ビザンツ帝国』とするかについては、だいたい4世紀をはじめとする説から 7世紀をはじめとする説などの様々な説があります。中には『ローマ帝国とビザンツ帝国には明確な断絶がない!』として、ローマ帝国とビザンツ帝国を区切る事自体を否定する学者もいます。
ビザンツ帝国のレゾンデートル(存在理由)
『ローマ人の皇帝』という言葉は、古代ローマ帝国という国の単なる一元首を意味するだけの言葉ではありません。
キリスト教により、『ローマ帝国』という言葉とその皇帝には次の様な役割が与えられました。
- ローマ帝国は、キリストが支配する『神の国』を地上に再現したものである。
- 『神の国』が全能の神によって支配されているように、ローマ帝国は全能の皇帝が支配する。
- ローマ皇帝は世俗・精神面に関する最高の権限を神から委託されている。
- ローマ皇帝が支配するローマ人は、天の法を地上に再現したローマ法の下に文化的生活を独占する事が出来る。
- 現在ローマ人に属さない蛮族は、将来ローマ皇帝に服属することになる潜在的な臣民である。
- ローマ帝国は、キリストが再臨する最後の審判の日までに地上すべての蛮族を支配し、かつ布教によってキリスト教化しておかなければならない。
これがローマ帝国、すなわちビザンツ帝国の理念です。
『ローマ帝国』とは、文明世界全体を支配する汎世界的な国家を意味し、それを統治する『ローマ人の皇帝』は、すなわち文明世界全体の最高権力を意味します。
だからこそ、フランク王国のカール大帝はローマ教皇から『ローマ皇帝』の帝冠を与えられ(800)、ドイツのオットー1世は『神聖ローマ帝国』を打ちたてた(962、ただしそう呼ばれるようになるのは13世紀以降)のです。
長くビザンツ帝国の影響下に置かれたブルガリアでさえ、その最盛期の王シメオンは『ブルガリア人とローマ人の皇帝』を名乗りました(924)。
西ヨーロッパ人から見たビザンツ帝国
西ヨーロッパ人から見たビザンツ人は非常に評判が悪く、今でもヨーロッパ各国語で『ビザンツ人』とは(ビザンツの儀式のように)煩わしい、(ビザンツの外交のように)狡猾な、(ビザンツ人が皇帝に対して行うように)おべっか使い、(ビザンツ民間の宗教論議のように)枝葉末節の、(ビザンツ人がローマ帝国と名乗りつづけるように)固執する、といった意味があります。
本当のところはどうだったのでしょうか。
『儀式』……ビザンツ帝国は非常に儀式にこだわりました。それは儀式をもってビザンツ帝国が古代ローマ帝国の末裔である事を再認識しようとし、また周囲の国々にも認識させようとした為です。
10世紀の皇帝コンスタンティノス7世は、自ら『儀式の書』を記しています。
『狡猾な外交』……ビザンツ帝国の外交は、貢物による懐柔政策がよく取られました。蛮族の侵入に対しては貢物を送って戦争を回避するか、または別の蛮族を買収して戦争をけしかけるといった方法が取られ、ビザンツ帝国が直接前面に出て戦うことは多くありませんでした。やたらと戦ってリスクを背負うより、外交交渉によって平和的に解決する事を選んだのです。
また、十字軍の時代にも、イスラム圏と交流のあったビザンツ帝国の考えは、とにかくイスラム教徒を殲滅する事しか頭になかった西ヨーロッパ人とは違いました。ビザンツ帝国は一定の成果が得られると、単独でイスラム教徒側と講和することがありました。イスラム教徒を徹底的に聖地から追い出すことを目標にした十字軍は、それを見てビザンツ人を『裏切り者』とののしりました。
『おべっか』……皇帝の権力は神に由来するものであるため、正面きって皇帝の悪口をいうことは出来ませんでした。そこで皇帝に対する批判は、その皇帝が死亡、あるいは失脚した後に行われる事になります。そこで皇帝が生きている間はおべっかを使い、その皇帝が死ぬと手のひらを返したように批判するといった現象が起こりました。
『枝葉末節の宗教論議』……西ヨーロッパでは、一般で読み書きが出来るのは神父などの宗教関係者がせいぜいで、一般人の殆どは読み書きが出来ませんでした。一方、ビザンツ帝国の教育レベルは高く、かなりの人が読み書きが出来ました。
また、聖書は『聖なる言語』(ユダヤ語・ラテン語・ギリシア語)でのみ記される事になっていました。ギリシア語を用いるビザンツ人は、読み書きが出来る者であれば誰でも聖書を読み、独自の解釈を行う事が出来ました(し、それが許されていました)。
宗教論議が盛んであったのは、教育レベルの高さと言論の自由があることの証明となります。
皇帝一覧
ビザンツ帝国が長きにわたって存続したことを実感していただく為、歴代皇帝の一覧を用意しました。
前述のとおり、何年をもってローマ帝国からビザンツ帝国へと変貌したかについてはさまざまな説がありますので、ここではローマ帝国の分割が行われた 395年以降の皇帝をリストアップしています。
いずれも、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの座を受け継ぐ皇帝たちです。
- テオドシウス朝 395-457
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- アルカディウス(395-408)
- テオドシウス2世(408-450)
- マルキアヌス(450-457)
- レオ朝 457-518 (資料によってはテオドシウス朝に含まれています)
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- レオ1世(457-474)
- レオ2世(474)
- ゼノン(474-475,476-491)
- バシリスカス(475-476)
- ゼノン(復位)(474-475,476-491)
- アナスタシウス(491-518)
- ユスティニアヌス朝 518-610
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- ユスティヌス1世(518-527)
- ユスティニアヌス1世(大帝)(527-565)
- ユスティヌス2世(565-578)
- ティベリウス2世(578-582)
- マウリキウス(582-602)
- フォカス(602-610)
- ヘラクレイオス朝 610-718
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- ヘラクレイオス1世(610-641)
- ヘラクレイオス・コンスタンティノス(コンスタンティノス3世)、ヘラクロナス(共同皇帝)(641)
- ヘラクレイオス・コンスタンティノス(コンスタンス2世 あるいは ポゴナトス「髭の男」)(641-668)
- コンスタンティノス4世(668-685)
- ユスティニアノス2世(リノトメトス「鼻削がれ帝」)(685-695,705-711)
- レオンティウス(695-698)
- ティベリウス3世(698-705)
- ユスティニアノス2世(復位)(685-695,705-711)
- フィリピックス・パルダネス(711-713)
- アナスタシウス2世(713-715)
- テオドシウス3世(715-717)
- イサウリア朝 718-867
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- レオーン3世(「イサウリアのレオ」「サラセン人好み」)(717-741)
- コンスタンティノス5世(コプロニュモス「糞皇帝」)(741-775)
- レオ4世(「ホザール人」)(775-780)
- コンスタンティヌス6世(780-797)
- エイレーネー女帝(797-802)
- ニケフォルス1世(802-811)
- スタウラキウス(811)
- ミカエル1世ランガーペ(811-813)
- レオ5世(「カメレオン」「アルメニア人」)(813-820)
- アモリア朝 820-867
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- ミカエル2世(820-829)
- テオフィルス(829-842)
- ミカエル3世(842-867)
- マケドニア朝 867-1057
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- バシリウス1世(867-886)
- レオ6世(「哲学者」)(886-912)
- アレクサンデル(912-913)
- コンスタンティノス7世(ポルフュロゲニトゥス「緋御殿生まれ」)(913-959)
- ロマノス1世(共治)(920-944)
- ロマノス2世(959-963)
- ニケフォロス2世フォカス(「サラセン人の蒼ざめた死」)(963-969)
- ヨハネス1世ツィミスケス(969-976)
- バシレイオス2世(「ブルガリア人殺し」)(976-1025)
- コンスタンティヌス8世(1025-28)
- ロマノス3世アルギュロス(1028-34)
- ミカエル4世(1034-41)
- ミカエル5世(1041-42)
- ゾエ(1042)、テオドラ(1042,1055-56)
- コンスタンティヌス9世(モノマクス「単独の戦士」)(1042-55)
- テオドラ(復位)(1042,1055-56)
- ミカエル6世(「ストラティオティクス」)(1056-57)
- イサキオス1世コムネノス(1057-59)
- コンスタンティヌス10世ドゥカス(1059-67)
- ロマヌス4世ディオゲネス(1067-71)
- ミカエル7世(パラピケナス「4分の1」)(1071-78)
- ニケフォロス3世ボタネイアテス(1078-81)
- コムネノス朝 1081-1185
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- アレクシオス1世コムネノス(1081-1118)
- ヨハネス2世コムネノス(カロ「美男」)(1118-43)
- マヌエル1世コムネノス(1143-80)
- アレクシオス2世コムネノス(1180-83)
- アンドロニコス1世コムネノス(1183-85)
- アンゲロス朝 1185-1204
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- イサキオス2世アンゲロス(1185-95,1203-04)
- アレクシオス3世(1195-1203)
- イサキオス2世アンゲロス(復位)(1185-95,1203-04)、アレクシオス4世(共治)(1203-04)
- アレクシオス5世(1204)
- (コンスタンティノス11世ラスカリス(くじ引きによる皇帝)(1204))
- ニケーア帝国(亡命政権) ラスカリス朝 1204-1261
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- テオドロス1世ラスカリス(1204-22)
- ヨハネス3世(1222-54)
- テオドロス2世(1254-58)
- ヨハネス4世(1258-61)
- ミカエル8世パレオロゴス(1259-82)
- パレオロゴス朝 1261-1453
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- ミカエル8世パレオロゴス(1259-82)
- アンドロニコス2世(1282-1328)
- ミカエル9世(共治)(1295-1320)
- アンドロニコス3世(1328-41)
- ヨハネス5世(1341-76,1379-91)
- ヨハネス6世(1347-54)
- アンドロニコス4世(1376-79)
- ヨハネス5世(復位)(1341-76,1379-91)
- ヨハネス7世(1390)
- マヌエル2世パレオロゴス(1391-1425)
- ヨハネス8世(1425-48)
- コンスタンティノス12世パレオロゴス(1448-1453)
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