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カネは天下のまわりモノ
 コンスタンティノープルにアッティラ大王ひきいるフン族が迫ったとき、テオドロス2世はとりあえずフン族に大量の金塊を貢いで目をそらし、その間に大城壁を築いた。大帝国の皇帝が貢がれるならともかく、貢ぐとは何事かと思ってしまうが、貢いだ金塊は帝国の周辺地域で消費された(ので結局は帝国に戻ってきた)。遠まわしな公共投資と言えなくもない。
オドアケルの律儀な反乱
 西ローマ帝国では傭兵隊長オドアケルが反乱を起こし、幼児だった皇帝ロムルス・アウグストゥルスを引退させた。『ロムルス』は伝説上のローマ建国者の名前(『ローマ』という名前もロムルスにちなむ)、『アウグストゥルス』は初代皇帝アウグストゥスと同じ名前(語尾が違うのは、子供であることを表わしている)。そのふたつの名を併せ持つ皇帝が西ローマ最後の皇帝となった。

 オドアケルは『皇帝は一人しか要らない』として東の皇帝ゼノンに西の『皇帝』の位を返上している。なんて律儀なんだ。
『初代』皇帝ユスティニアヌス?
 学研の『藤本ひとみのミーハー英雄伝』にはユスティニアヌスがすごい美形に描かれているが、実際には『やや肥りぎみで丸みを帯びた赤ら顔、いかにも健康そうであった』(『生き残った帝国ビザンティン』)という。まあ、いのまたむつみには美形を描いてもらわないともったいないけど。
 なお、『藤本ひとみのミーハー英雄伝』ではユスティニアヌスをビザンティン帝国初代皇帝としている。前述のとおり、ローマ帝国からビザンツ帝国(という名前の国)が明確に分かれてできたわけではないので、誰をしてビザンツ帝国初代皇帝とするかは諸説紛紛としている。その候補の中にユスティニアヌスも挙げられている。
皇妃テオドラ
 サーカスの熊使いの娘として生まれ、踊り子として見世物の前座(早い話がストリップ)や売春で生計を立てていた。皇帝になる前のユスティニアヌスは20歳年下の彼女に一目惚れしたが、当時の法律では踊り子と元老院議員の結婚は禁止されていた(ユスティニアヌス自身も、田舎の農民あがりだったのだが)ので、叔父のユスティヌス1世に頼んで法律を変えてもらってまで結婚した。後の皇帝たちも、貴族以外の身分の女性と結婚するようになった。
 人生をたくましく歩んできたテオドラは、その経験からユスティニアヌスのよき助言者となり、帝国の運営に大きな影響を与えた。彼女がいなければ、ユスティニアヌス1世はニカの乱でコンスタンティノープルから追われた皇帝として終わり、ビザンツ帝国の旧西ローマ帝国領再征服は実現せず、後のヨーロッパの歴史はまったく違ったものになっていたかもしれない。
 夫である皇帝を叱咤した上記のエピソードが有名だが、売春婦の更正施設や弱者のための厚生施設など、社会福祉にも力を注いでいる。
ギリシアの火、あるいは燃える水
 帝国最後の戦いでも用いられたこの秘密兵器、発明者はギリシア人のカリニコスであった。生石灰・松脂・精製油・硫黄などから作られ、水鉄砲から発射すると燃えながら飛んだという。水をかけても消えないので、海戦ではとくに効力を発揮した。この火炎放射器を装備したビザンツ帝国海軍は最強を誇ったという。
ローマ皇帝は地上にただひとり
 もちろんビザンツの皇帝(当時はニケフォロス2世)はそれを嫌がった。そこでローマ教皇が仲介を行ったのだが、あろうことかローマ教皇は全ローマを総べるローマ人の皇帝(という名目のビザンツ皇帝)を『ギリシア人の皇帝』と呼んでしまい、ローマ人の皇帝陛下はおブチ切れになられたそうである。
『実力』テスト
 中学か高校の時の実力テストで、『ビザンツ帝国を繁栄させ、「ブルガリア人殺し」と呼ばれた皇帝は誰か』という問題が出題された。そんなもん教科書に載っとらんぞ。
ブルガリア人殺し
 もっとも壮絶な戦いでは、バシレイオスの軍隊は 1万5000ものブルガリア兵を捕虜にした。捕虜は百人に一人は片目を、あとの99人は両目をくりぬかれ、戦闘から逃げ帰ったブルガリアの大将サムイルの下に送り返さた。1万5000もの軍勢が目をくりぬかれて戻ってくるのを見たサムイルはショックで倒れ、2日後に死亡。
 ブルガリア帝国は体勢を立て直すことが出来ず、ビザンツ帝国に吸収されることになる。

 後に復活したブルガリアの皇帝カロヤン(在位1197-1207)は徹底してビザンツ帝国と戦い抜き、『ローマ人殺し』を名乗ったという。
西暦1000年の大都市
 コンスタンティノープルは、当時の世界全体から見ると第3位の都市だった。
 第1位は、後ウマイヤ朝の都コルドバ(現スペインに位置するが当時はイスラム文化圏)。当時はイスラム文化圏が隆盛を誇っており、ベストテン圏内では世界第6位〜第9位もイスラム文化圏の都市だった。
 第2位は、宋の都である開封。
 第3位がビザンツ帝国の都コンスタンティノープルであり、第4位はアンコール朝の都アンコール(現カンボジア)、第5位は日本の京都だった。

 なお、コンスタンティノープル以外のキリスト教ヨーロッパ世界の都市は 10位以内にすら入っていない。

遠いキリスト教徒より近くの異教徒?
 物流レベルでは異教徒との交流も行っていたコンスタンティノープルの市民(ということはビザンツ帝国)は、戦闘以外でも異教徒と見れば殺したくてしかたがない十字軍士をどうしようもない野蛮人と見ていた。そして十字軍側は、目的である聖地の奪回と異教徒の殲滅を達成するまでに異教徒と休戦を結ぼうとするビザンツ人を「いいかげん」「すぐ裏切る」と見た。
一夜漬け皇帝(しかもくじ引き)
 アレクシオス4世をクーデターによって倒したアレクシオス5世は、十字軍に囲まれるとさっさとコンスタンティノープルから逃げ出してしまった。
 徹底抗戦派はくじ引きによって新皇帝を決め、コンスタンティノス・ラスカリスがそれに選ばれた。が、すでに十字軍相手に戦おうとするものは少なく、コンスタンティノスも翌日の朝に町を脱出した。
 即位式を行う前に町を脱出したので、コンスタンティノスを皇帝にするかどうかは説が分かれる。この件を扱った三冊の書籍のうち、1冊は皇帝に数えず、1冊は皇帝に数えないが皇帝と呼び、1冊は括弧付きで皇帝としている。
 いずれにせよ、コンスタンティノス・ラスカリスは弟のテオドロス・ラスカリスとともに町を脱出し、テオドロス・ラスカリスの建てたニケーア帝国(後述)はやがてビザンツ帝国を復興する

 なお、当ページ『千年王国ビザンツ』では、後述の『ビザンツ帝国はコンスタンティノスという名前の皇帝の時代に滅ぶ』という伝承のもとに、なさけない一晩皇帝をコンスタンティノス11世(ラスカリス)、滅亡時の戦いで壮絶に散った最後の皇帝をコンスタンティノス12世(パレオロゴス)としている。が、ふつうコンスタンティノス11世といえばパレオロゴスの方なので注意
モンゴル帝国の援軍
 この頃のブルガリアとセルジューク=トルコは、モンゴル帝国軍の侵入を受けていた。
ビザンツ帝国版『神風』
 マヌエル2世が援軍の派遣を求めて西ヨーロッパを放浪(?)している間に、オスマン帝国軍はコンスタンティノープルを包囲していた。コンスタンティノープルではトルコ軍に街を明け渡すかどうかの話が進んでいたが、突如として『サマルカンドの星』ティムール率いるモンゴル帝国軍がオスマン帝国軍を背後からばっさり。
 オスマン帝国は一時的に崩壊し、ビザンツ帝国の寿命は少しだけ延びた。
遠いビザンツ
 この頃、西ヨーロッパも百年戦争などの小競り合いが続いており、今や疎遠となったビザンツ帝国まで援軍を派遣する余裕はなかったのである。
『ローマ帝国』不用論
 ビザンツ帝国は、『キリスト教化された』『ギリシア人による』『ローマ帝国』の三要素からなる。
 ところが、パレオロゴス朝時代のビザンツ帝国ではローマ帝国以前の文明であるギリシア古代文明への傾倒が見られる。この傾向は1204年に都コンスタンティノープルを失い、ローマという建前の説得力が弱まった頃から始まっていた。自らをローマ人と呼んでいたビザンツ人は、かつては『異教徒』という悪い意味でしかなかった『ヘレネス(ギリシア人)』という言葉を自分達に対して使い始めた。
 さらに、ビザンツ帝国は西ヨーロッパからの援軍を得るために、自らのギリシア正教に対するローマ・カトリック教の優位を(泣く泣く)認めてしまった。そのために、ギリシア正教を奉じる民衆の心はビザンツ帝国から離れていった。
 民衆にとって、信仰の障害となる『ローマ帝国』という理念は不要になったのだ
都市伝説
 『コンスタンティノープルの陥落』(塩野七生, 新潮社)によると、コンスタンティノープルではこんな言い伝えやエピソードがあった。
コンスタンティノス13世?
 高校の時の資料集を見ると、件のソフィアの親(ということはコンスタンティノス11(12)世の兄弟)が『コンスタンティヌス13世(ビザンツ皇帝)』となっている。これは一体誰なのだろうか? ビザンツ帝国の飛び地で皇帝の弟がコンスタンティヌス13世を名乗っていたのだろうか。

 ペロポネソス半島にはビザンツ帝国領のモレア公国が繁栄しており、1460年にコンスタンティノス12世の弟である君主デメトリウス・パレオロゴスがオスマン=トルコ帝国に降伏するまで続いた。コンスタンティノス12世も皇帝即位前はモレア公国の君主であり、モレア公国でビザンツ皇帝の即位式を挙げていた。
 同じくコンスタンティノス12世の弟であるトマス・パレオロゴスはモレア公国陥落時にローマ法王の下に亡命、亡命政権を作っていた。
 ソフィアはこのトマス・パレオロゴスの娘だった。
 高校の資料集の記述が事実なら、トマス・パレオロゴスが『コンスタンティノス13世』を名乗っていた事になる。
ビザンツ帝国の後継者
 ビザンツ帝国は西ヨーロッパからの援軍を得るために、自らのギリシア正教に対するローマ・カトリック教の優位を認めてしまったことは前述した。これに反発したロシアの教会はコンスタンティノープルから独立し、ロシア正教となった。ロシア正教によると『コンスタンティノープルは誤った教えを認めたが為に、天罰が下された』そうである。

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