携帯電話ブランド変遷史
The history of cellular phone carriers in Japan



ツーカーってあったよね』
『ああ、今のソフバンだよね』
『えっ、auでしょ? (何言ってんの?)』
『あれ、そうだっけ? (はぁ?? 意味不明)』

 みたいな会話をした覚えはありませんか?
 実は、携帯電話会社のブランド名は、地域によってけっこうバラつきがありました。

 結論から言えば、


 のです。

 その原因には、いろいろな会社の、さらには国家間同士の様々な思惑が絡んでいました。

 では、30年ほど歴史をさかのぼってみましょう。


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目次
contents




NTT独占の時代から第2陣の参入まで

 昔は『携帯電話』などと呼ばれるものはなく、持ち運べる電話と言えば、大きな会社の社長さんの車に積んで使う『自動車電話』を指しました
(しかし、『自動車電話』とか『携帯電話』とか言葉を使い分けるのは面倒なので、以下、持ち運びできる電話をすべて『携帯電話』と書くことにします)

 かつて、携帯電話の事業はNTTが独占していました。
 言い換えると、携帯電話なんてものはほとんどの人にとっては必要ではなかったので

『携帯電話の会社がたくさんあったら共倒れになっちゃうから、NTTさん一社でやってね』

 という決まりになっていました。

 ところが、1985年に、規制緩和の波が携帯電話の世界にも押し寄せました。
 それまでNTTが独占していた携帯電話事業への参入が自由化され、他の会社も携帯電話事業に手を出すことができるようになったのです。

 しかし。
 これには、ひとつの条件が付いていました。
 その条件とは、

『携帯電話の会社がたくさんあったら共倒れになっちゃうから、同じ場所で携帯電話の事業ができるのは、2社までにしようね』

というものでした。


 既にNTTの携帯電話が全国をカバーしていたので、新規に参入できるのは1社のみ、ということになります。

 ところが、参入したい会社は2社ありました。

 ひとつはトヨタ自動車・日本道路公団・東京電力・中部電力などが立ち上げた日本移動通信株式会社。
 略して『IDO』(いどう)です。

 もうひとつは、京セラとそのグループ企業だった第二電電(DDI)が立ち上げた、セルラー電話グループです。
 以下、『セルラーグループ』と略します。

 話し合いの結果、IDOとセルラーグループが、地域がかぶらないように分かれて携帯電話を始めることになりました。
 言わば、これらの会社が『携帯電話第2陣』です(第1陣はNTT)。


 IDOは、関東・中部(ただし北陸4県を除く。以降、IDO関連で『中部』と表記した場合もこれに準じます)で営業することなりました。


 セルラーグループは、IDO以外の地区、すなわち、北海道・東北・北陸・近畿・中国・四国・九州・沖縄で営業することになりました。

 IDOは1987年3月に設立し、1988年には携帯電話事業を始めました。
 通信方式は、NTT大容量方式(略してHiCAP)で、NTTの携帯電話と同じ方式です。
 ちなみに、道路公団の資本が入っているので道路管理用の通信ケーブルを利用しており、高速道路沿いに強いと言われていました。

 セルラーグループは、1988年頃から地区別に会社を立ち上げ、順次サービスを開始しました。


 しかし、通信方式は、モトローラ社のTACS方式を採用しました。
 つまり、IDOとセルラーを合わせて全国をカバーするつもりだったのに、


 という困ったことになりました。


 そのため、IDOは、エリア外ではライバルのNTTのアンテナを利用する(以下、ローミングと表記します)ことになりました。

 ここにイチャモンをつけてきたのが、アメリカのモトローラ社です。
 モトローラは、名CPU『MC68000』などのメーカーで、当時のパソコンマニアからは『LSI界の良心』と呼ばれていた会社でした。
 セルラーはモトローラの通信方式を採用したのに、IDOがそうしなかったため、モトローラは日本での商売のチャンスが減ったと捉えたのです。

 政治力のあったモトローラは、アメリカ政府に

『なんか日本がね、おいらの通信方式を使ってくれないんスよー。どうにかなんないスかねー』

と陳情しました。

 折りしも、日本とアメリカとの間で、貿易摩擦が大問題となっていた時期でした。
 オイルショックの後、小型で使い勝手がよく、しかも壊れない日本車は、アメリカで売れまくり、そのせいでアメリカの対日貿易は大赤字、アメリカの自動車メーカーも車が売れなくて大赤字、という困った状態になっていました(最近も似たようなことがあった気がするのですが)
 アメリカで日本車反対デモが起こり、アメリカの労働者たちが日本車をハンマーでフルボッコにぶっ壊したんですが、冗談でその日本車のエンジンを掛けてみたら見事にエンジンが掛かってアメリカ人がびっくりしたのもこの頃のお話です。

 この反日ムードを抑えるため、日本の自動車メーカーは
『日本で作ってアメリカで売る』
 という方針を
『アメリカに現地法人を作って現地人を雇い、現地で売る』
 という方針に転換せざるを得ませんでした。

 今とまったく変わってませんね。

 そこで、アメリカ政府は、日本政府に対し、貿易摩擦の代償としてモトローラのTACS方式を国内に広めるよう圧力をかけてきました。
 外圧に弱い日本政府(今とまったく変わってませんね)は、IDOにもモトローラのTACS方式を採用するよう圧力をかけてきました。

『今更そんなことを言われても、もうアンテナ立てるお金は使っちゃったよ!』

 と言っても、世の中なぜか道理が通らないことがあるのです。


 結局、IDOはモトローラのTACS方式を導入することを強制され(1991〜1992)、結果的には、IDOとセルラーグループの相互ローミングで、NTTに頼らなくても全国でお互いの携帯電話が使えるようになりました。

 しかし、設備の二重投資を強制されたIDOは、この後さらにPDC方式も導入することになり、3つの全然違う通信方式を同時並行で運用(二重どころか三重投資!)しなければならなかったIDOの経営状態は悪化し、後のKDDやDDIとの合併につながることになります。


【ここまでのまとめ】

《第1陣》


《第2陣》

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そして、第3陣の参入

 時は過ぎ、携帯電話もかなり普及するようになってきました。
 世の中の空気を読んだ政府は

『同じ場所で携帯電話の事業ができるのは、2社までにしようね』

 という、それまでの規制を緩めることにしました。

 そこで、新しい商売を探していた日産自動車と、関東・中部以外ではセルラーグループを立ち上げてたけど、関東・中部にも自前の携帯電話会社を持ちたい京セラ+DDIグループが、タッグを組んで携帯電話事業に参入することになりました。

 1992年に、日産自動車・京セラ・DDIが


 を設立しました(事業開始は1994年)。

 ここで問題になったのが、関西です。
 日産は、関西にも携帯電話会社を作ろうとしましたが、京セラとDDI的には

『関西にはオレらが作った関西セルラー電話株式会社があるから、カネを出したくない』

 のです。

 そこで、日産だけで


 を設立することになりました(事業開始は1994年)。
 そう、DDIが絡むとついてくる『セルラー』という言葉がついてないんです。


 この、


 を、以後『ツーカーグループ』と略すことにします。

 同じ時期、日本テレコムも携帯電話事業に参入するため、


 を設立しました。


 これらの会社を、以後『デジタルホングループ』と略します。
 余談ですが、これらの会社にはJRの血が入っているので、鉄道用の通信ケーブルを利用できるため、線路沿いに強いと呼ばれました。
 また、この頃、NTTの携帯電話サービスのブランドが『NTTドコモ』になりました。

 当初はツーカーグループ・デジタルホングループそれぞれが独自に全国展開することを目指しましたが、既にNTTドコモ・IDO・セルラーが携帯電話事業を行なっていたので、さらに2社増えると、残った小さなパイの奪い合いで共倒れになることが予想されました。

 そこで、政府の指導により、関東・中部・関西以外の地域については日産と日本テレコムが合同で会社を作り、ツーカーグループとデジタルホングループの両方のローミングを受け持つことで、両グループの全国展開を実現することになりました。

そこで、日産と日本テレコムが合同で設立したのが


 です。


 これらを、以後『デジタルツーカーグループ』と略します。


 ローミングにより、ツーカーグループとデジタルホングループは、域外でもデジタルツーカーの電波を使うことによって携帯電話を使うことができ、デジタルツーカーグループは、域外ではツーカーグループとデジタルホングループのどちらかの電波を使って携帯電話を使うことができました。

【ここまでのまとめ】

《第1陣》

  • NTTドコモ 全国展開

  • 《第2陣》


    《第3陣》



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    J-PHONEの成立

     さて、不景気の波は自動車業界にも訪れました。
     経営不振に陥り、2兆円以上の借金を抱えて倒産寸前まで追い込まれた日産は、あの有名なカルロス・ゴーン社長の下、再建を目指す事になりました。
     リストラの一環として、自動車産業と関係のない商売からは手を引くことになり、1999年8月に、ツーカーグループは他社へ譲ることになりました。

     ここで、


     は、共同で会社を立ち上げたDDIに譲ることになりました。

     株式会社ツーカーホン関西はどうなったかといいますと、DDIはこの会社には出資していない(だって先に関西セルラー電話株式会社を作ってましたから)ので、引き取る義理はなかったのですが、結局、東京・東海と同じくDDIに引き取ってもらえることになりました。


     これで、ツーカーグループはすべてDDIが引き取ることになりました。

     一方、デジタルツーカーグループは、共同で会社を立ち上げた日本テレコムに引き取ってもらえることになりました。

     1999年、10の月。
     日本テレコムは、自分のものとなったデジタルツーカーグループと、もともと自分のものだったデジタルホングループをくっつけることにしました。


     こうして生まれたのが、あの『J-PHONE』です。

     ここで注意しなければいけないのが、
    『デジタルツーカー』は、販売店側も利用者側も『ツーカー』と略すことが多かった
     という点です。
     このため、デジタルツーカー地域の人は『デジタルツーカー』とは別の『ツーカー』があることを知らず、

    『ツーカーはJ-PHONEになって消滅した』

     と思い込んでいる
    人が多く、冒頭のようなやり取りが起こる原因になっています。


     なお、デジタルツーカーでない方のツーカーグループは、J-PHONEとのローミングで全国サービスを維持しました。

     さて、本題が終わったので、ここからは話題を変えて、今の携帯電話会社につながる話をしようと思います。

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    J-PHONEからVodafone、そしてソフトバンクへ

     最初の疑問である『人によってツーカーの吸収先が違うのは何故か』という問題には、これで回答が出ました。
     すなわち、


     のです(正史的には「デジタルツーカー地域の人は『ツーカー』という携帯電話会社を勘違いして覚えているから」ということになるのでしょうが)。

     せっかくなので、ここからは複雑な変遷をたどったJ-PHONEのその後について、ざっくりとまとめてみようと思います。

     2012年現在、J-PHONEの後裔であるソフトバンクが、一生懸命

    『つながらない→つながる プラチナバンド』

     という(自虐的な)CMを打っています。

     後発組だったJ-PHONEは、今まで、1.5GHz帯という、ドコモやauの800MHz帯と比べて不利な電波帯を利用せざるを得ませんでした。
     電波は、周波数が高くなるほど直進性が強くなります。
     言い換えれば、建物や山の陰に回りこむのが難しくなります。
     そのため、1.5GHz(=1500MHz)の電波帯を使用するJ-PHONEは、800MHz帯を使用するドコモやauと比べて、建物の中やビルの陰などではつながらないという宿命を負っていました。

     このため、当初は『J-PHONE? あんなもん学生とか、金のない人が使うケータイだよ』みたいな謗りを受ける羽目に陥っていました。

     余談ですが、ある市役所の職員さんは、わざと電波の弱いJ-PHONEを使っていました。
     急な呼び出しがあったときに

    「なんで携帯の電源を切ってたんだ!」

    と言われても、

    「いや、J-PHONEは電波が弱いんで」

     と言い逃れすることができるからだそうです。

     ちなみに、その市役所の建物の中ではJ-PHONEの電波が入らなかったそうです。
     ある市町村でその携帯電話が使えるかどうかの基準点は、市町村役場の位置だそうなので(つまり、その市町村役場の場所で携帯電話がつながれば、その市町村の人口をカバーしているとカウントします。詳しくはこちら→ Wikipedia )、解釈によっては

    その市ではJ-PHONEが一切使えない

     ということにもなりかねないのですが。
    (実際には、さすがに建物外や窓際では電波は入ったようです)

     この『携帯電話としての品質の低さ』をカバーするために、J-PHONEは様々な付加価値サービスの普及に取り組みました。
     そして生まれたのが、あの『写メール』です。

     携帯電話にカメラを積んで、その写真をメールに添付するということ自体は、J-PHONEが初めてだったわけではないのですが(PHSのエッジが先でした)、ブームに火をつけたのは、まぎれもなくJ-PHONEでした。
     今でも、携帯電話会社を問わず、写真添付メールのことを『写メ』と呼ぶことに、そのインパクトの強さを窺い知れます。
     こうして、J-PHONEは『貧乏人の携帯』から『新進先取、若者たちのケータイ』に、そのイメージを変貌させました。

     なお、auは、回線品質やパケット代の安さでJ-PHONEより写真添付メールに向いていたにもかかわらず

    『わざわざ携帯電話にカメラを内蔵しなくても、別にオプションでもいいでしょ』

     とばかりに、外付けタイプのカメラ(充電コネクタに接続して使う)を販売しましたが、ダサいせいかあまり普及しませんでした。
     後に、カシオ製のA3012CAが、auにおけるカメラ内蔵携帯電話の嚆矢となり、爆発的にヒットすることになりました。

     こうして順風満帆だったJ-PHONEですが、日本の携帯電話業界に再び外圧が押し寄せることになりました。

     J-PHONEが日本テレコム系の会社だということは、前に述べましたが、日本テレコムは、国際通信事業を強化するため、外国の通信事業者数社と資本提携していました。

     資本提携の相手は


     という、いずれも名門ぞろいでした。
     日本テレコム的には


     という考えでした。

     ところがです。

     2001年、AT&Tが英Vodafoneに日本テレコム株を売ってしまったのです。
     このことで、英Vodafoneは一挙に日本テレコムの大株主に躍り出ました。

     驚いた日本テレコム首脳陣は、慌ててブリティッシュ・テレコムに

    『手持ちの日本テレコム株を英Vodafoneに売らないように』

     と要請しました。
     要請は快諾され、日本テレコム首脳陣は

    『名門のブリティッシュ・テレコムだもの、約束は守ってくれるだろう』

     と一安心しました。

     しかし。
     ブリティッシュ・テレコムは、英Vodafoneに日本テレコム株を売ってしまいました。

     日本テレコムの幹部は突然のことに茫然自失し、

    『こんなはずじゃなかったのに』

     と言いながら、ただ指をくわえて見ているしかありませんでした。
     そしてついに、英Vodafoneは、TOBで株を買い占めはじめました。
     今で言う、敵対的買収です。

    『ひどいよ! こんなのってないよ! あんまりだよ!!』

     しかし、英Vodafoneの目的は、日本テレコムではありませんでした。
     日本テレコムが持っていたJ-PHONEの奪取、それこそが英Vodafoneの目的だったのです。
     そして、日本テレコムの経営権を握った英Vodafoneは、J-PHONEを自分の支配下に置きます。

     ここまでのことは、すべて2001年のうちに起こりました。

     こうなれば、もう日本テレコムに用はありません。
     英Vodafoneは、J-PHONEを失った日本テレコムを、さっさとアメリカの投資会社であるリップルウッドに売っぱらって処分しました(2003年11月)。

     当時、このことは、事情通に

    『同じ名門だからといってブリティッシュ・テレコムを信用したのが間違い。アングロサクソンに浪花節は通じない』

     といった言われようをされました。

     そして、あの外資Vodafoneによる、J-PHONEのVodafone化が始まったのです。

     僕はJ-PHONEを使ったことがないので実感はないのですが、外資は株主様が神様ですから、設備投資など一切行わず

    『世界に冠たるVodafoneを使えるユーザー達よ、崇め祭れよ』

     的な感じだったようです。

     J-PHONEが努力して積み上げてきた、新進先取、スマートな携帯電話のイメージはズタズタに引き裂かれ、もとJ-PHONEユーザー達は冬の時代を迎えました。

     そして数年が過ぎ……。

     ソフトバンクの孫正義社長が

    『ADSLは牛耳ったし、そろそろケータイにも手ぇ出してぇなぁ』

     と考えていました。
     そして、新たな携帯電話会社を立ち上げる準備に入りました。

     一方その頃、英Vodafoneは一向に儲けの出ない日本のボーダフォンに業を煮やしていました。
     このまま持ってても、ジリ貧になるだけだし、どっかに売っぱらってしまおうか、なんて思い始めました。

     ここに、英Vodafoneとソフトバンクの意見が一致しました。
     ソフトバンクは英Vodafoneから日本のボーダフォンを買い取って一挙に携帯電話事業に参入、英Vodafoneは大金(1兆7,500億円!)をせしめてほくほく顔です。

     一方、ソフトバンクは、借金してまで買った日本のボーダフォンの扱いをどうするか考えていました。

     今や、Vodafoneのブランドは地に落ちている。
     ライセンス料を払って、Vodafoneの名前を使い続ける意味はないだろう。
     ソフトバンクの名前で商売するか。
     あるいは別のブランド名をつけるか。

     これには、ソフトバンク社内でもかなり揉めたそうです。

     一番有力だった意見は『名前をJ-PHONEに戻す』というものだったと言われています。
     外資に乗っ取られてめちゃくちゃにされた携帯電話会社に、J-PHONEの名前を復活させれば、今まで苦難の日々を送っていたユーザーたちもかつての栄光の日々を取り戻せる。
     うまくいけば、他社に乗り換えた人も戻ってきてくれるかもしれない。

     しかし、最終的には、孫さんの鶴の一声でブランド名は『ソフトバンク』に決まりました。

     ソフトバンクは、iPhoneを日本で最初に売り出した携帯電話会社として隆盛を極め、現在に続くことになります。
     なお、英Vodafoneによってリップルウッドに売っぱらわれた日本テレコムは、流転ののちにソフトバンクが買い取ることになりました。
     こうして、かつての親会社と子会社は、ソフトバンクの傘の下で、ふたたび再会することになりました。
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    一方、au陣営は

     では、ちょっと時を戻して、今度はIDOやセルラーグループ、つまり現在のauに到る流れを追ってみましょう。

     通信業界再編の風に晒されたのは、日本テレコムだけではありませんでした。
     国際電電(KDD)、第二電電(DDI)も同じでした。
     この2社は『貴族のKDD』『野武士のDDI』と呼ばれるほど社風の違う会社でしたが、合併することを決めました。
     そして、KDDとDDIの合併に、かつてのモトローラの圧力の影響などで経営の苦しかったIDOも加わることになりました。

     合併に先立ち、2000年7月には、IDOとセルラーグループの携帯電話ブランドを『au』に統一しました。

     こうして、2000年10月に、KDDIが発足しました。

     『なんで「KDDIDO」じゃないの?』と思われるかもしれませんが(それをネタにした企業コマーシャルもありました)、『KDDI』はあくまでブランド名で、正式な社名は『株式会社ディーディーアイ』でしたし、社内的には『KDDI』とは『株式会社ディーディーアイ』の略でした。
     後に、旧KDDの社員の尽力によって、正式な社名が『ケイディーディーアイ株式会社』に変わり、後にローマ字商号の解禁によって『KDDI株式会社』となりました。

     また、セルラーグループの各社は、2000年11月に関西セルラー電話株式会社が他の会社を飲み込む形でひとつとなり、『株式会社エーユー』になりました。
     株式会社エーユーの中には、IDOは入っていないので、auブランド発表後も、実際の運営は



     に分かれていたことになります。


     2001年10月には、株式会社エーユーはKDDIに吸収され、名実共にau by KDDIとなりました。

     ところで、沖縄セルラー電話は現在もなお、KDDI本体に吸収されずに残っています。
     これは、他の携帯電話会社が沖縄を九州エリアの一部として扱ったのに対し、auでは沖縄独自の法人を立ち上げ、地元資本もその立ち上げに関わっているからです。
     沖縄では、セルラー改めauは『おらが県の携帯電話会社』という意識が高く、全国的にはドコモが携帯電話シェアの半分を握っていますが、沖縄ではauがシェアの半分を握っています(今でこそ50%を割り込みましたが、かつては50%を超えるシェアを誇っていました)。
     そのへんの事情もあって(政治家が言うところの『県民感情を考慮して』ということになるのでしょうか)、沖縄セルラー電話株式会社は今でもKDDIに吸収されず、独自に存在し続けています。
     また、『auシカ』という独自のキャラクターも存在します(本州では鹿はきのこを食べる。沖縄ではauシカがドコモダケを食べる!!)。

     ちなみに『あうシカ』ではなく『エーユーシカ』と呼ぶそうです。
     あうシカだと風の谷に住んでそうなんですが。
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    ツーカーは二度死ぬ


     最後に、ツーカーグループ(デジタルツーカーではない方)についてまとめて、この話を締めようと思います。

     1999年、日産がリストラ策の一環として携帯電話事業から撤退する際に、ツーカーグループ(日産+DDI系)をデジタルホングループ(日本テレコム系)やデジタルツーカーグループ(日産+日本テレコム系)と一緒にして『でっかいJ-PHONE』を作る予定で話が進みました。
     しかし、DDIは『自分が持っているツーカーグループの株の買取価格が不満だ』と言い出し、この話はおじゃんになります。
     実際のところは、これからライバルになるのがわかりきっている後のJ-PHONE陣営に、むざむざ塩を送ることを嫌ったのかもしれません。

     ちなみに、この頃の携帯電話の契約数は、おおよそこんな状態でした。


     (平成11年6月末 出典:社団法人 電気通信事業者協会

     つまり、デジタルホングループとデジタルツーカーグループとツーカーグループが合体したと仮定すると、982万台という巨大グループが誕生することになり、後のauは永遠の三番手ということになっていたかもしれません。

     各社が第3世代携帯電話への設備投資を進める流れの中で、ツーカーグループはあえて第2世代携帯電話にとどまる選択を行いました。
     第3世代携帯電話への移行は、規模の小さいツーカーグループにとっては重荷であったこと、また、第2世代携帯電話の設備がこなれて安くなったことで、経費の節減を行なうことができたからです。
     こうして、ツーカーグループは、安さを売りにした営業戦略を進めたほか、ボタンだけのシンプルな携帯電話を販売し、auとの住み分けを図りました。

     2005年10月には、ツーカーグループの3社がKDDIに吸収合併されます。
     そして、ツーカーグループの電話番号そのままにauに乗り換えができるようになりました。
     現在では当たり前となったMNP(携帯電話番号持ち出し制度)が、ここでは少しだけ早く行なわれたことになります。
     KDDIとしては、ツーカーグループの利用者をそのままauに取り込もうとしたのでしょう。
     一時的にですが、『TU-KA by KDDI』というブランドも使われました。

     やがて、2006年6月には、ツーカーの新規契約の受付が終了しました。
     そして、2008年3月末をもって、ツーカーの電話サービスは終了し、ツーカーは終焉を迎えました。
     先の『デジタルツーカー』の消滅もカウントすると、『ツーカー』ブランドは二度目の死を迎えたことになります。

     なお、その後も、ツーカーの携帯電話を旧デジタルツーカーグループの営業区域に持ち込むと、ソフトバンクの電波を拾い、アンテナが立ちました(もちろん通話はできませんでしたが)。
     これも、2010年3月末にソフトバンクの第2世代携帯電話サービスが終了したことにより、昔話となりました。
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     ちなみに、僕は関西セルラー時代からのauユーザーです。

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