大正の初め、阪神電鉄に続き、今の阪急神戸線が開通しました。
これに触発され、京阪間にも2本目の私鉄を建設する動きが活発化しました。
阪京電気軌道、京阪急行、阪神系の名阪電力鉄道などの会社が計画あるいは設立され、京阪間に私鉄路線を建設する申請を行いました。
既得権をおびやかされることを恐れた京阪も、淀川西岸に鉄道を建設するための申請を行いました。
このころ阪神・阪急の争いは熾烈を極めており、同じことが京阪間でも起こるのは好ましくないとした国は、阪神など他の申請団体を退けたうえで、京阪に免許を交付しました。
京阪神電車 阪神も、名阪電力鉄道の名前で京都延長線の出願を行っている。実現した場合、“京阪神電車”が誕生していたのだろうか。 |
カーブの多い京阪本線とは対称的に、新京阪線はカーブを極力減らすよう設計されました。レールには1mあたり50kgの重レールを使用しました(当時、東海道本線のレールが37kgでした)。架線も当時最新のコンパウンドカテナリを採用しました。架線電圧は関西私鉄初の1500Vを採用しました(京阪本線の架線電圧が1500Vになったのは、関西大手私鉄の中で一番最後でした)。ホームの有効長は大型車(19m車)5両編成が停まれる長さでした(当時は長くても3両程度)。すべての駅が退避線を設置できるように建設されていました。
コンパウンドカテナリ 架線を張る時には、最初に線を引っ張っておき、それに紐をぶら下げてそこに架線をくくりつける。これによって架線がたるむのを防ぐのだが、コンパウンドカテナリはぶら下がっている紐にさらに線を括り付け、そこからぶら下げた紐に架線をくくりつける。 |
この高規格路線を走るために作られた電車『デイ100形』は、車体長19m、50tの巨体を、150kWのモータ4台の大出力にものを言わせ、時速100km以上の高速で走りました。
なお、防音のため二重窓を備えていました。
新京阪線を走る超特急は、東海道本線を走る特急“燕”と同時刻に大阪を発車しました。
ダイヤ上は“燕”を追い越してから山崎付近で並走するようになっていましたが、新京阪線の超特急はその少し前にわざと速度をゆるめ、“燕”と並ぶように走りました。そして互いの位置が両列車の乗客からもよく見える場所に来ると、再び加速して“燕”を追い越し、乗客を楽しませました。
超特急は天神橋−西院間を34分(“燕”は40分)、評定速度72.7km/hで走りました。
やがて、非電化であった国鉄がついに電化されることになりました。これに対し、京阪は昭和12(1937)年に利便性の向上のため大幅なダイヤ改正を行い、さらに1割近くの運賃値下げを行いました。加えて、京阪が持つ新京阪線沿線の住宅用地を大規模に売り出しました。これには『契約後1年以内に住宅を建築して居住の場合は、土地代金の1割を払い戻した上家族のうち一人に京都または大阪までの優待乗車券1年分を贈呈』という特典つきでした。他にも工場や学校などの沿線への誘致も行いました。
これら関係者の懸命の努力の結果、国鉄電化直後を除けば収益はむしろ上がりました。
こうして、新京阪線の黄金時代が続きました。
しかし、戦争の混乱によって、やがて新京阪線は阪急京都線となってしまいます。
阪急信者 このように、阪急京都線は純然たる阪急の路線ではない。そのため、神戸線・宝塚線と比較して阪急信者の数は少ないといわれている。新京阪ビルヂング 平成22(2010)年に取り壊されてしまったが、大阪市営地下鉄と阪急の天神橋筋六丁目駅付近に、天六阪急ビルという建物があった。 |