仏教の力量
私はかつてインド哲学(仏教)を専攻する学生でした。短期間で結論の出る学問では勿論なく、当時の問題意識はゆるやかになっているとしてもいまだに意識の奥に残留したままになっています。かつての課題を整理しつつ新たに加わった問題をも考慮に入れつつこの世紀末を考えてみたいと思います。
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私達が物を見る時、常識として外側からその対象を観察するでしょう。仏教では必ずしもそうではなく、内側から物を観ます。自分の足を見るというとき、西洋の考え方ではスケッチするようにあたかも自分と切り離された客観物として足を分析・描写するでしょう。仏教では<内観>と言い、足を内側から観ます。座禅の時などに奨励されています。精神を集中して足の裏の内側に持って行く。それが内観、見ることになるのです。精神の目で、感じることが観ることです。
自分の身体なら可能と考えられるでしょうが、そこで留まらないのが仏教です。全世界を内観するのです。当然、全世界と同じかそれ以上の大きさの認識主体が必要になります。私が考えた無我とはそのように内観する認識主体としての無限大に肥大した自我でした。
無我とは自我が消滅したり自然に吸収・溶解しただけという消極的なものではなく、積極的に拡大したものと考えました。
<無我>とは無我であり、有我であります。無限大という計り知れないものはあっても無きに等しくなります。矛盾が矛盾ではなくなります。仏教の世界では論理的矛盾が無意味になります。あまりに大きすぎて認識主体が見えなくなります。認識主体を認識するものがもはや無いからです。
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