πνευμα _ Take into consideration


Written by Suzuki, since 2000








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私の考えとして・・・


「 真・善・美 」の視点から・・・



全日本弓道連盟によると、弓道の最高目標は「真・善・美」という事になっています。





全弓連発行の「弓道教本 第一巻 射法編」によると・・・
  • 「 真 」 = 『 「真なる弓は偽らない」ことであって矢は真っ直ぐ飛ぶから的中に偽りはない 』

  • 「 善 」 = 『 弓によって親しみ、弓によって協同し、和平であり、心的にも平静を失わない境地が必要な条件である 』

  • 「 美 」 = 『 すべての芸術 ― 美術・文学などがこれを高い目標としているのである。弓における美とは「真なるもの」は美しく、「善なるもの」も美しい。これを具体的に表現しようとする射礼もその一つである 』

・・・だそうです。

私としても、これはこれとして正しい事だと思います。





しかし、これを逆説的に論じてみると・・・

  • 「 美しくない射は善ではない 」
  • 「 美しくない射は真ではない 」
  • 「 的中しない射は偽りの射 」
  • 「 偽りの射は真なる弓ではない 」

というようにも表現出来ますよね。





ところで。

全日本弓道連盟の段位認定審査において、「模範演武」というモノを高段者の方によって 疲労 (もとい、披露) されています。

地方審査の場合では、全国的に六段くらいの方がされる場合が多いでしょうか。

このクラスの方は若手の方(弓道でいうところの若手)が多い訳なので、弓術面のテクニックと肉体面でのパワーとのバランスが整っているため、文字通り受審者への「模範」として具体的にも相応しいモノだと思います。

ただ、中央審査の場合において、「雲の上」的な存在の高名な大先生がしていただける「模範演武」では、果たして受審対象者への「模範」と言えるのでしょうか???





全弓連の「審査規定」では、超高段位や高称号での基準は、つまるところ

  • 人格的にも射法的にも「仁・義・礼・智」の四徳を会得しているか否か?

であるとか、

  • 指導者としての力量がどれだけ備わっているか?

という事だと思うのです。


超高段位や高称号を実際に認定・授与されている方に、「武道としての表現に相応しい力感溢れる射術」を求める事は、年齢的に無理なのは当然の事ですから、これもこれとして正しい事でしょう。




しかしながら、中央審査の受審者へ求められる射技は、

  • 「武道としての表現に相応しい力感溢れる射術」

であり、

  • 「完全な的中」

な訳ですから、受審者への「模範」として具体的に参考になるとは思えないのです。

超高段位や高称号を実際に認定・授与されている方が、細部の一つ一つのテクニックとして非常に優れているのはそれまで積み重ねてきた修練の結果である訳ですから当然です。

ただ、だからといってそれを「美しい射」であるとしてしまうのは「木を見て森を見ず」状態であり、問題があるのでは無いでしょうか?





また、「芸術的価値」というモノは、社会から自然に共通認識されるという理論があります。
(美学や芸術哲学の基礎中の基礎)


技術的には秀逸で「キレイ」なシロモノでも、社会からは芸術として評価されないモノもあれば、誰が見てもキレイでは無いシロモノでも誰もが芸術として認識する事があるのは周知のところでしょう(ピカソの「ゲルニカ」等々)。

日本を代表する芸術家であった、故 岡本太郎氏の著書でも数多く述べられていますが、表面ヅラのミテクレを形容する「キレイさ」と、内面的な価値を表す「美しさ」とは、言葉としての同質に区分されるモノではありません。





ヒトというモノは、社会からの影響であったり教育による学習などに依存しなくとも、その分野の知識や技術に精通などしていなくても、真に優れたモノからは芸術的価値を見出してしまう事ができ、「ビビビ」と感じてしまうモノなのです。

つまり、表現者の、個性・人間性・表現の意図等々が、その表現に込められていれば、自ずと伝わるモノなのであり、そのような力を秘めた表現行為の総称を「 芸術 」と言い表し、その価値基準を「 美しさ 」という尺度で測るのです。




誤解を恐れずに言い換えてしまえば、

  • 「 美しさ 」 = 「人(万人)を感銘させる力の強さ」

なのです。

※ : 文学や音楽、古典芸能は美学の対象では無いし、「 キレイ 」という表現も当てはまりませんが、芸術として、「 美しさ 」という形容表現の対象である事からも、この事はご理解いただけると思います。





そして。

表面ヅラを取り繕うために弱い弓を引いて見かけ上滑らかで「キレイ」な射を演出出来ればそれで良しとする、いわゆる「日弓連流」の思想が間違っている理由がここにあります。

武道についての心得がまったく無いヒトが目にしても、「武道に打ち込む姿」というモノはヒトの心を打つ・・・、という事がある訳じゃ無いですか。

でも、なぜヒトの心を打つかというと、やっぱりそれ相応の修練というか努力というバックボーンがその姿に滲み出ているから、では無いんでしょうか?

強い弓力の弓を、弱い弓を扱う人々と同等の滑らかさで引くには、弱い弓を扱う人々の数倍の努力が要求されますが、武道の修練なんだから、努力も苦労も掛かるに決まってるじゃないですか!!!

少なくとも、私の周りの年配の先生方の若い事というのは、男子たる者みんな20kg台の弓を引いてた、という話を良く聞かされましたし、いま現在においても、静岡県を代表する若手指導者(弓道でいうところの若手)の多くの方々が20kg台の弓を引いています。

それなのに、チマタに溢れるイマドキの若いモンは、いわゆる「日弓連流」なる思想を間に受けて、弱っちい弓で的中だけに囚われて引いている・・・。

それで果たして「武道の魅力の何たるか」であるとか「人を感銘させる力の強さ」というモノが、そのヒトから滲み出てくるモノなのか、甚だ疑問の残るところです。





ほかにも、まったく弓に縁の無いヒトが、「雲の上」的な存在の高名な大先生の射を目にして果たしてそれを「美しい」と感じるでしょうか???

たしか1995か1996くらいだと思ったのですが、「ニュースステーション」(テレビ朝日)のスポーツコーナーで、スポーツ担当キャスターが弓道を一日体験するという内容を放映していました。

そのときのコーチ役として東京の九段か十段の先生が指導されていたのですが、お手本として披露されていたその射(ヨボヨボ・・・)は、弓を習いたての当時の私には「ビビビ」と伝わってくるモノはありませんでした。
(私のその時の感想 : 数少ないマスメディアへの露出な訳だから、「弓道ってカッコイイ」「弓道って素敵♪」と他者へ感じさせるような射の出来る、もっと弓道の普及に繋がるような人選が他にあるだろ!!!)



一般の視聴者の方々がその放送を目にしても、果たして「弓道って凄い!」と感じさせる事が出来たかどうか、相当疑問が残るところです。



「人を感銘させる力の強さ」に疑問の残る射が、果たして「善」であったり「真」であったりするのでしょうか?







話が反れましたが、中央審査での「模範演武」で確実に「束る」自信のある先生方はいらっしゃるでしょうか?

若い頃は全国に名を馳せた先生方でも、その頃の的中を維持し続けられはしないハズです。

中央審査の「模範演武」が精神的な負担にならない無い先生方っていらっしゃいます?


「的中しない射は偽りの射」「偽りの射は真なる弓ではない」である以上、意地を張って現役にしがみつて「これが模範だぁっ!!!」というのは「見苦しい」という自覚は全弓連の組織の中には生まれないのでしょうか?






荀子曰く、「欲をして物をきわめず、物をして欲を屈せしめず、両者相持して長からしむる」。

それが礼成立の目標である訳ですから、私利私欲を剥き出しにして現役にしがみついている現在の全弓連の体制は、果たして「礼」に適っているといえると思いますか?


礼にそぐわない、見苦しい様を晒す体制は、美しくないですよね。

と言う事は、

  • 美しくない体制は善ではない
  • 美しくない体制は真ではない

という事に他ならないのでは無いでしょうか?

「善」や「真」では無い体制は、早急に変えなければいけないですよねぇ♪



「いつまでも若い事と同じように弓を引きたい」「いまでも若いモンには負けん!」という気持ちは大切でしょうが、弓道も武道である以上、体力が衰えたらそれを自ら認め、指導者としての責務を果たす事に専念するのが筋というモノでしょう。

それなのに、弓道では体力の衰えた大先生方が第一線にしがみついて、「衰えた体力でも出来得る射」を正当化するために表面ヅラでしか価値を捕らえない『日弓連流』」なるシロモノを広めている。

これが果たして正しい武道の有り方でしょうか???