第二章 水面下の日中アヘン戦争


3 張学良と関東庁のアヘン戦争

●張作霖もアヘンに手を伸ばす

 繰り返しになるが、アヘンの販売ルートの確保は軍閥や地方政府などにとって財政上重要な問題であった。自らの息のかかった商人が発展すれば、販売税や販売特許費の徴収で自らの財政が潤うことになる。それゆえに市場をめぐった争いは時として政治色を帯びるし、浙奉戦争のように勢力同士の軍事衝突が起きるなど一大事として取り扱われてきた。
 馬賊出身で奉天の軍閥であった張作霖は1927年、第二次奉直戦争によって奉天票が暴落して財政難に陥ったとき、挽回策として奉天全省禁煙局禁煙章典を公布し、アヘン禁止を解禁して財政を立て直そうとしたことがあった。アヘンの売買を公認して商人から販売許可税をとるか、専売体制を築こうとしたのだろう。しかし、それは内外の批判を浴びて数ヶ月で撤回せざるを得なかった。批判は法律や人道上の理由もあるだろうが、本音は奉天にある程度のマーケットを持つ政府・軍閥が、張作霖が市場介入を行うことで利権を失うことを恐れたというところにあるだろう。また、張作霖に各地から流入し、奉天に氾濫するアヘンを御する力があるかどうかも現実問題として浮かび上がってくる。張作霖は「未遂に終わった」というのが正しいところではないかと私は考える。

●アヘン禁止を行う張学良

 このとき張作霖と対照的に勢力を盛り返した国民党は、自らの勢力下で禁煙運動を行った。張作霖死後、張学良は易幟後に国民政府に倣って28年9月の国民政府の禁煙法施行条例にのっとり、率先してアヘン吸引癖を改めて禁煙運動を推進し始めた 。
 張学良が1929年に出した禁煙令は中華民国法に則りアヘンの吸飲、売買、所持を禁止して、違反者には5年以下の徒刑、5000元以下の罰金を科した。張学良がアヘン禁止を敢行することで、奉天ではアヘンは禁制品となって「表向き」はアヘンは消滅し、日本・朝鮮人の麻薬商人や密売人は張学良の勢力下で排除された。以下に張学良政権のアヘン禁止を具体的に見ていこう。

●実体の伴わない禁煙

 さて、本当に張学良は禁煙を行ったのだろうか。禁煙とは要するにアヘン吸引の悪癖を取り除いて社会がアヘンに頼らないようにすることである。張学良の場合は、一部では成功したといえないこともないが、本格的な禁煙を行ったかといえば答えは否だろう。
 張学良政権が朝鮮人による鉄道を利用した密輸を取り締まった例こそあるが、張学良自身も同じく満州に流入するアヘンや商人を利用して、名目上は禁煙のためとしてみかじめ料や特許費を入手して財源となしていたと考えるのが妥当だろう。
 というのも、そもそも禁煙政策を何度と無く出している国民政府自身がアヘンの密売で利益を手に入れていた事実があるからである。アヘンの生産地にして消費市場であった満州はいうまでもないだろう。即ち、国民政府の禁煙は国際会議の場で自らの立場を良く見せるための一種のパフォーマンスに過ぎなかっただろう。

●張学良と関東庁のアヘン戦争

 張学良政権で日本勢力下のアヘン麻薬販売人が排除されたのは、禁煙と称して商売仇を公権力を借りて市場から駆逐しようとした狙いがあったのは疑いない。禁煙令を出す前は張学良時代の奉天城内でも、関東庁のアヘンと熱河アヘン、朝鮮産や北満のアヘンが市場を争っていた 。張学良政権にしてみれば、神出鬼没するアヘン商人に対応するだけでも大変な話なのに、さらに逮捕し、実刑を下す「取締る」番となると「治外法権」という壁に阻まれて難しかった。たとえば瀋陽ではモルヒネ所持のかどで逮捕しても、日本の領事館から引渡しを要求されるという事件が発生した。
 そこで張学良政権はきりのない「取り締まり」から「封じ込め」へと方針を転換することにした。張学良政権は、日本側の活動基盤を奪うために満州鉄道付属地をの外で中国人家主に日本・朝鮮人への土地家屋の貸し出しを禁じた。結果、彼らは治外法権で守られた満州鉄道付属地に追いやられ、活動の規模を縮小せざるを得なかった。

●聖域・満鉄付属地

 満州鉄道付属地について少し説明しよう。日本が日露戦争後に、東C鉄道南部線とその沿線の付属地をロシアから譲り受けた「戦果」である。そこは治外法権で守られて中国が介入できない土地であるだけでなく、そこの軍隊および警察は関東庁が管轄していた。そのため、付属地は鉄道沿線の大都市から小都市へと関東庁アヘンを供給する格好の中継基地として栄えた。東北軍閥による関東庁アヘン封じ込めの結果、日本側のアヘン商人は付属地に追いやられることになったが、張学良政権にとって付属地は追い込むことのできる最大の範囲にして、不可侵領域、即ち「聖域」となっていた。

●張学良と湯玉麟

 日本を封じ込め、関東庁のアヘンを拒否した張学良はどこのアヘンの流入を希望したのだろうか。私は熱河ではないかと推測する。
 何故なら熱河と張学良のお膝元である奉天は鉄道でつながっており、熱河のアヘンは平津市場のみならず満州にも大量に流入できる条件が備わっていた からであろう。もちろん、理由はそれだけではない熱河でないといけない理由が別にある。前章で述べたように、熱河の湯玉麟政権はアヘンによって確固たる「鴉片王国」の地位を確立していた。湯玉麟は易幟後も熱河で半分独立王国化して、しかも張学良がそれを放置していたのは、強大な財源を有しているため張学良としても従がわせるのは難しい。むしろ「鴉片王国化」した熱河を取り締まることの困難さは目に見えている。むしろ張学良としては熱河のケシ栽培の責任は放置して、しかも湯政権に責任転嫁できるために、熱河が独立王国化していたことは好都合だったのだろう。また、湯玉麟は張学良にとって父親の朋友で、張作霖を暗殺した日本を恨んでいたため、彼の存在は張学良にとって頼もしい存在だっただろう。

●「満州国」に与えられた課題

 張学良政権の禁煙を総括すると、封じ込め戦略によって日本の侵略と商売敵を排除すると同時に、自らの利益を確保しようとするだけではなく、「禁煙を行っている」とアピールすることで自らの体裁を繕おうしたということができる。
 「満州国」建国後、張学良は兵器の工場であり、アヘン販売権を持っていた根拠地、奉天を取られたことで急激に弱体化することになる。彼はその上国民党の方針のためにほぼ無抵抗に満州を占領され、国民党側に引き込まれることとなった。張学良が満州を去った後、「満州国」が専売を確立するためには、張学良からそれ以前の時代のアヘン流入源を完全に把握して、管理下に置くという課題が残された。

 

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