6/12の日記より
また日記を書いていない。書きたくないなら書かなければいいのだ。その日あった事しか書いていないなら、それは日記の意味があろうか。
帰りに古い友人にあった。色々なことを語り合った。
今までの事、自分の事、…今から考えれば、自分としては異常な事だった。自分の心を打ち明けて仕舞ったのは。これは、何も考えていないからこそのものなのだろうか。
小中学高校、昔の事、そして、今現在の事。今、意識が希薄になっている事も。友人が言うには、誰にも自分の心を打ち明けないというのは絶対におかしいとの事だった。そして、全く、私の心がそんなだとは見えなかったとの事だった。
自分の多重性、希薄さについて語った。人は誰でも多重性を持っている。自分の考えていた事を覚えていない、忘れるというのは、自分を見つめる自分がいない、その自分とのリンクができていないからだと。それが分裂との事。今の自分は分裂しているのだろうか。高3の頃の方が、よっぽど普通だったのだろうか。ともかく今日は、日記が書ける。
さて、話して何を思った?
…結論からいえば、プラスになったと言えると思う。今まで、自分自身の中で、悩み、考え解決して来たのだけれど、自分以外の人間と話すというのは、いわば自分の多様性以上のものを手に入れる事ができるという事ではないだろうか。それこそ、他人に悩みを打ち明ける意味ではなかろうか。…そして、この希薄さを消し去る手立てになったと思う。そしてこれからどうするか、も。今一度、自分を見つめ直す良い機会だったのだ。
忘れないようにしたい。だから、自分を見つめる他の私、その力が必要なのだ。何人でもいい。それは分裂では無いのだ。やはり、自分の利点だったのだと思う。
その自分が消えかけている。それが無くなった自分になんてなりたくない。だから昼間、忘れないように私が自分に対してメールを打ったのだ。今の自分を見つめ直す為に。それを忘れないように。
私はもう、希薄に、シンプルにただ生きているだけの人間にはなりたくはない。まだ命が残っているから。だから生きていたい。自分自身の精神が死なないように。より高みに向かって生きてゆく。自らを磨いて。それこそが、「生きる」という事なのではないだろうか。
忘れたくない。自分を、記憶を。そして私は今日も、これからも、新しく作られ続けてゆく。古くなった自分、記憶は意識の奥底に沈んでいくが、消えはしない。何かのはずみで、また甦る。その時また何かが解っていく。そうして、自分はより深く、より強くなっていくのでしょう。