暑いです!(^^;Aとにかく暑いです!!( ̄□ ̄;;A今の私の部屋の温度は34度もあります……昨日まで20度台だったのに、一気に30度を突破しぶっちぎりの暑さです(--;;Aいやあ、あんまり暑すぎて体がだるい…(T-T)季節の変化に体がついていけず、何もする気が…(^^;Aって、衣更えはしないと、耐えられない…と、今日はだらだら衣更えしてました…(--;
そんな暑い5月最後の日曜日、ちょっともう体もだるけりゃ眠くて仕方ないなか、いまだ春冬仕様の部屋をなんとかしないといけません(--;毎日は同じ流れでなく、少しずつ変わっていきます。時代の要請に応じられない英雄も淘汰されます…って強引なもっていきようですね(^^;A
さて、仕える君主にではなく、時代そのものの要請に応えようとしていたのが英雄ならば、三國志の時代の要請について考える必要があります…いや、どう戦略級シミュレーションゲームは、城をちまちま取り合っているだけに見えて仕方ないのです(~_~;)この、時代の要請、というのがなければ、どの時代の話であっても同じに見えてつまらないものです。つまり、三国時代なら三国時代の、春秋時代なら春秋時代の時代の要請があったはずです。その特徴をつかまないと、ある程度抽象化されたゲームであるからこそ、余計に、どの時代のものも同じに見えてしまいます。
極端な話、城の取り合いだけならば、登場人物、いや、タイトルだけ変えるだけで、それが春秋時代であっても三国時代であっても秦漢時代であっても、下手すれば第2次世界大戦であっても(^^;Aできてしまいます。フリーのシミュレーションゲームで見かけることがありますね(^^;それはそれで優れたシステムであってプレイしていて楽しければ問題ありません(^-^)問題は、私がそれでは納得がいかないことです(~_~;)
今三國志を製作していて、モデルとなる、というか、どうしても一番影響を受けているのがkoeiの一連のシリーズであるため、そっちよりそっちよりになっていってしまいます(^^;そうすると、城の取り合いになってしまうんですね(^^;A何も考えずに作っていくと、そっちへそっちへ流れてしまいます。あの内政・戦争・統一という流れです。それが良いか悪いかはプレイしていておもしろいかおもしろくないか、ということによりますが(^^;模造では本家にはかなわないでしょう(--;
ただ、先週見たように、信長の野望烈風伝をプレイしていると、こつこつ内政して、こつこつ城を攻めて、とうとう大勢力になったのに、やっぱり今までどおりこつこつ内政して、こつこつ城を攻めて、これが最後まで続くの?と思うと、やっぱり、、、なんだかなあ、って(^^;A何が問題なんでしょう?
と、考えていくと、史実と戦略級ゲームで違う点、偶然でないと、どうしても戦略級ゲームではできなかった点を思いだしました(@_@)史実ではあるのに、戦略級(あえてそういってます)ゲームでできにくいもの、それは、…決戦です( °O °;)
シミュレーションゲームでは、戦略級ゲームでなければ多くは決戦がテーマになっています。関ヶ原しかり、バルジしかり。シミュレーションゲームの元祖は作戦級ボードゲームですが、これも大決戦がテーマになります。戦争は意識するにせよ、意識しないにせよ、決戦で勝敗が決まります。いや、勝敗が決まるから決戦なのです(^^;Aそれだけの大戦闘に勝利した方が最後に勝つのです。
ところが戦略級ゲームでは、おおもとのモデルが1城対1城の仕組みのため、決戦というよりちまちま城を取り合うイメージになります。いや、まさに、一国一城の君主の場合、その城の取り合い取られ合いが存亡にかかわる決戦です。一国一城の君主にとって、攻め込むことも攻め込まれることも決戦でしょう。
これに対し、数城数十城の君主の場合、一城を奪われること奪うことは存亡にはかかわりません。ちくしょーとは思うでしょうが(^^;奪われれば奪い返すまでです。そしてその奪い合いが延々続きます。さらに私が烈風伝でプレイしていた時のように、相手の防御が薄く、こちらでは最強部隊が編成された場合、この最強部隊がずんずん、見様によってはこつこつと(^^;攻め続けることになります。部隊編成の上限が定まっていたり、兵や将の戦死が少なかった場合など、最強部隊は最強部隊のまま敵地を奪い続けます。これがよくあるパターンでしょうか?
そうすると、決戦が行われる前に敵を最後の一城まで追い詰めることになります。戦略としては正しいものの、結局決戦は起きません(^^;最後の一城の攻防では、もはや決戦ではないですね(^^;相手としては、最強部隊が編成された時点で、その最強部隊に勝つよう準備すべきなのです。それでようやく決戦になります。戦うにせよ、諦めて降伏するにせよ、敵の実力を正しく評価できているならば、勝てるだけの準備をして決戦を挑むか、諦めて降伏するか、どちらかを選びます。それができないと、だらだらと攻められて最後の一城にまで追い詰められます。秀吉に降った毛利家、戦って破れた島津家、それから相手の評価を間違えてだらだらと追い詰められた北条家がこのパターンにはまりますね。このどれもが生じればおもしろい(^-^)
しかしながら、1城対1城の仕組みだと、そのまま1城対1城の戦いになってしまいがちになるんでしょうねえ(~_~;)決戦に至らず、かといって勢力もそれなりにあるように見えるので簡単には降らず、結局だらだら攻められて終わる。むむ、これは本質的な仕組みに問題があるのかもしれない……!!
三国時代でももちろんこれはあてはまります。曹操に対しあっさり降伏した劉j、劉備と戦ってだらだら負け続けた劉璋、そして曹操との決戦に勝った孫権!(^-^)しかしゲームでは、劉璋型しか表現できてないと思うのです(~_~;)赤壁は、まあ、戦略級ゲームではどうやっても表現できなさそう(疫病にせよ、連環の計にせよ、つまらない戦いでそう頻繁におきてもらっても困るが、決戦のときに起きてもそれはそれで腹がたつ(^^;)ですが、白馬の戦いなど曹操と袁紹の戦い並の決戦は起きてもらわないとおもしろくない(^-^)
いずれにせよ、シミュレーションゲームといいつつ、曹操ひとりの戦略すらシミュレーションすることは難しい(--;曹操は多く勝ち、多く負け、大敗も大勝も経験しています。決戦をものにすることもあれば決戦でとりこぼすこともあり、少しずつ城を切り崩すこともしていますし、戦わず降伏させることも多かった。華北統一時点で天下平定なったと思ったでしょうね。こんな奴相手に、降伏した荊州が宿敵だった孫権が相手をすると決めるのも、度胸がありますね(^-^)虚実ありながら、赤壁前夜は三國志でも屈指の名場面ぞろいです。そして、孫権が曹操と戦おうと決めた場面、馬超が曹操と戦おうと決めた場面と全然異なりますよね(^o^)まさに決戦です。馬超のそれは、城の奪い合いです。
さてさて、こんなシーンを戦略級ゲームで表現できるのか?(^^;;しかし、これができないと、戦略級といいながら、結局城の奪い合いに終始するゲーム=陣取りゲーム( ̄□ ̄;)になってしまいます。うへ!これに今更ながら気がついて(^^;Aちょっとこのまま進むのはなんだかなあ、と(^^ゞ
戦略級シミュレーションゲームは、以前お話したように、戦略級のシミュレーションのゲームです。ゲームシステムは、戦略を表現するため、それから時代やシーンをシミュレーションするため、そしてゲームのためのシステムです。とりあえず陣取りだけを想定すればいいものではない(~_~;)
ということでようやく話が最初に戻りました(^^;Aまずは時代の要請と戦略とをシミュレーションしなきゃなりません。大兵力で城を奪い合うだけがゲームではありません(^^;;
この時代、後漢中央政府は董卓によって破壊されました。実質この時点で後漢は滅亡したといって良いでしょう。中央の威令は地方どころか、洛陽にすら及びません。気がつけば、国は滅亡していたのです。日本でいえば、ある日東京千代田区周辺がテロで壊滅したという状況でしょうか?全滅は免れましたが、国会も省庁も内閣も、もはや従来通り機能できません。そう考えるとすさまじいですね( °O °;)
しかし、従来から中央政府の威令も日々落ちる一方でした。宦官と外戚の権力闘争、権力を握った勢力の横暴、反対勢力の弾圧、経済の悪化、重税と反乱、政権末期の状況はもはや変わりません。こんな中で横暴の申し子董卓が権力を握ってしまいました。従来勢力の巨頭袁紹や袁術、革新勢力の旗手が曹操、その他大勢の諸侯達(^^;A劉備はこの時点では諸侯ですらありませんし、孫堅は諸侯のひとりですね。
董卓が自滅型なのは置いておいて(^^;A袁紹袁術は、本来の後漢政府の官僚系の代表です。清流とも外朝とも言われますが、三公を頂点とする官僚を支持基盤としています。皇帝の権力をかさにきる宦官外戚とは異なります。いくら曹操が皇帝を庇護し、朝廷の高官となったとしても、当時の多くの人にとって董卓のまがいもの位にしか見えなかったでしょう。できはどうであれ(^^;A袁紹袁術が正当派だったのです。
袁術はこれまた途中で自滅してしまいますが(^^ゞそのパターンでいけば袁紹もあやしそうな感じです。しかし袁紹は皇帝を僣称することの危険を避け、あくまで正統派旧来派を自認していれば、天下は転がり込んでくる、はずでした。ところが曹操の改革が進み、従来の官僚を基盤とする正統正当性に疑問符がつくように見えます。董卓の時代は最悪だったけど、曹操の治世はそれ以前よりもよかったじゃないか、と。後漢政府だろうが曹操の政府だろうが、民にとってよい政治をする政府がよい政府。曹操の素質なんでしょうが、このままではジリ貧になると思ったのはかえって袁紹なのかもしれません。曹操の治世がよければよいほど、旧来政府復興待望論は薄れ、旧来政府代表の袁紹の声望もかすみます…
時は移って、すでに曹操による華北統一後。中央の混乱の余波により、混乱していた揚州を武力でまとめあげた孫策の後を継いだ孫権。まず、正当性は何もなく、混乱している間に強力なリーダーシップでまとめあげた孫策は、暗殺されなければ天下を盜っていたかもしれません。しかし、揚州の諸太守豪族たちが荊州出身の孫堅の一族に忠誠を誓う必要はもともとありませんでした。そのため王朗や許貢など太守達は孫策の正当性のなさに歯向かう一方、揚州の豪族たちは孫策を受け入れます。横暴な中央政府、混乱した中央政府、どちらも自分達にとって迷惑です。自分達のための、自分達の政府をつくろう、それが孫策後援の理由でしょう。
その孫策の後を継いだ孫権は、曹操に降伏か、決戦かを迫られます。揚州の武人達、すなわち揚州の豪族たちは決戦を迫ります。中央政府を代表する曹操と戦う決意をする彼らは、すでにして独立戦争の雰囲気です…
後の荊州、益州の劉備といい、揚州の孫権といい、その志向は中央政府からの独立です。時代の要請は中央政府による全国一律組織を望まず、地方独自の発展を志向していたのです。全国的な統治機構、全国的な経済ではなく、地方の実状に応じたきめこまやかな統治、できるだけ地方の中だけで完結する経済を望んでいた、そう思えます。複雑になった地方の状況は原始的な中央集権型政府にはもはや制御できず、全国から流通する物はあっても金がなくて買えないという不況の影響を受けるより、経済を地方域内で完結した方が必要な物資を利用できる、そういう状況だったのでしょう。三国時代だけでなく、隋唐の統一までひたすら分裂が続くのはそういう事情であったと思えます。やや経済史観的ですか?(^^ゞ
曹操はこの時代の要請を見切ったのかもしれません。赤壁の戦いの後、あえて劉備や孫権を決戦に持ち込んで破ることはしなくなります。春秋戦国時代のごとく、自分も魏王となり、統一の時代から分立の時代を志向したのかもしれません。そういえば周公が理想でしたっけ?
曹操にとって、当初揚州の敵対は意外だったのかもしれません。それこそ劉表死後の荊州同様孫策死後の揚州も降伏すると思っていたのかもしれませんね。油断ではあったでしょうが、揚州があえて中央政府に楯突くとは思っていなかったはずです。袁紹との戦いは華北の統治者を決する決戦でしたが、曹操にとっての赤壁の戦いは、示威行為のつもりだったのでしょう。孫権は戦いを決めても、揚州の豪族武将は降伏するとふんでいたはずです。黄蓋の降伏にだまされたのもなかなか降伏しない疑問と希望がないまぜになっていたのかもしれません…
さてさらに時代は下って三国黎明期。劉備の志向は中央政権奪回ですが、諸葛亮は分立志向です。劉備は蜀という地方政権の首長にとどまるつもりはなく、かといって王や皇帝になるつもりもそれ程なかったように思えます。顔の見える小勢力の長、まさに傭兵隊長のそれでしょう。劉備の戦いはどれも決戦には見えません。せいぜい規模の大きな城取りです。そういえば益州進攻にせよその前の荊州南部統一も、こつこつ城攻めしていました(^^;最後の彝陵の戦いも、発端が仇討ちで、目標もはっきりしない。孫権の首を取るのはいいとして、呉を滅ぼすつもりではないでしょう。曹操も本気で劉備を滅ぼすつもりがないように、劉備も孫権や曹操を本気で倒すつもりがあったのかどうか疑問です。呂布にせよ、馬超にせよ、劉備にせよ、曹操にとっては最後は手なずけたかったのかもしれません。その曹操にとって関羽も劉備も同じに見えたことでしょう。逆に劉備に攻められた孫権の方はいい迷惑でしょう。荊州は揚州にとっても独立を維持するための最小限の経済基盤です。荊州を返す約束だったのに返さなかった劉備の方が悪いと思っていたはずです。ここでも孫権の荊州進攻戦は決戦でしたね。
先程の話。曹操は劉備を手なずけたかったのに、劉備の方はなぜ曹操と敵対したのか、ほんと、なぜだったんでしょう…(^^;A漢室復興のためならば朝廷で働くべきでしょうが、まともに漢室のために働こうとしたようには見えません。とすると、当初の劉備の中央政権奪回という志向が間違っており、実は、諸葛亮と同様分立志向だったのかもしれません。だからあれ程諸葛亮と気が合い、あっさり転向したのでしょう。諸葛亮は正しく時代を読んでおり、荊州益州経済圏で独立しようとしていました。結局劉備がぶち壊しますが(^^;Aその後諸葛亮がだらだら城取り戦争をはじめたのは、そうでもしないと荊州なき蜀の独立を維持できるだけの経済基盤が整わなかったためでしょう。諸葛亮の場合、どう見ても決戦は避けていましたし。荊州ではなく涼州を領有し、独立を維持しようしていたと考えられます。益州だけだとあまりに力の差がありすぎて、あっさり中央政府に降伏してしまいかねませんしね。
と、まあ、やはり三國志の時代は、三国分立が時代の要請だったように思えます。小は市場経済から荘園制への移行、大は古代中央集権から封建制への移行が時代の流れに見えます。もし晋に曹操クラスの名君名相がいれば、正しく封建制を実施していたかもしれません。晋も封建制を行おうとしたものの、司馬一族は皆皇帝を狙ったために瓦解します。晋そのものも、統一によって中国という国全体が弱く、もろくなって異民族の進入を招いた、とも言えます。三國志7のエンディングが象徴的でしたね…(^^;A
……という時代の流れからすると、ゲームにおいても統一をめざすのはおかしなことになります(^^;Aおっとこれだと何が目標なんでしょう………むむ、なんと、書きまくって今週は長くなりすぎました( °O °;)今宵はここまでにいたしとうございます。。。(^^ゞ
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