kr_ryo 徒然日誌 <2004年11月21日分>

三國志製作記82〜赤壁考〜

すっかり寒くなってきましたねえ!冬はこたつでゲームが一番!(^o^)と久々コサックスをプレイしてしまいました(^^;それにしてもこのゲーム、ずいぶん長いことやっていますね〜(@_@)それだけしっかりした作りなんでしょう。街のデザイン、敵の襲撃、成長・レベルアップ、反撃、大軍による総攻撃…いろんな要素が詰まっています。私の戦略はあいかわらずとにかく最初から耐えに耐えて、街も部隊も成長させて、最強部隊を一気に突撃させるというものです(^^;けれども最初の襲撃に負けると終わりですねえ〜(;_;)

その時に思うのが、敵があっけなく破れるとそれはそれでつまらない(--;また、最初の敵の襲撃があっさりしているのもさすがに面白くありません。koeiのゲームでもそうですが、どんどかどんどか内政を繰り返していくと、あまりにあっさり圧倒できてしまって、あの苦労した内政はなんだったのか、と思うような(--;)こちらが手も足も出ない時期の攻撃はそれはそれで嫌になりますが(;_;)全然歯ごたえがないのも面白くない。やっぱりバランスが大事でしょう。

そのバランスというのは、互角ということです。強すぎるのもよくないが、弱すぎるのもよくない。三國志の物語でも、群雄が興亡しつつ形勢互角という時期が続きました。だからこそ物語として面白い。一番バランスが崩れるのが赤壁前夜で、それはそれでクライマックスです(^-^)とはいえ、ここであっさり曹操が勝利していれば三國志の物語(三國志とは呼ばれなかったでしょうが…(^^;;)はずっとつまらなかったかもしれません。劉備も諸葛亮も記憶にも記録にも残らなかったでしょうね。

ところが曹操は、最大勢力に至るも天下統一は図れませんでした。別に物語を面白くするためでもバランスが大事とも考えてはおらず、統一したかったができなかった、というところでしょうが…統一したかったかどうかも怪しいという説もありつつ(^^;少なくとも曹操が統一できなかった、またはする気がなかったから、最終的に三国が鼎立したというところでしょう。曹操が圧倒的な人物ではありながら、統一に至らなかったため、三國志は勢力間バランスが取れました。さて曹操には何が足りなかったか?

まず、曹操は統一する気がなかったという考え。漢の征西将軍となることが夢だった曹操は、漢に取って代わることを考えてはおらず、実際に取って代わりませんでした。まあ、そう考えると司馬懿もそうだったような気もしつつ(^^;だからといって蜀や呉を征服しなかった理由にはなりません。皇叔劉備はともかく、孫権をのさばらせる必要はないでしょうね。

続いて、曹操が本気で南方征服をする気がなかったという考え。赤壁は、孫権が劉表同様、大軍で威圧すれば落ちる程度にしか考えていなかった油断の産物で、やせた土地である南方4州を武力で征服する気はなかったというものです。ところが、もっとやせている涼州の馬超に対しては自ら出向いて徹底的に滅ぼしますし、これまたどう考えてもやせている漢中にまで自ら攻めていきます。長安防衛のためとはいえ、長江流域、呉を滅ぼした方が利益はありそうです。だいたい、蜀侵攻中の劉備の背後を全然つっついていません。蜀の実入りは涼州よりもよいでしょう。やせているやせていないの問題ではなく、そうしなかった、という感じに非常に近いでしょう。

こうなると、曹操は劉備を生かして殺さず、という考えになりますね。人柄に惚れたのかもしれません…!けれども呉の孫権には会ったことがないはずです。長江越えは赤壁コンプレックスがあってできなかったのか、見知らぬ土地に怖けずいたのか……けれども、占領地荊州経由で長江南岸経由で侵攻できたでしょうし、見知らぬ土地というなら北方幽州の烏桓の地の方がはるかに見知らぬ土地です。呉は本来漢の土地で、別段異国という感じもしないでしょうし…

今度は逆に、曹操は統一したかったかどうかは別にして、できるだけの力がなかったという考え。まず、赤壁で壊滅し、以後強力な軍団が存在しなくなってしまったというものです。しかし、壊滅したのは荊州の水軍で、曹操の本隊はほぼ無傷だったという意見もあります。ただし、いずれにせよ荊州水軍の壊滅で呉に侵攻しずらくなったのは間違いないでしょう。いかに悪く書かれているとはいえ、黄祖など荊州水軍は呉の侵攻を防いでいます。逆に凌駕していたかもしれませんが、劉表の性格から呉に侵攻していなかっただけかもしれません。そんな荊州水軍が水戦に不慣れな曹操の指揮のもと壊滅し、呉の一人勝ち状態になってしまったことは考えられることです。また、すぐに荊州の長江流域は呉と劉備に占拠されてしまい、水軍が曹操の手元にまったく残らなかったとは、十分考えられることです。

では、曹操の陸軍はどうであったか。赤壁後の追撃戦で痛手を負ったとはいえ、子飼いの陸軍が全滅しているわけではありません。どう考えても、水軍決戦前に船に騎馬隊など陸軍を乗せていたわけはないので、陸にいたでしょう。荊州の防備部隊もいるはずです。しかし、逃げに逃げ、目立った反抗はしていません。というより、曹操の荊州侵攻自体、まともな戦闘をしていません。逃げる劉備を追った位でしょうか。

赤壁前、孫権に曹操が送った手紙では、80万の大軍うんぬんと書いていました。赤壁で壊滅したならば、この大軍が全滅していなければなりません。孫権軍が2〜3万で、これがまともに80万の逃げる軍をおっかけおっかけ…一人40人を切ったのでしょうか?そんなわけはありませんね(^^;

だいたい、話半分、威嚇のための手紙で実数を書くわけはありません。実数ははるかに小さいものだったでしょう。物語に出てくる数字は、確かに発言としては本当にあったことかもしれませんが、内容は嘘誇張の、つまりははったりです。それを本気にしてはいけません(^^;実際の数字はいったいどれ位だったのでしょうか?

まずもって、先程の、曹操劉備大好き説を前提にしたとしても、荊州戦の際、逃げる劉備を本気で補足するつもりがなかったのは曹操だけでしょう。曹操軍としては劉備を追っかけます。追っかけても捕まえられなかった、それは結局、曹操軍の兵数が少なかったことをも意味します。手が足りなかったのです。80万の半分、40万であったとしても、捕まえられないのはかなりおかしいのです。曹操の荊州侵攻軍は10万もいってないかもしれません。

さらに、荊州降伏。あまりのこの早さは、最初っからどうも劉表を飛ばして蔡瑁が曹操と結んでいた可能性が非常に高いでしょう。とはいえ、無条件に信じるわけもいかないでしょうから、曹操としては駐屯軍を置くはずです。ところが、赤壁後、劉備の荊州鎮圧戦では、南部諸郡に曹操軍がいません。まずもって周瑜に対してすら荊州や南郡の城の防備で手一杯です。80万もいれば駐屯軍が数万単位でいてもいいはずですが、どうやら荊州駐屯軍は万もいってなかった、それも中心となる城の防備部隊程度でしかなかった可能性があります。

いくら降伏したとはいえ、曹操が荊州に防衛隊を残さず、80万全部を赤壁に向かわせるはずもありません。しかもそれが一戦して全滅するはずもなく、荊州に半分はたどりついたとはいえ、40万。40の城に1万ずつわけても大丈夫です。ところがそうではない。呉軍の侵攻を支えきれず、南部諸郡にいたっては兵もいません。まあ、敗戦によって逃げるのに、南部ではなく北部に行くだろう、ということは考えられますが、南部にいた兵が撤退したという話もなく、結局、荊州南部諸郡には最初から駐屯軍がいなかったと考えられます。

そうそう、だからこそ、周瑜が南郡を攻略している最中に、南部諸郡を劉備が取り込むことができたのです。周瑜にしてみれば、曹操軍を追っ払うことが目的であって、曹操軍がいない場所は後回しだったでしょう。そう、南部諸郡には曹操軍がいなかったということです。

曹操のような人物が、占領地を放っておいて呉に侵攻することはするはずがありません。それも大軍を擁していながら……もう私の言いたいことはお分かりですね(^^;;考えられることはひとつ、曹操軍の兵数は最初から非常に少なかった、ということです。

まずもって、水戦です。大軍を引き連れて、わざわざ不慣れな水戦で決戦をしようとすること自体、曹操らしくありません。80万が10万であったとしても、荊州を鎮圧しているんだから、荊州で長江をとっとと渡り、長江南岸から侵攻すればいいのです。ところが、劉備側の要地江夏すら曹操は攻撃していません。というより、劉備を無視しています。もはや弱小の劉備なぞ目にも入らない曹操の余裕といえば余裕、油断といえば油断。曹操らしくないといえばらしくない。これはどういうことかというと、曹操の陸軍は、この時点で劉備を攻撃することすらできない程度のものでしかなかった、ということです。

けれども、曹操はすぐさま呉を攻撃しているではないか、せっかく大軍を有しているのに、荊州だけでは飽き足らない。それこそが大軍を有していた証拠だ、という見方もできます、が、これこそ曹操のトリックではないか、と思えるのです。

まず、曹操軍は荊州で戦闘らしい戦闘をほとんどしていません。したのは劉備軍を蹴散らした位で、それすら劉備軍にはほとんど被害を与えていない可能性があります。それでも劉備軍が逃げ出したではないか?そりゃあそうです。すでに降伏した荊州と、曹操軍に挟み打ちにあうからです!いくら劉備が戦下手だとしても、危ないとは思うでしょう。

荊州の降伏は曹操の大軍を見て、とのことですが、いくらなんでもあっさりしすぎです。これは事前に蔡瑁と曹操の密約があったとみるべきです。なぜなら、劉jが幼く、劉表が死ねばこのままでは劉備に乗っ取られてしまうだけだからです!蔡瑁と劉備の仲の悪さは、蔡瑁が悪いやつというよりも、こりゃあ、権力争いでしょう。

曹操にすれば、蔡瑁の手引きよろしく荊州を受け取ればいいだけだったのですが、劉gと劉備が荊州軍の一部を奪ってしまった。説によってはほとんどを奪ったとありますが、赤壁に侵攻した荊州水軍から考えれば、一部だけでしょう。荊州の人士の多くはさすがに曹操にとりあえずはついたと思われます。

体よく荊州を手に入れた曹操ですが、「荊州全土を占領するに足りる兵を動員できませんでした」。下手をすれば劉備に寝返ったり独立したり反乱したりするおそれもあります。まずもって蔡瑁自体があやしい。曹操によって劉備を追い出し、それから曹操をも追い出して荊州の主となるつもりかもしれない。

手に入れた荊州軍も、曹操軍が使わなければそのうち勝手なことをするかもしれません。そのまま引き返せば、蔡瑁だけではなく劉備も荊州を狙ってくるでしょう。かといって、いつまでもぼーっと駐屯し続けられません。ではどうするか。曹操自身への忠誠を誓わせるのです。手近に曹操だけでなく、荊州にとっても敵がいます。味方の不満を逸らすには、外に敵を作れ。統治の基本です(^^;;

だからこそ、荊州の一部の軍がわかれた劉備軍を曹操は攻められなかったのです。同じ荊州軍同士では戦闘になりません。曹操は、無視せざるを得なかった。それに曹操自身の謀略がうまくいき、呉は曹操軍の実数をつかみきれておらず、降伏と戦闘の二つに国論が割れてしまいます。ここで威圧すれば、うまくいけば呉をも降伏させることができます。そのための水軍での示威行動です。陸軍なら、兵が少ない、また、実体は荊州軍であることがすぐばれてしまいます(^^;;水軍なら、さすがに北の軍団が水軍を直ちに作れるはずもなく、利用したとしてもおかしくはありません。

と、いうように、曹操にすれば、拙速であることを承知の上での侵攻でしょう。幻惑させたまま、呉の降伏を狙う、と。ところが諸葛亮にばれていたのか、周瑜が見切ったのか、それともだまされたまま、けれども物語通り孫権に忠実だったのか、呉は戦闘を選びます。曹操の謀略が余程うまくいったのか、呉の文官は漢に降伏する建前を選びます。武官でも、荊州だけでも勝ったり負けたりなのに、曹操と荊州の連合軍には勝てないと思う者もいたでしょう。けれども、周瑜と諸葛亮は、孫権に戦闘を決断させることに成功しました。後の流れは物語に沿います。

結局、荊州水軍の壊滅は、周瑜が蔡瑁謀叛という謀略を成功させ、水軍の指揮力低下をもたらした段階で勝負ありです。逆に、蔡瑁自身にも劉jを擁して独立する意思があった可能性も高いでしょう。いずれにせよ、戦闘を選択された段階で曹操の思惑ははずれました。後は荊州水軍の戦力次第ですが、これも自らは不慣れであり、水軍の諸将の意見もなかなか曹操に聞き入れられなかったのかもしれません。赤壁での敗戦は、曹操の思惑がはずれた段階で起こるべきして起こったのです。

さらに、曹操軍自体のほとんどは荊州に駐屯していたでしょう。頼みの水軍が破れた以上、赤壁付近の曹操軍直轄部隊は逃げに逃げるしかありません。さらに劉備軍です。劉備軍の主体は荊州軍ですから、曹操軍にいる荊州軍は劉備軍に対して簡単に投降するはずです。劉備軍にしても、わざわざ曹操軍を攻撃せずとも降伏させて兵を取り込む方がよかったでしょう。いずれにせよ、曹操軍は減る一方、劉備軍は増える一方です。結局、もともと大軍と宣伝されていた曹操軍が、ほとんど減らずに実体の数だけで戻ったとしても、大負けして壊滅したように見えたのも仕方がありません。

実は曹操軍は兵力が少なかった、というのはその後も考えられることです。一地方軍閥である馬超軍に苦戦し、漢中は落としたものの、混乱している蜀に攻め込まず、隴を得て蜀を望まずと言ってみたり、関羽軍に荊州を危うくされたり…特に蜀攻めは、後退もままならない蜀に深入りすることはできないだけでなく、それだけの兵力が足りなかったのだとも考えられます。漢中はどちらかというとあっさり手に入れられたから手に入れたようなもので、結局最後は維持できません。涼州にしてもその後諸葛亮の侵攻の前に陥落しかかります。

魏の領土はその後は増えも減りもそれほどせず、蜀は荊州を失い、呉は生命線である荊州の長江南岸の地を得ることができました。その後魏を継いだ晋が勝利するのは中原の物量の賜物とはいえ、曹操の時代、蜀や呉に侵攻するだけの戦力はなかったのです。それは赤壁で大敗したからというより、そもそもなかったのです。ところが、赤壁での勝利を、当然呉は大きく宣伝するため、曹操軍80万を壊滅させたといい、曹操にしても、最初から実は兵力不足だったというより戦で負けたという方がまだましと容認していたのでしょう。曹操軍の動員力が少ないと知られることは、戦で兵数が少なくなったと思われるより危険だったと考えられます。

袁紹を打ち破る前の曹操は、やっぱり兵力不足でした。袁紹を破り、河北を手に入れた曹操は、やはり兵力不足であったように思えます。領土は広大で、打ち続く戦乱で中原の民は南に逃れ、その上北方の異民族に対する防衛もあります。南だけが敵ではないのです。曹操にとって、伝統的な異民族戦争の方が重要だったはずです。漢の征西将軍となりたかった曹操は、北方への備えも当然行っていたはずでしょう。兵力の大半は、もしかすると長城防衛にあてていたのかもしれません。

しかも後漢末の混乱で自営農民は没落し、荘園に逃れるため、兵として徴収もできません。それでも荘園を所領する豪族は味方にせねばならず、国家の公民の数は減る一方、豪族の力は増します。そんなわけで曹操の動員力は非常に少なかったにもかかわらず、中原を征し、イメージとして強大な印象があります。ところが実際に戦ってみると、小軍閥相手にも苦戦する程度の兵数しか、もしかすると集められなかったのかもしれません。曹操にしては、そのイメージだけで相手を威圧し、降伏させる戦略を取らざるを得なかったのでしょう。それが荊州であり、赤壁前の呉であり、漢中であったのです。

しかし、あくまで抵抗する相手には、自ら出向いて戦うことになります。これは、戦が好きだったとか、相手が強かったとか、諸将を信頼していなかったとかいうよりも、自分の直轄軍を動かさなければ兵が足りないというところだったと言えます。その意味で赤壁の戦いは、孫権自身の軍勢がなくとも周瑜軍だけで相手ができた程度の軍勢しか、曹操軍にはなかったとも考えられるのです。赤壁と伝えられる地が狭く、違う場所ではなかったかとも言われますが、狭い場所で戦える程度の軍勢しかなかったともいえるのです。

さてさて、長々とお話しましたが(^^;これがどういうことにつながるかというと、ここまで来ると簡単な話です。物語の誇張された何万何十万という軍勢を、ゲームでは用意しなくともよいということなのです(^^;;曹操といえども、多くて数万の軍しか動員できなかったということなのです。数十万の軍勢ありきで考えると、諸城の動員力が数万でないとおかしいのですが、そうすると、1城で万の兵力を扱えるようになります。こうなると群雄割拠の時代すら、数城で万単位の兵力が沸き起こり、後は良将に付ければよいだけというプレイになります。昔からこれはおかしい、と思っていたのですけども、物語にはそう書いている、と。

しかし、上で検討したように、赤壁ですら実体はそんなものではない、ということがどうやら正しいのではないのでしょうか。結局1城は数千の兵力しか養えず、中央に余剰兵力を集めてようやく数万になるということになります。諸葛亮にせよ、曹操にせよ、兵の損失を恐れた戦いぶりがよく見えるじゃあないですか。張遼にせよ、対呉の最前線にいるにもかかわらず、たった数千で防衛していたことも、これでよくわかります。その程度の兵しか常備できない国力だったのです。数十万の兵の動員などできなかったと考えて設計した方がよさそうですねえ〜(@_@)

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