【大河内氏の概観】


-参考系図:暫定版-
『寛政重修諸家譜』に従った記述になっているが、信政以前は不確定要素が多いので暫定版として参照されたし。
 源頼政━━兼綱━━顯綱(大河内を称す)━┳━政顯━━━行重━━━宗綱━┓
                    ┃              ┃
                    ┗━貞顯(長縄大河内氏の祖)  ┃
                                   ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃
 ┗貞綱━━光将━━国綱━┳━光綱━━━真綱━━━信政━━━━━━━━┓
             ┃                     ┃
             ┗━満澄(桃井大河内の祖)          ┃
                                   ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃
 ┗信貞━━秀綱━┳━久綱━━信綱(正綱の養子に)──(大河内松平氏)
         ┃
         ┗━正綱(長沢松平氏の養子に)

大河内氏の祖は源頼政で、孫の顯綱(あきつな)が三河国額田郡大河内に移り住み、土地の名を称したのが始まりである。(『寛政重修諸家譜』)
この"額田郡大河内"が不分明なため、その具体的な場所について、研究者の間でいろいろな説が唱えられている。有力な説としては、現在の岡崎市内大平町付近があげられている。(『西尾市史』)
吉良氏に属し、寺津(現在の愛知県西尾市内)を支配した。
その後、秋池、窪田、杉、桃井、長縄の各流派に分かれる。

信政-信貞-秀綱と続く系統は、家紋の絵柄をとって通称「臥蝶の大河内」と呼ばれる。

秀綱は、吉良家の家士ともめ事を起こし、吉良家を去っている。
「参河志」にいう、秀綱・久綱父子が44年間沈淪(ちんりん)していたというのはオーバーで、吉良家を去った後は伊奈氏の配下で代官として活動している。『伊奈忠次文書集成』の中に、大河内秀綱に宛てた慶長年間の文書がある。
文禄3[1594]年、徳川家康が江戸から上州新田に向かうため、通り道にあたる妻沼の名主に人馬継立を命じる2月15日付の文書が大河内孫十郎(久綱)の名で発給されている。このころ既に久綱が代官だったことが知られる。

江戸期には大名三家・分家の旗本七家があった。
明治になって、いずれも本姓の大河内に復している。


配置の都合で年齢順の記載とは限らないのでご注意。

 秀綱━┳━久綱━┳━女子━━重綱(久綱の養子)──(旗本・大河内氏)
    ┃    ┃
    ┃    ┗━(信綱)
    ┃       ↓ (養子)
    ┗━正綱━┳━ 信綱 ━┳━輝綱━┳━信輝───(吉田藩)
         ┃     ┃    ┗━輝貞
         ┃     ┃       ↓(養子)
         ┃     ┣━信興━━━輝貞───(高崎藩)
         ┃     ┣━信定────────(旗本)
         ┃     ┗━堅綱────────(旗本)
         ┃
         ┣━正信(隆綱)━┳━正久━┳━正貞─(大多喜藩)
         ┃       ┃    ┗━正佐─(旗本)
         ┃       ┗━正基──────(旗本)
         ┃
         ┗━正朝──────────────(旗本)

 ?………━忠綱━━━朝綱──────────────(旗本)

忠綱は『寛政重修諸家譜』に秀綱の末男として記されているが、寛永諸家系図伝には登場せず、正確な経歴は不明。井戸氏の名跡をついだが、後に大河内に復したという。
大河内家譜によると、秀綱以前の分流のようである。
寛政重修諸家譜の活字本でも本家の系譜のある4巻ではなく、19巻に記載されている。


目次へ

Copyright © st 2002-2007 All rights reserved.