深井一族
参考系図:
大河内秀綱━━久綱
‖
‖━━(松平)信綱
小宮山弾正某女 ‖
(白井長尾氏) ‖━━┳━龍泉院
景春━┳━景秀 ‖ ┣━女子
┃ (深井) ‖ ┣━女子
┗━景行━━景孝━━景吉━┳━好秀 ┣━重勝━━━重成──(藤堂家家臣)
┃ ┣━吉親━┳━吉広──(藤堂家家老)
┃ ┣━女子┓┣━吉成──(松平家家老)
┣━資元 ┗━尊海┃┣━吉正──(藤堂家家臣)
┣━資勝 ┃┣━吉政──(藤堂家家臣)
┣━淳海 ┃┗━長寛──(僧侶)
┗━正家──(宗家) ┃
┗━━資成
深井氏は本姓を長尾といい、越後の長尾氏と同族である。
六郎次郎景孝が武蔵国深井で生まれたことから"深井"を称した。現在、埼玉県北本市内に"深井"の地名が残る。
(総社長尾氏の分派にも同名の"景孝"がいるので紛らわしい)
深井景孝は天文2[1533]年4月3日、21歳で鴻巣下谷において戦死した。寿命院(北本市内)に葬られ、以降寿命院が深井家の菩提寺となる。(『北本市史』所収の深井氏系図および大河内家譜)
※深井氏の系図は『岩槻市史』にも同じものが重複して掲載されている
その子・対馬守景吉の頃は有力な土豪の一人として「鴻巣七騎」の一に数えられていた。
『大河内家譜』には、深井藤右衛門好秀(あるいは資正)・その父 深井対馬守正繁(あるいは景吉)は北条源五郎氏資(太田氏資の誤記)に仕えたことが記されている。深井藤右衛門は太田氏資の偏諱を賜り資正を名乗ったが、後に好秀と改名している。(『鴻巣市史』)
永禄10年に氏資が里見氏との戦いで戦死した後は、北条氏房の配下にあった。天正17[1589]年頃には、粕壁(春日部)の代官職をつとめている。(『戦国遺文 後北条氏編』)
『小田原北条家分限帳』には
諸足軽衆
深井
六拾七貫六拾八文 中郡平間之郷
弐貫文 入東仙波内八本木 卯検見
と、一族のものらしき名?が見える。
『埼玉県史 史料編』にも深井対馬守ならびに藤右衛門あての北条氏房判物が数点収録されている。内容は所領の経営に関する指示などで、他の家臣にも多数の指示を出しており、氏房の活動が窺える。なお、北条氏房は俗に太田氏房と称するが、近年の研究で、太田氏の名跡は継いでいないとされる。
その他、北条氏政から深井藤右衛門への感状なるものが埼玉県史に収録されており、"コノ文書、検討ヲ要ス"と注釈がついている(内容・形式が疑わしいということらしい)。後年、主家(大河内松平氏)に提出した深井氏の書上に「感状をもらった」という記述があるところをみると、子孫の間ではそういう伝承があったのだろう。
天正18[1590]年、小田原の役の時、氏房は小田原城入りしているが、深井対馬守・藤右衛門父子も小田原城入りしたのだろうか?北条氏の家臣団の妻や娘は大部分が人質として(つまり、家臣が離反しないように)小田原城内に連行されているが、好秀の妻と娘も城内にあったようである。(『事語継志録』)
この戦で後北条氏が滅亡した後、深井景吉は、忍城主となった松平忠吉(徳川家康四男)に仕えている。足立郡箕田に陣屋を構え、周辺の村落の再開発を行ったという。(『論集幕藩体制史6巻「藩体制の形成I」』)
深井景吉の三男・源左衛門資勝は松平忠吉に三百石で召し抱えられ、忠吉の清洲移封(慶長5[1600]年)に従い、そこで二百石を加増された。
松平忠吉の忍城入りに先だって、代官伊奈忠次が検地を行っており、伊奈氏の配下にあった大河内秀綱・久綱父子も同行した可能性がある。
好秀は家康に拝謁したが出仕はせず、隠棲後、市宿村にて病没した。
深井氏系図によると、好秀は慶長9[1604]年11月16日没(行年不詳)、景吉は慶長16[1611]年2月11日没である。景吉の享年は78歳と記されているが、同系図の深井景孝死去時2歳とする記述を信ずると、天文元[1532]年生まれで80歳となる。
好秀が父・景吉に先だって逝去したからか、深井宗家は弟の正家が相続している。
深井藤右衛門好秀の舅である「小宮山弾正某」の比定については、二人の候補が考えられそうである。
1)忍城主成田家の家臣「小宮山弾正介忠孝」
天正年間、戸塚城主として(埼玉県川口市で)二百貫文を領有する。
2)埼玉県吹上町・小谷(こや)を領していた「小宮山内膳某」
家譜では「小宮山弾正某」を小谷松山の領主としているが、大河内久綱と、成田氏長の家臣である秋池出羽義勝の間に親交があったことからして、1)も有力候補といえる。
深井藤右衛門好秀には三男四女があった。(大河内家譜 別録三之上)
大河内久綱と好秀の長女(龍泉院)の婚姻は小田原の役のあった天正18[1590]年以降から文禄3[1594]年の間ということになる。(信綱の出生が慶長元[1596]年で姉が一人いるので)
好秀の長女・龍泉院は寛永6[1629]年9月19日に死去した。(『平林寺史』『大河内家譜』)
その後深井一族の子孫は、
1)土着して中山道鴻巣宿の草分名主となった一派
2)藤堂家に仕えて藤堂姓を許された一派
(分家は本姓の深井を名乗る)
3)松平伊豆守家に仕えて家老職をつとめた一派
4)高崎藩(松平信綱の五男・信興を祖とする)に仕えて家老職をつとめた一派
と分かれた。
龍泉院の同母弟・主膳吉親は慶長7[1602]年より藤堂高虎に仕えた。慶長17[1612]年、藤堂姓をゆるされ、大坂の陣に従ったのち、元和元[1615]年には四千石となる。寛永7[1630]年、大坂城の普請を監督する。慶安3[1650]年没、65歳。
年次不詳5月朔日付の、藤堂高虎から吉親に宛てた書状で、端午の祝儀について述べたものが知られる。(『藤堂高虎文書の研究』)
藤堂主膳吉親の子供達のうち、嫡流以外は深井姓を称している。以降子孫に至るまで藤堂家家老職を務めている。(『津市史』『藤堂姓諸家等家譜集』)
藤堂吉親と信綱の母の年齢差は8〜9歳と思われる。
寛文5[1665]年に證人制度が廃止されるまでは、大名の上級家臣も江戸に證人(=人質)を置いていたが、津藩藤堂家でも、藤堂姓を称する上級家臣が交替で證人を差し出している。『永保記事略』には、慶安5[1652]年1月24日の記事として"式部證人主膳證人入替之義も御聞済…"とある。
深井藤右衛門吉成は藤堂吉親の次男である。はじめ三之助を称する。
(松平信綱から藤堂家に打診があって)寛永16[1639]年より松平家に出仕した。この年、松平信綱は三万石を加増されて川越城主となっており、家臣団の増強を図ったのであろう。ちなみに吉成は当時13歳である。
寛永20[1643]年、千石で奏者番となり、後、千五百石となる。(『川越市史 史料編』)
慶安4[1651]年(『榎本弥左衛門覚書』は慶安5年・26歳とする)に川越藩家老職に就く。『榎本弥左衛門覚書』には慶安5[1652]年、川越の舟運で深井藤右衛門吉成が材木を運んだことが記されている。
吉成の最初の夫人について詳細は不明。堀田正盛の家臣・市川治右衛門忠真の未亡人と再婚している。後妻の連れ子を含めて五男があった。
寛文2[1662]年5月10日、松平輝綱が、信綱の遺領を継いだ御礼に登城している。このとき、吉成ももう一人の家老である和田理兵衛元清とともに、将軍家綱に拝謁した。(『大河内家譜』輝綱の項)
貞享5[1688]年9月7日没、62歳。平林寺に葬し、静林院石翁導壽居士と号する。(大河内家譜 別録三之下) 吉成の墓のすぐ脇に、延宝4[1676]年8月29日付の墓石があり、俗名深井藤十郎と記されている。早世した吉成の末男であろう。藩主の菩提寺に埋葬されているところから、深井家が藩主の親族として待遇されていたことがうかがえる。
松平伊豆守家に仕えた子孫は、主家に従って三河吉田に移り、明治維新を迎えた。(『三百藩家臣人名事典』)
正家の子のうち、数馬某がやはり松平家に仕えているが、後継ぎがなく、正保2[1645]年1月29日没している。(大河内家譜 別録三之下)
藤堂吉親の妹(深井藤右衛門好秀の四女)が金井甚兵衛隆治に嫁いでいるが、隆治の死後、その子・茂兵衛資成は母方の姓である深井を称した。
茂兵衛資成は寛文6[1666]年1月11日、信綱の五男・信興の家老となる(信興はこの時点ではまだ大名になっていない)。正徳元[1711]年6月4日没。(『高崎資料集』所収「家老以下諸役人系図」)
元禄4[1691]年の分限帳には七百石と記載されている。
以降、茂兵衛の子孫は高崎藩に仕えている。
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