【大河内氏の先祖たち】

■源頼政(長治元[1104]-治承4[1180].5.26)
鵺退治で知られる。鵺を射た鏃を洗ったという伝承のある池が京都所司代の役宅敷地内にあった。
大河内氏は源三位頼政の子孫を称している。
この手の系図のご多分に漏れず、人物の実在がはっきりしてくる16世紀頃に至るまでの正確なところは不明である。

■大河内信政(?-永正17[1520].8.22)
このあたりから活動を確認できる文書が出現。
寺津城を築く。
寺津八幡宮の棟札には"信綱"とある。子孫の"信綱"との混同を避けるために系図上は"信政"と表記するようになったらしい。

■大河内信貞(?-永禄元[1558].9.8)

■寿参尼(?-文禄4[1595].8.14)
武田信玄に仕え、のち保科家に仕える。
さらに大河内信貞のもとに嫁いだ。
平林寺史には大河内秀綱の祖母とあるが、『大河内家譜』によると彼女は秀綱の母・小見頓斎女である。 大河内一族の菩提寺である平林寺と大河内一族のかかわりは、彼女が亡くなったときに平林寺に埋葬した時からだという。
愛知県西尾市、寺津金剛院にも信貞とともに墓が建立されている。

■大河内秀綱(天文15[1546]-元和4[1618].9.13)
吉良氏(末裔は忠臣蔵でおなじみ)に属す。
吉良氏の家臣と何かでもめごとを起こし、伊奈忠次のもとに身を寄せる。
その後、徳川家康に仕え、遠州稗原(のち武蔵国高麗郡)を領す。
『新編武蔵風土記稿』が記すところによると、天正18[1590]年、鉢形城が落城してまもなく陣屋を建てて大河内金兵衛が居住したという。
慶長年間には、宇都宮/鹿沼に代官として赴任する。 引退後は剃髪して「休心」と号した。
愛知県西尾市の寺津金剛院と埼玉県新座市の平林寺、それぞれに墓が建つ。

■大河内久綱(元亀元[1570].2.15-正保3[1646].4.3)
三河生まれ。通称は孫十郎、後に金兵衛。
慶長15[1610]年より、徳川家康に仕える。
家譜には久綱の通称を「孫太郎」と記しているが、「孫十郎」が正確。寛永元[1624]年11月の年貢割付状に「大河内孫十(郎)」と署名がある。寛永7[1630]年2月の『本光国師日記』に「大河内金兵へ殿」という表記が見られることから、この間に改名したことになる。
『新編武蔵風土記稿』によると、久綱の知行所は、入間郡葛貫村(毛呂山町)および高麗郡広瀬村(狭山市)にあった。葛貫村は高麗郡と入間郡の境にある。
埼玉県妻沼町に陣屋を構えていた。寛永15[1638]年2月に陣屋を引き払ったときの譲渡状には「数十年住居候陣屋舗」とある。
寛永15[1638]年12月5日に引退後、剃髪して「城心」と称す。
なお、平林寺にある久綱の墓は昭和になって大河内正敏と合葬されている。

■松平正綱(天正4[1576].6.12-慶安元[1648].6.22)
徳川家康に仕え、近習出頭人と称される。
日光杉並木の寄進が有名。
別記。


参考文献:
『寛政重修諸家譜』
『国史上より見たる豊橋地方』
『平林寺史』


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