【松平正綱 略年譜】
信綱が養子になって以後の詳細記事は信綱年譜のほうを参照されたし。
正綱の肖像画は残されていないようであるが、「東福門院入内図屏風」に、土井利勝と並んで馬に乗っている後ろ姿が見られる。
天正4[1576]年6月 遠州長江村、あるいは鎌田村に生まれる。現在の静岡県磐田市にあたる。(「鎌田」は長江村の別称)
天正15[1587]年 家康の命で長沢松平家の養子となる。
文禄元[1592]年 出仕。
文禄3[1594]年 養父・松平正次、卒。(慶長15年卒の説あり)
文禄5[1596]年6月3日 相模国 淘綾(ゆるぎ)郡万田郷(現在の平塚市) 380石
慶長6[1601]年 兄・大河内久綱の子である信綱を養子に迎える。
慶長7[1602]年10月2日 山城国 久世郡・綴喜(つづき)郡等で500石を宛われる。
慶長8[1603]年3月 従五位下 右衛門佐に叙任
慶長15[1610]年10月14日 三河国幡豆(はず)郡 新恩3000石 幡豆郡は元は吉良氏の領地
元和2[1616]年3月21日 780石加恩
寛永2[1625]年7月15日 甘縄(現在の鎌倉市内) 22100石の朱印をうける。
寛永9[1632]年10月23日 駿河大納言忠長が改易される。正綱は城受け取りの任にあたった。
慶安元[1648]年 家康の三十三回忌にあわせ、杉並木を寄進。
日光の杉並木は、世界一長大な並木道としてギネスに認定されている。
慶安元[1648]年6月22日 死去(73歳)
正綱の出生地である「長江村」は父・大河内秀綱の拝領地である「遠州稗原村」の隣にあたる。兄の久綱は三河生まれなので、秀綱が稗原村を拝領したのは元亀元[1570]年から天正4[1576]年の間頃と察せられる。
徳川家康の愛妾、お勝(お梶)を下げ渡され、娶る。
お勝と結婚していたのは、関ヶ原合戦前の頃か。数か月もしないうちにお勝が家康の元に逃げ帰ってしまい、破局。
その後、豊臣家の家臣・山口左馬助弘定の女を正妻として迎える。
「事語継志餘録」によると、大坂の陣(冬か夏かは不明)の前々年に離婚したが、その後山口氏を饗庭氏と称して再び娶った、という。"正綱主家ノ説ナリ"とある。
同書には山口左馬助は山口玄蕃允宗永の次男と記されている。
上記のような事情からか、松平正信(正綱の跡を継ぐ)の母に関して、『寛政重修諸家譜』には饗庭氏、『大河内家譜』には寺西氏とあって記述があやふやである。延宝7[1679]年1月3日没、宗學院殿徳譽壽清大姉。
山口"玄蕃頭"宗永(正弘とも称す)は、加賀大聖寺城で六万石を領有していたが、関ヶ原の合戦で西軍に属して大聖寺城に籠城・自刃している。
山口左馬助弘定は、大坂夏の陣で大坂方につき、木村重成の手に加わって戦死した。
弘定は木村重成の妹婿であったが、玄蕃頭宗永が慶長5[1600]年の時点で56歳ほどであることからすると、義兄より20歳前後年長ではないかと思われる。
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