【その後の子孫たち】

■松平輝綱(まつだいら てるつな)  1620[元和6].8.5-1671[寛文11].12.12
 信綱の後を継ぎ川越藩主となる。兵法や薬学などの研究を行う。
 日本初の経緯度入り地図を工夫した。

■松平信定(まつだいら のぶさだ)  1627[寛永4].11.15-1716[享保元].12.8
 信綱の四男。旗本となる。
 何度も改名しているが、徳川実紀には「直綱」と表記されている。
 長命で90歳まで生きている。戒名は勇猛院高山鉄心。

■松平信興(まつだいら のぶおき)  1630[寛永7].8.11-1691[元禄4].閏8.12
 信綱の五男。分家して旗本(後に大名)となる。
 若年寄・大坂城代・京都所司代を歴任。『雑兵物語』の編者ともいう。
 家臣の田代忠金が「陪従私記」(べいじゅうしき)という記録を残しているが、残念ながら活字化はされていない模様。

■松平信輝(まつだいら のぶてる)  1660[万治3].4.8-1725[享保10].6.18
 輝綱の四男で、兄たちが早世したため川越藩主となる。のち、下総古河に転封。
 耳が不自由であったが、無事つとめあげた。
 襲封の挨拶に江戸城に登城したときは親戚の大名が五人付き添っている。

■松平輝貞(まつだいら てるさだ)  1665[寛文5].6.20-1747[延享4].9.14
 輝綱の六男で、叔父・信興の養子となる。高崎藩主。
 吉宗の時代、甥の信祝が老中に任ぜられるとともに老中格となる。
 綱吉の遺言で、上野寛永寺に葬られていたが、近年、平林寺に改葬。
 私領内では大河内姓を用いていたらしい。

■松平信祝(まつだいら のぶとき)  1683[天和3].11.6-1744[延享元年].4.18
 信輝の後をつぐ。
 八代・吉宗時代に老中。天一坊事件に登場する"松平伊豆守"はこの人。
 大河内家譜の前半部分は信祝が自筆で記している。

■松平輝高(まつだいら てるたか)  1725[享保10].8.29-1781[天明元].9.25
 高崎藩主。輝高の代に一万石加増・八万二千石となる。

■松平信明(まつだいら のぶあきら)  1763[宝暦13].2.10-1817[文化14].8.16
 表向きは宝暦10[1760]年生まれということになっている。
 寛政の改革時に老中に就任、松平定信の片腕として活躍。
 松浦静山・著『甲子夜話』に登場。
 趣味は篆刻であった。

■松平信順(まつだいら のぶより)  1793[寛政5].6.7-1844[弘化元年].3.2
 松平信明の子。
 天保期、老中に就任するも、わずか三ヶ月で退任。水野忠邦と意見が合わなかったため、といわれる。

■大河内輝声(おおこうち てるな)  1848[嘉永元].10.15-1882[明治15].8.15
 高崎藩最後の藩主。中国人との漢文による筆談集を残す。

■松平正質(まつだいら まさただ)  1844[弘化元].4.11-1901[明治34].6.2
 大多喜藩最後の藩主。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を率いていたため、咎めをうける。
 明治維新後は本姓の大河内に復す。
 赦免後は、陸軍少佐・東京市麹町区長・貴族院議員などを歴任。
 水墨画を得意とした。

■大河内正敏(おおこうち まさとし)  1878[明治11].12.06-1952[昭和27].8.29
 松平正質の長男。
 理化学研究所(理研)を率いていたことで知られる。荒俣宏の『帝都物語』にも顔を出している。


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