サラリーマン・心のユンケル


 ここでは、これまで僕が色々感銘受けた先輩の言葉や行動を記したり、日々のよしなし事をつづります。ちょいとオコガマシイですが、人生相談だってのってしまうよん。
 ところで、W妻くんとM本さん。このコーナがいいと言ってくれた数少ない方に感謝です。中々おこがましくて書き続けるのにエネルギー要るのです。
 ここはソート機能のない更新の遅いブログみたいなもんです。下から上に新しいものが積みあがっています。( )で番号になっているものは順番なのでなるべくその順に読んでください。


(2004/12/15)  M本さんのご要望にあった「エグイ外資系の実態」は次回のユンケルで語ってしまいます。M本さんが万一外資系お考えでしたらご参考に・・・。

「ベンチャーの夢・現・幻(2)」2004/12/15uptopへ

 さて、転職の実体験レポートつづきです。
[2]外資の教育(海外研修)−スウェーデン−

 I社にとっては初の海外派遣研修生として、ヘッドクォータのあるスウェーデンに行きました。日本人は4人で他の人は24歳とか26歳とかで僕が最年長。気合入りますよね。彼らより給料も高いはずだし、質が問われちゃうと思ってました。講義録音しようと思ってテレコもっていったり、会計苦手なんで簿記の参考書を買い込んでいったり、前職で使っていた生産計画表を持っていったり、電子辞書買ったり・・・。思いつくことはなんでも準備しました。前のユンケルコーナに書いたように海外旅行先でアルバイトしたことあるけど英語で研修講義を受けるのは初めてでしたから。習ったことが、わからないでアホ状態で帰ってきたら大変だと気合が漲っていました。
 アパートにスウェーデンの人とノルウェーの人とポーランドの人と共同生活でした。勉強で朝8時から夕5時くらいまで講義聴いて、その後3時間くらいづつERPをいじってました。
 はじめて24時間英語で生活する日々を経験しました。結構簡単な表現を知らないんだなと辞書を引き引きボキヤブラリーが増えていきました。
 さて、講義内容は(OS/400とかいうケッタイな)OSのコマンドとジョブキュー1週間、ERPの基礎操作1週間、RPGという(COBOLみたいな)言語のプログラミング1週間、生産管理モジュール2週間、販売受注と価格値引管理2週間、会計1週間、ERPのモディファイプログラミングで2週間、模擬導入プロジェクト1週間、課題を与えられたERPの設定1週間・・・・盛り沢山でした。「関心」するところと「そんな機能しかないの」とか、「これできないの」と思うところがありました。
 ERPの良し悪しを述べてもしょうがないのでその辺はおいておいて、 「外国人の講義の仕方」「30歳くらいになって終日勉強するということ」の2つをテーマに書いておきます。
「外国人の講義の仕方」
 この後につづくユンケルコーナでは結構外資系のえぐいところも書き出す積りですが、それとは別に実は外資系は本国はとっても過ごしやすいアットホームな環境です。大変カルチャーショックを受けました。物を教えるということにかけては教えるほうも教わるほうもリラックスしていてかつ真剣。学ぶところは多かったです。
 たとえば
 ・講義室は15名くらいしか入らない横長で、席は縦には2列しかない。
  講師と生徒の間は最大で3m離れていない。密着型。
 ・講師は概してプレゼン上手い。練習問題やケーススタディも適切で分かりやすい
 ・講師の他にちょっと先輩の人間が後ろに控えていて、
  講義を一緒に聞いていると同時に演習などの時間に理解の遅い人に
  マンツーマンで教える
  (すなわち、次の時代の先生が常に育っている。また、もともと少人数なのに
  さらに、密着型のナレッジトランスファーがある。知識はかなり確実に伝わっている。)
 ・廊下にソファがあってコーナに果物やクラッカーみたいなものが
  いつも置いてある。
  給茶機も種々の銘柄のコーヒー(カプチーノ含む)から紅茶、
  ココアと何でも無料。当然講義中に持ち込んでいい。
  洋ナシをかじりながら聞いてる人もいる。
  要はリラックスすることを徹底的に奨励している。
 ・質問は大いに歓迎され、講義中に議論はよく起る。
  生徒は先生が間違っていると思うと納得するまで
  たとえどんな幼稚な意見でも引っ込めない人がいる。
 ・教え方の悪い講師は引きずり下ろされる。(プログラミングの先生で実際にこれが起った。)

 当たり前ですが、教える側も教わる側も対等です。ただ日本では講師の質に不満あっても終わった後にアンケートに愚痴書くくらいなのが、向こうでは場合によっては翌日に下ろされるというのはびっくりでした。
 ほっておいてもせいぜい1週間の付き合いなので愚痴ですますというのが普通の日本人の考えかと思います。が、あっちでは逆に「学ぶためのチャンスは1週間しかないのにこんなアホに講師やらせといたらあかん」と考えるようです。
 いい刺激になりましたね。この研修が終われば日本に帰ってからは(3ヶ月とはいえ)たった4人しかいない専門家集団の一員になるわけです。当然関係者へのナレッジトランスファーもしなきゃならないし、「だめなら明日下ろされる」という覚悟で人に教えなきゃいけないと肝に銘じました。
 教室はこじんまりしていてナシかじってていいのに、こういう緊張感も同居している。これが西欧かぁと思いましたね。
 みんな真剣でした。スウェーデンでは優秀な大学をでて入ってくる人ばかりみたいでとても刺激になりました。ソフトウェア(ERP)を動かせばいいというのでなく、それがクライアントにとって何のためになるのかを結構議論してました。
「30歳くらいになって終日勉強するということ」
 30くらいになると人の話をずっと終日聞くのは本当に疲れます。3ヶ月など拷問に近いと誰かが言っても驚きません。僕もそうでした。しかも、経験のある生産管理はいいとしても、会計や販売管理・プログラミング(しかもCOBOLもどき)など講義のほとんどは始めて考えることばかり、これらを英語で聞くのでたまりません。
 考えてもしょうがないので予習として、テキストにある単語を電子辞書で引きまくりました。(テキストに書き込まなかったです。書く時間がもったいなくて)
 自転車操業で予習のテキスト読み。理解したことをノートにイラストで書くようにしました。業務の流れに相当するプログラムの起動の順序や条件分岐の条件。文章の内容にあう在庫のグラフ。・・・などなど。文章を書かないのがコツですね。時間も足りないし。英単語を覚えることは目的ではないですから。アイデアを直接吸収するのがいいと思いました。それでも大変でした。
 あと難物はプログラミングでした。そのころDelphiは多少いじれたのですが、まったく思想の違う(しかも遅れている)言語です。プログラムはどうしても文字を書き出さないといけないし、そもそも考え方よりはコマンドの意味と用法を覚えるのが目的ですから。とにかく苦労したのを覚えています。
 ただ1ヶ月もすると慣れてきました。30くらいの年になって物覚えが悪くなったなぁとスランプを感じたわけですが、克服方法は、まず、やりまくることですね。要は「勉強というのは知らないことを一つづつつぶすこと。」だんだん知らないことが無くなってくると理解が一気に加速されます。色んなことが同じに見えてくる。
 年のせいでしょうが、数ヶ月も終日講義を聞くのはつらいですが休み時間にソファによりかかって寝るとか、インターバルいれればだいぶ楽になります。10−15分の休みを軽い睡眠もどきにあてるとわりと講義のとき頑張れました。
[総括]
 これはいい経験になりましたね。集団研修を泊り込みでするのって普通は最初に新卒で入った会社しかないわけです。ですが、僕の場合、それを2度経験できたわけです。29歳で行かせてくれたのは本当にラッキーでした。集団研修ってそれぞれの会社のカラーや思想が色濃くでます。会社人生を2度経験できたようなものです。
 みな会社をどうやって大きくするかということに話を咲かせていて「原体験」とでもいうんでしょうか、仲間意識を共有できて人間形成にプラスの要素を沢山もらえました。日系の大手メーカーと外国のITソフトベンダーとそれぞれよいところわるいところあるし、客観的に色んな考え方が学べました。
 最初の大手メーカーの場合はあまり実務に役立つ研修でなくて(それでも3ヶ月くらいやってました。)、仲間をつくるということと会社のカルチャーに慣れるということが主目的だったと思います。一方、外国の研修は仲間作りだけでなくもっと実践的でよく考えられていました。間違いなくソフトウェアの世界、業務コンサルティングの世界でやっていくための土台を学ばせてもらえました。
 若くて転職迷っている人はこんなチャンスがあるかどうかという観点で行き先選ぶのもいいかも知れません。僕は結局この会社辞めちゃったのですが、結構高度なスキルつけて、日本にいては決して感じ取れないカルチャーに触れたと思っています。
 会社を大きくして年収3000万円目指す。末は社長。−−−−これが目標でした。そのための勉強を死に物狂いでしました。
 こういったのは、30歳くらいまでなら可能なキャリアチェンジだと思います。自分の経験を振り返って転職で後悔しないためには
 ・自分がどうなりたいのか真剣に見つめなおすこと
 ・チャンスを真剣に探すこと
 ・自分の強みを正しく認識すること
 ・自信をもつこと
 ・具体的な目標を持つこと。
  =>到達できないくらい高く(到達できませんでしたが(ToT))持ったほうがいい。

というのがいいと思います。特に最後については、「人間満足しちゃったら終わりだ。」位に思ったほうがいい。
   そうでなきゃ転職する意味がない。(ちなみに会社は最初にくらべればはるかに大きくなりました。手前味噌ですが僕の貢献は大きかったと思っています。そして残念ながら小さくなりました。手前勝手ながら僕にとっては不可抗力だったと整理してます。年収は元の大手メーカでは到達できないところまでは持ち上げました。6年でやったにしちゃ上出来でしょう。結果には満足しています。)「超一流」をめざせば最悪「一流」にはなれんじゃないのぉってな感じですね。
 とにかく夢を持っていました。大手のメーカ研究員よりは明確な事業貢献ができると思い気が漲りました。
夢編−終り−
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「ベンチャーの夢・現・幻(1)」2004/12/15uptopへ

 さて、今回から数回の「こころのユンケル」コーナーでは、転職の実体験をレポートしたいです。
 1998年7月から2004年10月まで、僕はある外資系の法人向けソフトウェアベンダーに転職して、夢をもち、挫折も味わい、あるときはだまされて、そしてあるときは勇気付けられてすごしました。
 結局辞めたのですが、そこでやってたことの意味を何度も思い返します。 きっと仕事で悩まれている方や転職・独立をちょっとでも考えた人には参考になるだろうと思い、そのときに経験したことをここに書いていきます。
[1]最初の転職−動機と退社そして入社−
 僕のサラリーマン生活の振り出しは将来安泰な大手企業の研究員でした。下のユンケルの記事にあるように製品・製造プロセス研究がメインの業務でした。
 製鐵所つきの研究員で、冶金工学と破壊力学という専門分野を持っていたので製鐵所のどこかで事故があると破断面(僕らは単に破面といってました。)を切り出してきて電子顕微鏡で観察して事故の原因を究明するという任務も持っていました。
 絶対つぶれない大会社で、とりわけ待遇のいい研究員、人事・役員の覚えめでたく順風満帆。そういってよかったでしょう。  入社早々の研究員が役員の講和を拝聴する席で、質問タイムに役員に堂々噛みついてしまい、「やってしまったなぁ、まあいいか(別に出世する気もないし・・・)」と思っていたら、積極的な人物だと役員にも人事にも好評だったみたいです。同じ大学のOBも沢山いて、中央研究所の技術開発本部長(<=常務です。)に「独身かね」なーんて聞かれて、ひょっとしてお嬢さんにでもあわしてくれそうなモードも経験してます。(お会いしてたら、人生変わってたかも。)
 バブルはじけ、変革の求められる時代に態度でかかったので目立ったんでしょう。とりあえずまじめな性格でもあり、その会社でそれなりのコースを歩めたとは思います。
 あのころは大手のメーカーはみな低迷の時代。バブル最後の入社組は「会社は営利を求めるもの」そういう講和をずっと聞かされて業務に取り組んでいました。
 自分では絶対買えない実験器具(何億円もします。)と実験のために工場を止める 割り込み(1回で何億円分の製品をつくるための時間が失われる。「試験材流し」という。) などなど、現場の研究は金がかかります。
 ばたばたやるほど評価が上がるのですが、さて僕が生み出した製品って?・・・そうやって振り返りました。
 製鉄業は成熟産業でちょっとやそっと何かやっても新しい製品って出てこない。 そんなこと考えてました。3年目くらいから、高邁ながら研究員としてこれ以上学ぶものがないと思い始めたのです。そのうち会社の企画部が出してきたレポートに「わが社の研究員を、リストラせずにそのまま給料はらいつづけて、かつ研究活動を何もさせなければ粗利が○○%向上する。」(○○は伏せておきますね。企業秘密だ。)なーんて書いてありました。・・・横っ面をひっぱたかれたようにショックでした。「何もしてくれるな、そのまま給料あげるからさ。どうせ役に立ってないんだから」・・・・と言われるのとほぼ同義に思えました。(事故の破面調査くらいなんでしょうかね、本当に役に立っているのは?)
 実は入社時に役員に噛み付いたというのには、その役員が「研究やるなら成果をあげろ」と繰り返すので、新人研究員100人の満座の席で手を上げて「成果って何ですか?」「事業貢献はどうやってはかってるんですか?」「それは客観的な指標ですか?」と問い詰めたのでした。
 その役員は(<=りっぱな人ですよ。そんな生意気な新人にまじめに答えるんですから。)結局、「みなさんが博士号をとるのだって成果です。」と答えられたのを覚えています。そのときはそんなの可笑しいという感想でした。
 個人的にもメトリックス(測定基準)のない成果で待遇決められても困るし、会社だって儲かってんのかどうかわかんないじゃん。・・・とですね。
 工場がどんどんと合理化され、殆ど無人で粗利を生み出しているところに、自分がばたばたと無意味なことやってその利益を食い潰しているのです。
 なさけなかったですね。そんな風に思っているころ、また了見のせまい部長さんが上司になってやってきて、唯一自分でたどり着いた新製品になりそうな 研究成果を否定されてしまいました。彼の言ってたことも正しかったのかもと思いますが、モチベーションが最低に落ち込んでしまいました。
 「じゃあ何のために俺はここにいるんだ?」そう思って参考に研究部門の先輩研究者が最終的にどんなキャリアパスを歩んだのか調べたことがあります。
 ・技術開発の本部長になる人(<=ほとんどいない。どこかの製鐵所の別の部門からくる。)
 ・製鐵所のキーマンとなる人(<=案外、一番多い。どこかの所長になる人もいる)
 ・研究部で部長までのぼり、結局大学の先生になる人
 ・MBAなどをとって戦略ファームに転職する人(研究に限らず、MBAとった人の少なからずがこれ。MBAは転職の材料なのだ。)

   また、会社全体での特許の申請数も1500もあるのにライセンス料がとれているものはほぼ皆無。僕も12件だしましたが、どれも他社からの出願防衛が目的で、あえて登録に踏み切ったのは1件だけ。もちろんライセンス払う人なんていません。でも学会発表などは積極的に行っていたし、評価も良いほうだったと思います。  うーんどうも、この会社の研究所というのは研究成果を求めるところじゃなくて、事業を学ばせて、人材を育てる機関なのか?(研究で人生まっとうするより、製鉄所のお偉いさんになる人のほうが圧倒的に多い。) ならば「博士号をとる」というのは確かに大成果だな。・・・という結論に達してしまった。(この会社では「青色レーザー」みたいな話はありえないなと。)
 こうやって自己否定みたいな結論が形成されつつあるときに、おまけに新しく来た部長さんと性格的に合わなかったので苦しかったですね。最初は営利を忘れて技術者として静かな人生送ろうと思って入った会社で結局学んだことは 「会社に勤める人間が営利を忘れるなんてありえないんだ。」ということでした。
 「プライシング戦略」という本の書評でも書きましたが、本来、会社の(とどのつまりビジネスマンの)従うべき鉄則は「価値を届けたものが生き残る」それだと思います。
 転職を考え始めたのは、当時の部長さんと花見の席でつまらん議論をしたときからでした。大企業には黒を白にしてしまうしようもない人物たくさんいるんだと思いましたね。 「こんな奴(ら)の相手してるのは人生の無駄遣いだ。」そう思って、いろんな業界の本を読み漁って、キャリアを設計しました。このころTypeとかTechBingといった雑誌もよく読みました。
 5年後とか10年後に自分がどうなっていたいのか、どうなるべきなのか真剣に悩みました。自分の強み(市場で通用するのはなんとかいける英語と生産管理の知識、プレゼンテーション能力)と捨て去って忘れるべき経験(各種の理工学の知識、破壊力学、冶金工学、材料工学、電子顕微鏡、特許作成経験、官庁への試験方法申請・・・・)を棚卸しました。
 そしてやってみて面白く感じられそうなことを想起してみると
 ・ベンチャーであること(すべての行動が営利に結びつくはずだ・・・
  とそのときは思いました。)
 ・経営や業務に関わる知識が得られそうなこと
 ・これからの業種かつ自分の強みを買ってくれそうなこと
 ・何よりも、「再出発」のきっかけになること

 なにをやるにしても失うものが多いですが、得るべきものを見つめると当時(1998年)話題になり始めたERPという法人向けのソフトウェア導入がいいと思ったのです。
 ERPというのは、経理・製造・購買(仕入)・販売と業務に関わるすべてのリソースを一括統合するデータベースアプリケーションです。こういう考えがあると企業の経営状態が透明化され、特に大きな企業ほどメリットが大きいと感じました。
 振り返ってみると製鐵所でも販売と製造の部門の思惑が食い違っていたり、製品個別の原価が把握しづらかったりと会社内部で情報が分散して、何が正しいのかわからない状態を経験していましたし、何か経営の指針を得るためのレポートを作成するときも各部門が自分に都合のいいデータの収集してくるので真実の見えない混沌が露呈していました。
 (例えばある九州の得意先に鉄板を売り上げるのに九州の製鐵所から納品した方が絶対割に合うのに、千葉にある製鐵所が直納の商談を進めていたり。企画部と工場の出した同じになるはずのデータがまったく違っていて、前提条件はなんなんだと揉め事になったり。 ・・・恐ろしいことに数値は抽出者の意図に従って「作成」できるんです。僕はどんなときも客観的にやりたいと思ってますが。)
 当時も今もERPでは、Sという会社がもっとも有力で大手ですが「ベンチャー」がよかったので応募もしませんでした。むしろ日本では後発で、しかも海外で実績のある会社がいいと思ったのです。
 オランダ系のBというところとスウェーデン系のIがネットの検索で引っかかりました。(あとから思えば、B社はそのとき既に大きかったですね。)
 すぐ立ち上がりそうだという印象でB社の方が安全な気がしました。結婚してたのでいきなりつぶれちゃうようなとこでもまずいなとかベンチャーとは矛盾することも考えていました。
 一方、I社の方は、立ち上げ期なので入社早々本社のあるスウェーデンに3ヶ月くらいの派遣をしてもらってERPを通して、種々の勉強ができるということが求人広告に書いてありました。これは魅力でしたね。別に海外で遊びたかったんじゃなくて、人生のリセットの勉強期間をもらえることが魅力だと思いました。
 さて応募に当たって、まず悩んだのは、お嫁さんに切り出して理解してもらうことです。当然、彼女は沢山の疑問をぶつけてきました。会社から逃げてるんじゃないかとか(まあ、ある意味そのとおり。やる気なくなったんだから)この不景気の時代に大変だとか色んな言葉が止め処なく出てきます。彼女を大いに不安にさせてしまったと思います。丁寧に彼女に答えるうちに自分のマインドもどんどんはっきりしてきたのを思い出します。 「失敗はできないな」と。
 結局彼女は理解してくれたんだと思います。あきらめたのかもしれませんが、僕は彼女とのやりとりで決意がクールに固まったと思っています。
 さて「、どうやって30歳近い知識ゼロの人間がIT業界に入るか?」が次の課題。この時点ではどちらの会社も反応ないかもと思ってました。
 自分の強みの棚卸で考えたことを履歴書に書きつくして(一見どう考えてもERPと関係ないことまで売り込んで)、職務経歴書も重厚に書き尽くして、その上お手紙みたいな書類もつけてこの2社に出しました。
 B社の方は僕の経験に魅力なかったのか返事くれませんでした(<=断りの「はがき」くらいだせよな。だから日本でポシャったんじゃない?)。ところが、I社は当時の人事部長さんがえらく気にいってくれたみたいで即決でした。お手紙が気に入ったそうです。 「あの手紙は良かった。子々孫々まで語り継げ。」とか無茶なほめ言葉を頂戴しました。最後に「僕はもうすぐ30歳になろうかという男ですが、いきなり3ヶ月ものOff-Jobトレーニングになるスウェーデンでの研修は本当に行かせてくれるんですね?」と念を押して「行ってくれなきゃ困る。」とのことでした。逆に面接で「給料ちょっと下がりますよ。」ときましたが、「いいですよ。」と返しました。そのときはすぐ上がるだろうと思っていましたから。(<=誤解でした。これは続編で。)
 九州に勤めてましたので、航空券自腹払いの転職面接でした。たった一回で即決。オファーレターが来た翌日に上司に相談しました。例のいやな部長には色々言われましたし、引き継ぐことがなくなっても会社にでてくれ、みたいなこと言われて最後だし付き合ってやるかとぎりぎりまで5時まで出社で会社には行っていました。引越し代金も自腹。なけなしの自己都合退職金30万円は消えてしまいました。
 当時の研究部の現場のおじさんで「愛してるよ」とか言ってくれる人が居て(へんな意味じゃないとは思いますが)、ちょいとほろり。それと技術開発の人事掛長が社内電話で「残念だが、頑張ってよ。」と。(あわせてたった二つですが励ましの言葉はうれしいものですね。)
 さて、その当時のI社の雰囲気ですが、ちょうど今の六本木ヒルズの敷地のステージのあたりにあった小さなビルに入っていて、大学の体育会の部室みたいな雰囲気(蛸部屋というかなんというか・・・)でした。メンバーはプロパーと外注の人合わせて15人くらいでした。よく辞めたねぇとI社の人事部長はびっくりしてました。こないかもと思ってたみたい。
 そして入社して2週間目でスウェーデンに出発しました。
 この会社をオラクルさんみたいにでっかくして、いずれ年収3千万円くらいもらうつもりでいました。
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「”しぶ長”での仕事」2004/01/27uptopへ

 僕が何かの支部長を拝命したという訳ではありません。初めて給与生活をしたときに勤めたお店が「しぶ長」という名前だったのです。とてもいい勉強になりました。そのときの経験を書きます。今日のテーマは「プライド」です。(人気ドラマとはなんの関係もないです。)おひまな時に....。


 ちなみにこのユンケルの記事は誰かを個人攻撃するような意図はありません。自分を振り返って色々書いてます。絶対誤解しないように!(普段、口の悪い人間は一般論を言うときに自分以外の個人を想定して語ることはありません。今の僕がそうです。)

 大学2年の年(19歳でした)に海外旅行をして、お金がなくなって仕事をしました。ロス・アンジェルスでのことでした。あっちで仕事を探しました(学校やめようかななんてちょっと思っていました。今思えばちゃんと大学卒業しておいてよかった。)。英語が下手で、現地の米国人の経営するお店は相手してくれませんでした。でもまわりに日本語しか出来なくても仕事してる人いっぱいいるんですね。(少なくてもその頃はそうでした。今のアメリカは異邦人に厳しいらしいですからあの頃より少ないかもしれませんね。)そこで仕事のある人に聞いてみるとカリフォルニア州で発行されている日系人向け新聞に求人情報がたくさん載っているとの情報を得ました。
 新聞は日本語で書かれていて「加州毎日」とか言いました。(うろ覚えですが、加州はカリフォルニアのことだそうで、とてもよく読まれている新聞らしいです。)せっかくの経験なので、なるべく外国人と接触の多そうなとこにしようと思い探しました。「働く人募集中−しぶ長−」とか書いてあるのできっとアメリカ人が日本人相手の商売やっていて一所懸命、日本語使ってるのかなと思ったのです。しぶ長ってひらがなになっているし。そもそも仕事の中身も書いてないし。とにかくコンタクトとってみようと公衆電話使ってみました。なんか使い方わからなくて苦労しました。10セントのマークが入っているのに25セントでなきゃだめだったような記憶があります。10セントを3枚入れてもだめできっちりそのコインを一枚入れないと反応しないし、説明書きは違うこと書いてあるし。
 電話かけるので相当苦労してやっとつながると、やたら流暢、というか自然な発音の日本語が返ってきました。「はい、支部長です。」と。だけど自分を役職で一人称するんだから、やっぱりこの外人さん日本語はよく知らないんだと思い、きっと日本ってのはこういう国でとか説明してあげるとたぶんありがたがられるだろうとかいろいろ期待しました。働く意志があることをわかりやすいようにゆっくりはっきり発音すると「じゃあ、場所はサウスアラメイダ333のヤオハンの2階のテナントですから・・・云々」と説明され、早速バスを乗り継いで行ってみました。
 場所を見つけてみるとそこは渋谷(しぶや)さんという青森出身のこてこての寿司職人がやっているお寿司屋さんでした。「しぶ長」というお店の名前の由来は「しぶや」の名前からとったのもあり、一方日本企業のカリフォルニア支部長さんたちにアピールする意図もあったと思います。こてこての日本人の経営する日本人に向けて商売してるお店だったんです。(ヤオハンのテナントだってとこで気づいてもよかったかな・・・。)
 ああ、求めていた職場とちょっと違ったかなと思いましたが、どうせ英語下手なので米国人のやるお店は相手にしてくれないだろうし、「ここで一つ経験を積むかぁ」と雇ってもらいました。仕事はお茶くみのウェイターです。
 さて、たったの4カ月ですが、学生の籍を置いたままなのである意味長期です。(その年度は大学の単位一個もありませんでした。)レストランなので昼と夜の2部があり、月ー金のすべてが昼夜2部で土曜は昼だけ働きました。
 今から思うとなんと仕事できない人間だったのだろうと恥ずかしいです。その頃の板さんが思い出したら皆なそう言うでしょう。結構繁盛しているお店でした。ですが、日本食のお店はたくさんあり、競争が厳しかったと思います。僕にとっては仕事が大変でした。昼時が特にきつい。サービスのランチメニューでお客さんも急いでいるから回転速いんです。大した広さでないのに席に案内して、注文聞いて、「お茶下さい」「お味噌汁下さい」「メニューの説明してください」とあれこれお客の言うこと聞いてあちこち動き回っていると目が回るようにふらふらしました。注文をテーブル三つくらい取るとどのテーブルが何枚目の伝票に書き込んだのか忘れてしまったり、注文受けた順番とモノを出す順番取り違えてしまったり。ひどいときにはお持ち帰りでお土産寿司を電話で受けていたのに、お客さんがお店に来たときに板さんに頼み忘れていたことを思い出して「あー、忘れてました。」といってお店からも、お客さんからもぼろぼろに怒られたり。そのお客さんはおばさんでいつも厳しい人です。お得意さんでしたのでトリワケえらいメに会いました。(余談ですが、女性は無能な人間に厳しいものだということを肌身に感じて知りました。女の人にバカにされだしたら人間つらいです。別に女性蔑視じゃなくて、女性は傾向として人を責めるのに容赦がないという特徴を持っているという個人的な感想です。<=とくにおばさん。個人攻撃じゃないんで注意!)
 また、夜は夜で疲れて眠いし、外人の比率が上がるので英語でちょっと苦労したり、「どびんむし」だの「大和むし」だの「あさりの酒蒸し」だの「ひれ酒」だの(ふぐは出さないけどひれ酒はあったのだ。)・・・、自分では舐めたこともない高級料理を色々細工して出さなきゃならないんで大変でした。例えば「ひれ酒」だと:@湯のみに熱燗のお酒と炙った「ひれ」を入れてふたしてお客さんのところに持っていく。Aマッチで火をかざす。B「ふた」をとってマッチを近づける。C湯のみの上で蒸発するアルコールを燃やす。  と何でもないようですが熱燗の加減を間違えてあまり火がつかなかったり、あるいはお客さんに気を配らないで、かがんで御寿司を食べているお客さんの顔面の至近距離で火が上がって思いっきり怒られたり・・・と。書いててよく首にならなかったなと思うほどアホなことやっていました。ちなみに「ひれ酒」のひれがふぐのひれだというのは日本に返ってだいぶんしてから知ったことです。どびん蒸しも大和蒸しもまだ口にしたことないです。皆おいしそうにすすってましたが。どんな味するんだろ?
 とにかく、昼も夜も苦労しました。昼と夜の部の間に少し間があるのですがその間は近くに借りてる自分のウィークリーマンションに戻って寝てました。2時間ぽっきりで、熟睡などできませんが体を横にして目をつぶると夜の部で眠気がだいぶ無くなるんです。もちろんトイレ掃除やおしぼりの在庫管理や倉庫の整理、会計のレジ、毎日の昼・夜の締めは僕の仕事でした。よく1セントの単位でレジの残高と伝票の金額が合わなくてやり直したり、自分の財布やチップから足してとにかく締めをあわせたりしてました。4カ月いましたが最初の1ヶ月から1ヶ月半くらいは(もっとかな)こんな調子で苦労しました。
 今日のこのコラムで皆さんに言いたいのは僕が苦労したとか、なれない仕事は大変だが頑張ればできるようになるというような「とにかく」の努力を煽ることではありません。しょせんは「精神論」とは思いつつも、あのときの気持ちの持ちようで僕は上に書いたようなミスや非効率を露呈せずにもっとうまくやれたのじゃないかと思うの、でその存念を書くつもりです。「とにかく頑張れ」ってのは好きな言葉ではないので、それよりかはマシな精神論を展開してみたいです。
 僕はその頃変な風にまじめでした。サービス業なんでお客さんに対して慇懃にしてりゃいいという感覚もあったのかも知れません。声を掛けられればでっかい声を「はーい」と張り上げて、(落ち着いて歩くべきなのに)つかつかと大またで大急ぎで行ってみたり。ひれ酒の例にあるようにお客さんの動きに気を配っていませんでした。お茶の濃さを気にしていたことも余りありませんでした。
 また、まかないメシの時に、板さんたちがおやじさん(経営者の職人さんです)の出すボーナスに文句言っているときに僕はあまり同調できなかったのを覚えています。たぶんウェイターという仕事を通過点と考えて、もらう給料とかボーナスとかにこだわりがなかったからだと思います。(まあ、実際通過点だったし、それは板さんたちもわかっていたのだと思います。)そのときはお金はいいから経験として一所懸命やろうと思っていたのです。
 今になって板さんたちと(あるいは他のウェイターと)、僕のおすし屋さんの仕事に対する態度を比べて振り返ると大変違っていたなと思うことがあるのです。例えば、ある板さんが夜の仕事の後に裏方で一人で包丁を研いでいるのを見たことがあります。そのとき、板さんは包丁を頭の前髪につけてました。てかてかのポマードみたいな髪が調理帽の前からはみ出しているところにつけてなんか研いでるんです。一瞬、(うわっ。なにやってんだキタネェ。)と思いましたが、怖い人なんで黙ってました。後で昔の寿司職人は髪の油で包丁を研いだとかいうことを何かの本で知りました。そうするとうまく研げるんだそうです。何か研究していたんですね。当然、研いだ後は洗うんでしょうから、いいのかもしれません。また、板さんたちが交代でつくるまかないメシでも、評判のいい板さんはメニューを一度も同じモノにしませんでした。煮物、焼き物などから、グラタンとかまで、食事のときはウェイターの箸をつけるところをとてもよく観察していたように思います。カウンターで出す寿司もポン酢にしてみたり、塩を振ってみたりと工夫してましたね。つけだしの千切り大根を箸つける前からしょう油かけると裏方で「あいついきなり醤油かけやがって」とか怒ってました。こういうプライドもった板さんほど給料やボーナスの額に敏感だったような気がします。ウェイターたちも何か僕とは違っていて、僕は食べ物へのこだわりないし、プライドなんて皆無でした。
 そのお店では僕は海外旅行で足がでた金額をバイトして埋めようというだけの考えで働いている人でした。ロスに足場を持って生活する他のウェイター(彼らも日本人)より圧倒的に若かったし、仕事でもらうお金に対する緊迫感がなかったです。また、板さんたちのように「おいしい食べ物」を研究する気持ちもなかった。サービス業を表面上の態度で丁寧にお客さんに対応することと履き違えていたし、そのことに対する危機感もなかった。他の板さんはお客がどんなときに「美味い」と思うのか常に考えていただろうし、年上のウェイターの人たちもより収入が上がるように(チップが加算される)頑張っていた。しぶ長以外の店にも仕事で入ったりして色々経験をしていたみたい。
 仕事に慣れてきたある日、すごい暇なお客さんの少ない日にランチで外人二人組みがやってきたときに、一人が寿司を頼み、一人は頼まなかったときがあります。僕ともう一人の新人でサービスの味噌汁をどうせタダで出すものだと思って2人に出したら、板さんに裏方にぐいっとひっぱりこまれて、「おまえらは、慈善事業やってんじゃねえんだぞ。あれは食ってない方のやつからも2ドルとれ!絶対だ。いいか。2ドルだぞ!」と張り手を食らいました。ああ言われてみりゃその通りだ。と素直にそう思いました。座ってる人に何かしなきゃいけないというサービス精神はプロの仕事じゃないと思い知らされました。道端で困ってるおじいちゃんを案内するのとはわけが違う。とりあえず味噌汁だそう・・・というのは絶対やっちゃいけないんですが、働くという行為の意味が感性で理解できてなかったんだなと思います。
 今となってはこんなアホな行動をすることはないと思います。でもあの頃はわかってなかった。「仕事はお金をもらうためにすること。」という大原則と「無償なサービスをしないこと。」とか「よりよい仕事の意味を考えること。」はたぶんスムーズにつながることです。(論理的に言い切れませんが、そういう感性が身につくとたぶんいいお金がもらえる人になります。)
 よりよい仕事の意味は個人レベルなら、仕事や商材の勉強をして自分の効率や付加価値を高めることです。管理者層なら、経営に有効な組織のオペレーションを考えたり、製品や市場の研究をして思いをめぐらすことも含まれると思います。
 今勤めている会社では、プロジェクト予算に応じた賞与のベース金額を稼動時間で消化して賞与額が決まる(ほんとに)変な仕組みが導入されています。しかも一年目は対象外だそうです。「若いのを適当に補充してプロジェクトを進めよう」とか「新人だから、予算の少ないプロジェクトに突っ込もう」とか「まだお前に付加価値ないんだからつべこべいわずとにかくやれ」とか、罵詈雑言のようなこと言う人がいたこともあります(やめちゃいましたが)。営業が勝手に叩き売ってきた値の安いプロジェクト(<=そういうとこに限ってお客さんが話わからん人で苦労します。)に突っ込まれてもめるとお前が悪いとやられることもあります。値がつけられない人は教育で付加価値つけてから現場に送り込まねばならないです。管理者の責任だと思います。また教育される側の人間はそういう緊張感を持つ責任があります。でないとモノを覚えられないと思います。
 たいへん高邁ながら、(勇気振り絞って言います。)僕が今日いいたいテーマの「プライド」とは「仕事の質へのこだわり」です。何の仕事でも難しいですから、お客さんの求める質に追いついてなくても仕方ないことがあると思います。でも質を向上させる気持ちが重要だと思うのです。(できればやっている仕事が好きな方がこだわりやすいでしょうね。)「とにかく頑張る」のと「質を向上させるために考えながら頑張る」のはまったく違うと思います。僕の例でいうと、寿司屋の時は「質」を真剣に考えてなかった。とにかく頑張ってただけ。
 「とにかく頑張る」の人は量にこだわります。寿司屋のときの僕です。いっつも次は何をやったらいいですかと聞いて回ってました。ひょっとしたらお客さんの顔色を見て考えればその方がよかったのかも知れません。これは昨今、株式会社のサラリーマンにもそのままあてはまるように思います。不景気で、何をやるべきかがとても重要な局面でもただばたばた動いてることないですか?動いていないと満足しないか不安なので、人の指示をやたら求めたり、セールスマンが期末になって悪条件で売上つっこんだり、客先訪問の数を増やす。会社として求めていない顧客ドメインに大手を振って切り込んでいくし、そもそもドメインなんて単語を知らないし、考えようともしない。そうだとしたらまずいかも。
 「質へのこだわり派」は自分でどうやったらいいか考えようとします。今、僕はそうありたいと願っていますし、そう努力してます。仕事を組み立てようとするし、これからやることや指示されたことの意味を考える。不承知があれば上役にも噛み付きます。気の短い板さんと脳みその回路が似てるはずです。こっちの派閥の人は会社の製品やサービスを深く理解しようとするし、効率という「量につながる質」も気にするはず。ひょっとしたら憎まれ口ばかりたたいて、時に人の助言を受けられない孤立を味わってるかも知れませんが、実は他人(とその仕事との連携)にとても注意をはらっている。
 寿司屋の板さんのやっていたことを今頃反芻して色んなことを考えます。あの頃はただ迷惑掛けているしょうもない旅行者でしかなかった。最後に、ちょっとましになったころに、約束の期日が来て日本に帰ることになり、おやじさんに「よくがんばってくれたなあ。でもやっと仕事覚えて様になってきたころにかえっちゃうんだもんなぁ」と言われたのが今でも忘れられません。経験を積もうなんて感覚で仕事してるのが迷惑な話だったのかも知れない。「俺がお客をひきつけてるんだから金を下さい」・・・とウェイターが言ったらびっくりするでしょうが(<=僕はこんなの言う資格絶対ありませんでした。)、何かしょってるものがあるべきだったんだろうなと思いました。
 今働いているのは人生で3つ目の職場です。外国の日系レストランと大手企業と外資ベンチャーどれもまったく違うのですが、不景気で競争厳しい今は「プライド」が重要だと信じてます。鼻持ちならない奴じゃなくてね。ホントに自分だけの「プライド」です。


<豆情報>  ウェイターの仕事について。
 ロスで働くこういう外国人は「illegal alien(違法外国人)」と呼ばれています。もう時効だと思いますし、証拠もないですから暴露してしまいます。ロスの中華とかインドとかの各国籍の料理屋さんはそれぞれこういった外国人で運営されていましたし、メキシコの人たちなど店の国籍を問わず働いている人の数は膨大でした。特に責めて排斥するとロスの社会が仕組みとして回らないだろうと思います。従って罪悪感はなく、逆によい経験で、かつ社会にある種の参加をしたという感想を持っています。(上で述べたようないいかげんな仕事しちゃったなという中途半端さは当然感じてもいますが)ちなみにチップの収入はよいです。社会保障を忘れれば大手一流企業の初任給手取りより多いです。ドルが100円くらいの実感でそう感じました。月に3000ドルは貰えてたと思います。お店がよかったのかもしれませんが。
 illegal alienたちは、普通は僕のように数ヶ月という間でなく、それこそ20歳で入国して、28まで(ビザがとっくに切れていて)そのままアメリカに住んでいる豪の者にも会いました。当然生活の糧なのでチップの多い店で働くときの真剣さは鬼気せまるものでした。ウワッついた僕など足もとにも及びません。(しかし、働く店は条件次第でころころ移りかわってるみたいでしたね。)

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「上司に隠れてでもやりたい仕事」2003/12/22uptopへ

 尊敬するかつての上司がぽろっと言った言葉です。仕事で夢を追っかける姿勢を学ばせてもらいました。要は仕事に対して長期の目的を自分で持って、短期成果を求める上司から隠れてでも信ずる成果を積み上げろというお言葉でした。

 長いエピソードはその解説です。暇なときに...。
 僕の社会人生活の振り出しは大手製造業の研究員でした。とは言っても工場に隣接していて、その工場(=製鐵所の鉄板工場です。)の生産プロセスを改善したり、現在の出荷製品の性能を向上させたりととても実践的な研究です。十年、二十年といった時間をおいて現実化するようなテーマを扱う研究ではありませんでした。
 製鐵業ということで、ある意味、成熟産業でしたし、景気が悪くなって、即収益につながる研究が奨励された時代でもあったので、長い目で見れば益があるかもというような基礎研究は疎まれていたといえました。でも僕自身は基礎研究を指向していました。
 Hさんという尊敬する上司がいました。今でもよく思い出します。ゴルゴ13顔負けの機械のような正確さで業務をこなしていく人でした。8:30の始業時間に遅れず早すぎず出勤してきて、朝に僕の業務指導や雑用をして10:00くらい。10:00−12:00くらいまではわき目も振らず現場の技術者が上げてきたデータをまとめています。12:45−15:00位もとても集中して仕事をしてました。残業してるの見たこと無いです。
 ところで現場の技術者というのは、大体は工業高校をでた人で、大学院卒の僕などからすると父さんと同じくらいの年の人たちです。溶接のプロとか、金属研磨のプロ、引っ張り試験のプロ、試験材料の加工外注の調達を管理する人などいます。皆ローテーションして多能工です。企業の研究って、指示書一つで彼らがほいほいと実験してくれて、あっという間に実験データが上がってくる。研究員は実験データをレポートにまとめるだけ、ある意味、頭使う所しか仕事をさせてもらえない。大学の冶金学科の人たちが卒論・修論でやるような実験は2−3ヶ月で終わる。こんなとこにHさんのような人がいると成果ががんがんあがるのです。
 月に一度研究部で進捗の報告会議があるんですが、Hさんは月に1−2レポートまとめるのが当たり前、すごいときは4つもレポートまとめて、前日に飲み会に来ています。
 僕がレポート一個まとめるのに結局1−2ヶ月位費やしてしまい。しかもぎりぎりまでデータのチェックやプレゼンのOHPまとめている。Hさんや他の上司、または部長の鋭い指摘(あ、しょうもない部長もいましたが)を想定すると前日まで気が抜けないんです。その会社に5年間いましたが、結局一ヶ月に2つ以上の報告を出すことは出来ませんでした。報告の前日に徹夜なんてしょっちゅうでしたし、ひどいときは計画倒れで前日に電子顕微鏡の写真をとって、朝になったらそれを適当に発表するという始末でした。
 僕はいつかHさんに追いつきたいと思って勉強しました。もっと業務を早くやる勉強(雑用を機械的にこなすとか、自己管理手法とか)と専門性を高める手法です。前者はあまり身につきませんでしたが、それでも大学時代のまったりした感覚はすっかり抜けました。後者の専門性は3年目くらいでたぶんばっちりのレベルに達したと思いました。成熟産業で日本を代表するような大企業の研究成果が内部資料全部読めるんですから、当然です。はっきりいって自分や周りの人のしていることで新しいことなど何もないと思ってました。
 短期成果を求める会社の役員の講話にうんざりしてました。データを表にするだけの仕事をしていても研究者として成果あげているように見られる風潮もいやになっていました。
 Hさんに一度本当に誉められたことがあります。ある鉄鋼種の性質を金相組織の分率で示す方程式を立てて、既出の国内外文献のデータがその式に沿っていることを示したのです。僕は発見した喜びで(それがわかったって製鐵所はすぐにあまり儲かりませんが)2ページぽっきりのレポートを大急ぎでまとめ、Hさんの文書受ボックスに入れておきました。ばりばり仕事する人だったので「儲からない仕事」と一蹴されるかとも思ったのですが、あにはからんや「これはりっぱな成果だ」とべんちゃら抜きで本当に誉めてくれました。(これが最初で最後でしたが....。)Hさんの指導の元、その実験式が新米研究員の研修報告のネタになりました。製鐵所つきの研究員が基礎研究みたいなことをどうどうとやらせてもらえるようになり、僕の指向にマッチしてモチベーションが向上しました。
 その後、社内で大きな発表があったのですが、この発見をここまで誉めてくれたのはHさんだけでした。Hさんの肝いりなので、聞いてくれる人もいたかもしれませんが、多くの人はその分野の研究の類似の成果と差を見出せなかったのです。
 発見から半年ほどしてHさんの社宅に招かれたことがあります。そのとき、僕の発見と同じ分野のことを、若き日のHさんがやったレポート(古いので手書きの謄写版みたいなものを製本したものです。)を見せてくれました。詳細な実験を微に入り細に入りされていて、写真やグラフがあらゆる角度からまとめられていました。ものすごいボリュームでデータがみっちり取られていました。僕がその後やろうとしていた実験と同じ実験もすでにされていました。それをみせながらHさんは「この業界成熟しちゃってるから、本当に理解している人でないと新しいことは分からない。君の出した実験式の結論が15年前に社内報に載ってれば、僕のこのへんの実験はやる必要なかった。この式があれば××のような鋼種は製造不能なのでムダだと分かるし、逆に△△の鋼種は可能性があると研究の方向付けに大いに役立つ。データを並べただけと結論がついているのは大きく違う。」と一部のデータを指し示してくださいました。
 このときばかりはこの人に追いつくことは決して出来ないと思いました。まず、努力の量のすごさ、そして、人のこともしっかり認めてくれる度量。ある意味Hさんは本当のサイエンティストだったと思います。実験事実を求め、演繹を愛した人です。
 Hさんは別のところで、「上司に隠れてでもやりたい仕事ってもっておきなよ。」とアドバイスをくださいました。ひょっとしてあのデータはHさんがこつこつためていた「隠れてでもやりたかった」仕事の成果だったのかなと思いました。ばりばりと明日の糧を稼ぐ研究しながら、基礎研究データを積み上げていたのかもしれません。
 要は何がいいたいかというと、自分の信じる道は隠れてでもやるべきだということ。でも、興味の持てない目の前の仕事もこなさなきゃいけないのが普通。仕事は自分の好きなことだといいですが、好きになれないこともあるでしょう。自己実現ということに関して言えば人生ムダの連続って多いです。
 そしたら会社の仕事が面白くなるように事業開拓するでもよし、転職して自分が活かせるとこいくでもよし、企業に貢献すると思ったとき、隠れた仕事をバーンとだせばよろしい。始める前からだしちゃえばつぶれるが、個人で空き時間にやるのはだれにも迷惑かかんない。(こういう人が奨励される会社があるといいが...ないな。普通。)
 最初に僕の下についた若い人に「上司に隠れてでもやりたい仕事ってもっておきなよ。」といったことがあります。この体験の価値を分かってほしくて言ったのですが、まずホンキで与えられたことを(つまんなくても)やってみないとこの真言の意味はわかってもらえないでしょう。気長に待ちます。
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