アダルト・チルドレンの叫び  第18回  「外と家」とエゴグラム  「ばりばり仕事しているときの私と、彼の前にいるときの私は違うの よ」なんて言葉を聞いたことはないだろうか。別にこういうことを言う 女性はかげひなたがあるわけではない。  場による使い分けということである。かなり最近まで親は、私がこう いう使い分けができてないと思い込んでいた。しかし私はそれなりに使 い分けているのである。  なぜなら、その使い分けの定義というのが私には納得いかないのであ る。親にとっては使い分けというのは「外と家」なのである。要するに 外では黙っていなさい、家では何をしてもいいからというのである。  しかし「黙っていなさい」というのは要するに「目立つな」というこ となのである。無茶な話だ。目立つのが嫌いな性格ならともかく、そう でなければ苦しいだけだ。目立つのが好きで、リーダーに向いている性 格の人などはどうなるのだろう。そういう人は外の集団では自然に目立 ってリーダーを務めるほうが楽だし役に立つだろう。  しかも家では何をしてもいいとくる。外で目立たないぶん家で目立て と言うのか。それは外ではおとなしいが家では威張るという、いわゆる 「内弁慶」の押しつけである。そんなのは押しつけられるものではない。 私がそういう性格でないからといって何を悪く言う資格があるのだろう。 「内弁慶」でないからといってなぜ「場による使い分けができない」と 怒られなければならないのだろう。内弁慶でなくても場による使い分け をきちんとしている人はいくらでもいる。  それに加えて私の場合、家の男たちの「内弁慶」によって正直なとこ ろ迷惑ばかりしている。ただ内弁慶だけならいいが、それを利用してわ がまま放題されるのが一番困る。  内弁慶という性格上、威張りたいというのはまあいいとしよう。しか し一緒に暮らしていればいつでも威張れるわけではない。それがわから ず、威張れないからと私にあたるのはお門違い、わがままというもので ある。それと母親の態度も嫌になる。「家庭は小さな社会」と言いなが ら、男たちのわがままを怒らない。「家庭は小さな社会」と言うだけな ら別にいい。「家では何をしてもいいと言ったじゃないか」という反論 もありだが、私はそうは思わなかった。問題は男たちに同じことを言わ ないということである。要するに内弁慶の性格の人を必要以上に持ち上 げるために言っているだけなのである。これでは「人格差別」と言われ ても無理ないのではないだろうか。  そもそも「場による使い分け」を「外と家」の2種類に分けるのが単 純すぎる。心理学のエゴグラムという考え方は人格を大きく分けて3種 類、小さく分けると5種類になる。「親」「大人」「子ども」で3種類、 「親」は「批判的な親」「養育的な親」に「子ども」は「自由な子ども」 「順応した子ども」に分けられ5種類になる。「批判的な親」は支配し 罰する怖い存在としての親、「養育的な親」は愛情を注いで包み込む優 しい存在としての親。「自由な子ども」は天真爛漫でやんちゃな子ども、 「順応した子ども」は周囲の目を気にして怯える子ども。「大人」は理 性をもったきちんとした人間というところでしょうか。  どんな人もこの5種類の要素を持ち合わせているのです。もちろん人 によってある要素が強かったり弱かったりしますが。そして、場によっ てこの5つの要素を使い分けるというのがエゴグラムの考えなのです。  私にとってはこのエゴグラムの考えの方が「外と家」よりよほどわか りやすいというのが正直なところ。わかりやすいというより普段の私の 行動にあっているからかもしれないが。  だいたい私の場合、外だろうが場によっては甘えたり、威張ったりも してきた。そのほうが賢くないだろうか。  外でいかにおとなしくできるか、裏を返せば家でどれだけ発散できる かが大人の条件だというのはどう考えてもおかしい。さんざん発散して 家族が嫌な気分になっても無視を決め込むのはもっとおかしい。それは 大人のすることではないだろう。  それは大人の仮面をかぶることであって本当に大人になることではな い。発散ばかりしていたら家が感情のごみ箱になってしまう。それは誰 かが片付けなければならないのだ。それがわかることこそ、本当の大人 になるということではないだろうか。