アダルト・チルドレンの叫び  第6回  泣きたいときは泣かせて  札幌市営地下鉄南北線北24条駅のホームの広告にこんなのがある。 「泣きたいときは おもいっきり泣け 笑いたいときは おもいっきり 笑え おこりたいときは ちょっとひとこきゅう」  確かある道場の広告だったと思うが、さすがにうまいことを書いたも のである。思いっきり泣くことと思いっきり笑うことの癒しの効果はか なり大きい。それに比べ怒ることは同じ感情表現でもあまりよくない。 「怒り」とは違う。怒りは理性が入るからだ。ふと考えれば、この文章 も「怒り」の一種かもしれない。  そのはずなのに、私は幼いころから感情を抑えることばかり教えられ てきた。泣けば放っておかれることはまずない。いかにすれば泣かない かばかり考え、しばらく泣かせておけばやがて静まるという重要なこと は置き去りだった。「泣くことは恥ずかしい」と言うだけで、泣くこと のよい点は自分で経験してつかんでいかなければならなかった。それだ けならまだよいが、その自分で経験してつかんだ泣くことのよい点を否 定する。本音は自分だって泣きたいからうらやましいのだろう。それを 正直に表さずに嫉妬するのはひきょうである。  言いかえれば、私のストレスなどどこへやら状態だろうか。感情を抑 えることばかり考えていては、いつか爆発するのは当然である。まさか、 それは家で吐き出せばいいというのだろうか。それをやったら何倍にも して跳ね返すくせに。  だいたい、親のせいで精神障害を抱えたところで、親がその責任を取 れるわけではない。精神障害は抱えていたらいたでつらいし、治そうと すればいばらのようなつらい癒しの道を歩き通さなければならない。責 任は取れないのだから、せめてつらさを増すようなことはしないでほし い。だから、泣きたいときは泣かせてほしいのである。思い切り泣くこ との癒しの力を借りたいのである。それのどこが悪いというのか。近所 に聞こえるなどと言い訳をするが、だから泣くなというのはむちゃくち ゃである。私の心より近所の方が大事なのか。そうでなきゃ泣くなとは 言わない。泣くな泣くなとさんざん言ったあと、やっと「もっと静かに 泣いて」と言い出す始末である。言う順番が逆である。やはり、泣いて ほしくないのだろうとしか言いようがない。  「子供が泣くのに耐えられない」と言い、それが親心だと勘違いして いる人がいる。それはその親が泣くことを許されなかったからである (「アダルトチルドレン・マザー」(学陽書房)より)。ということは、 泣くことを許されないのは普通のことだと親は思っていたのだろう。け どそれは私にはきつすぎる。いままでも、普通はこうだからと親が教え たことが私にはきつかったという経験が何度もあった。そうすると、私 は普通だからやっていいものではないと反論するのである。しかし親は 普通以外の感覚を知らない。だからどうしていいかわからないというこ とになるのである。  おそらく、親はよほど狭い価値観の中で生きてきたのだろう。だから、 親が私のためにと選んだ学校も価値観の狭いところであった。そしてそ れに反発して、私が選んだ北大はとても価値観の広いところであった。 当然のなりゆきであろう。ただ価値観が広すぎて、昔の古傷が現れてく るという副作用はあったが(長い目で見れば、副作用どころかとてもよ いことなのだが)。  結局、何だかんだいっても私がいばらの道を歩き通し、傷を癒してい くしかないのである。その途中にはつらいことがたくさんあるだろう。 そういうとき、思いっきり泣いたり思いっきり笑ったりすることはとて も力になるのだが。もっとも、私は親が何と言おうと泣きたいときは泣 くし、笑いたいときは笑う。だから親が言おうが言うまいが同じような ものと感じるかもしれないが、精神的な疲れ方が違うのである。親がさ んざん言えばそれだけ精神的に疲れるのである。だから何だかんだと言 うのは治療の邪魔だということになるのだが、親は相変わらずそれがわ からないようである。