アダルト・チルドレンの叫び  第8回  「完璧であれ」の呪縛  できないと恥ずかしい。  私はこの言葉に憎しみを覚える。といっても、他の人が言うのを聞く のはかまわない。親のこの言葉が憎いのである。なかなかできない時に、 この言葉を使って私に呪縛をかけるのだから。  母親は「できないと恥ずかしい」と思ってすべてをやってきたのかも しれない。しかし、だからといって片っ端からできないことを見つけて 責め、恥ずかしさを押しつけることはないだろう。  そしてろくにほめもしない。完璧にできなきゃまずほめない。という より、ほめられたことがかすむほど責め続ける。ちょっとやらせた位で 器用にできないと「不得手」のレッテルをはり、「できないと恥ずかし い」と責め続ける。これが虐待でなくて何なのか。  しかも苦しみの種類はこれだけではない。ちょっとやらせて器用にで きると、そこ”だけ”をほめようとする。ほめられるんだからいいと思 ってはいけない。それを何かの拍子で失敗したときが悲劇である。親が 「そこしかいい所がない」などと言い続けるから、そのときのショック はものすごく大きい。ショックで発作を起こしてしまうほどである。  たとえば、前に書いた「家事がこわい」は前者の例である。ちょっと 器用にできなければ嫌みの嵐。ひどい時は親戚を呼んで笑い物にした (実話)。それに加え、ちょっと渋った顔をすればそのときの態度がひ どい。ぐちるだけならまだいい。その場から追い出すありさまである。 自分で嫌がらせをしておいて、家事に嫌なイメージを植えつけといて何 ということをする。そんなことがまったくなかったとしても家事は嫌々 ながらやるときがあるだろう。ましてや小さい頃から嫌がらせを受けて いれば、なおさら嫌だろう。  渋りながらもやるだけましとは思わないのだろうか。事実、渋りなが らやるだけでもすごい精神力を要求される。渋らずにやるとなればさら にすごい精神力を要求される。たいていそんな精神力は残っていない。 しかもそれは親によるストレスのせいだったりする。勝手なもんだ。 どうして、たかが家事でこんなに精神力を使うのか。言うまでもなく、 「完璧であれ」の呪縛による心の傷が大きすぎるからである。  後者の典型的な例は勉強だ。というよりそれしか例がない。  小さい頃から勉強はできた。ほかのよいところが見えない親は、そこ だけをほめ続けた。そのひずみは、やがて明らかになるのである。  高校2年のとき、担任にひどくいじめられてノイローゼを起こし、と ても勉強どころではなくなったことがある。そのとき母親は何と言った か。今でも忘れられないほど、ひどい言葉である。  「あんたが勉強できなきゃ、単なる変人じゃない」  明らかに、勉強以外いい所なんてないといういいぐさである。親なら いいところを見つけてあげるくらいのことをするべきなのに、ノイロー ゼに苦しむ娘に対して何て言葉をかけるのだろう。そんなひどい言葉を かけられる覚えなどない。  一番許せないのは、それが私の将来にまで影響を与えているというこ とに関してまったく無神経なことである。  数学科の専門課程は難しかった。それは私だけでなく、全員に共通す る意見であった。にもかかわらず、私は難しさに精神的にまいってしま った。何故か。「勉強以外いいところがない」つまり、「ここで通用し なければ人間としての価値がない」ということを、信じ込まされてきた からである。たとえ誰もにとっても難しくても、わからないということ は人間としての価値を疑われる。本気でそう思っていた。ああもう私は 最低の人間だ、などと考えつつ果てには発作を起こすのである。  はっきり言って、大学院進学を止められたのは、このせいだ。そのこ とを、親は全くわかっていない。ましてや、自分たちの責任など頭の片 隅にもない。あれだけひどいことをしてきたのに。しかも、家にいるよ りましだろうということで泣く泣く就職すれば、「いやあ、やっと勤め てくれたわ」などとのたまうありさまである。あげくの果てには、「好 きな仕事してお金もらって、うらやましいわ」とくる。  何をふざけているんだ。私は毎日発作と戦っているんだ。泣きそうに なるほどストレスたまるんだ。それもすべてあなたたちのせいなのに。 それでもこの悪い考えは絶対追い出せると、無理やり力を振り絞って戦 っているんだ。親は「気が強い」と非難するが、気が強くなかったらこ んなつらい状況は耐え切れないだろう。それが私の誇りである。