伊福部昭氏の生涯
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伊福部昭=日本の音楽神 |
伊福部昭について 誕生本籍は鳥取県。和銅元年(708年)以来、鳥取県の宇部神社の 音楽との出会い1923年、父親は警察を辞して、招かれて十勝原野の開拓地、 森林官時代札幌の北海道(帝国)大学在籍時の昭和10年(1935年)『日本狂詩曲』が日本人を対象に新設された音楽賞(審査員は欧州人)である『チェレプニン賞』の一位に入賞(注4)。同じく昭和10年北大を卒業し森林官史となって北海道の プロ作曲家へ終戦の昭和20年、病持ちの為、山歩きをする森林官に復帰することもできなくなって“食いつぶし(本人談)”、東宝で映画音楽の仕事をしていた同郷の作曲家・早坂文雄の誘いで、東京に出向いて東宝音楽部長の掛下慶吉に面会、「食えないなら映画音楽をやったらどう?」と誘われ、音楽で生計を立てる事を決意。昭和21年8月に、同じく早坂文雄のつてで栃木県日光の久次良(くじら)の山小屋へ移住。この頃、伊福部昭とも面識のある札幌出身の小説家森田たま(注7)の鎌倉の別荘で、戦前のドイツ系統の音楽教師が全て首にされた東京音楽学校(のちの東京藝術大学)で新たに校長になった文化人=小宮豊隆(この人もドイツ系統だが)が代わりの講師を探していると話したところ、森田たまは同郷の作曲家伊福部昭が日光に居ると推薦。欧州で伊福部昭の曲が演奏された際の聴衆であった小宮は「この人なら」と手紙で講師を依頼する。講師は引き受けたものの、イザ仕事に就くと日光から東京へは(金銭的に)とても通っていられないとわかり、翌22年3月、貧困者証明(注8)を受けて、東宝の撮影所に近い東京世田谷等々力へ間借り。同年、映画『銀領の果て』で初の映画音楽担当。翌23年奥沢町に転居。昭和25年、現在も伊福部邸のある尾山台に落ち着く 斯界からの迫害と順風その後は日本の復興と共に年々音楽関係者の境遇も改善され、学校との意見の対立で音楽学校講師を辞職(注9)したり、一部純音楽界からの批判や無視もあった(注10)が、映画・舞台作曲家(注11)、大学教授、民俗音楽研究所長と、暮らしの仕事には恵まれ、愛する家族と共に(平均的な日本の作曲家に比して金銭的には)まず順風な生活を送る 戦後の経歴としては、1946〜53東京音楽学校講師、1974〜76東京音楽大学教授、1976〜87同学長、引退後は同大学民俗音楽研究室長。その間、芥川也寸志、黛敏郎、池野成、松村禎三、石井真木、真鍋理一郎、奥村一、矢代秋雄、三木稔、小杉太一郎、山内正、永富正之、今井重幸、永瀬博彦、甲田潤、和田薫、石丸基司、をはじめとする多くの著名な作曲家を指導。数々の大作映画音楽を担当。日本の作曲家としては稀にも欧州で複数のレコードやCDも出されている。昭和55年(1980年)紫綬褒賞受賞。2006年永眠。 注1.「それまで部屋が50もあるような生活をしていたのが、体面が保てなくなっ た訳です、政治形態が変わったから・・・」1985年、宇宙船Vol.23。 「・・・そうしたなかで、地元での顔が保てなくなるんです」1997年、『 伊福部昭 音楽家の誕生』。どちらも本人インタビュー 注2.釧路には、明治維新で職を失った武士に対する政府の救済処置として、513 人の鳥取士族を皮切りに、移住した鳥取人が開拓した土地が幾つもあり、因幡 踊り・麒麟獅子舞といった鳥取の郷土芸能が行われたり、鳥取関連の地名&史 跡&施設が多数ある、北海道ではめずらしく元々西日本との関わりが深い土地 注3.「一番習ったのは所熊一郎という人ですけど、大分前に亡くなられました。」 1985年、宇宙船Vol.23の本人インタビュー 注4.この際の有名なエピソードとして、当時の東京の権威である作曲連盟で「これ は国辱的な作品だから、楽譜を送るのを止そう」と決まりかけていた所を、立 場の近い大木正夫(静岡生まれで、大阪高工(現阪大工学部)在学中に独学で 作曲を勉強)一人が「審査するのは東京じゃなくパリである」と力説し、既に 輸送費を払っていたこともあって、結局送られたという経緯がある。またパリ では審査員九人満場一致で一位に選ばれたという連絡を、東京の連盟側は信用 せず、もう一度現地パリ留学中の大阪出身のピアニスト宅孝二に確認させた 注5.中国で墜落した英国の偵察機モスキートが、電波探知されないように金属では なく硬化させた木材を糊で貼り合わせて作られていた事を受け、始められたプ ロジェクト。伊福部昭の担当は機体を振動させない方法の研究 注6.一部メディア等の記述とは異なり、本当の原因は不明。死に至る経過は 1 当時とても収入の良い軍の研究所に“自ら”転職 2 戦況悪化で仕事多忙 → 「疲れ」を口にする様になる 3 体調不良だが、公務なのでしかたなく出張 4 戻って数日後体調不良で欠勤 → その日は1日読書 5 夕食後突然倒れ1〜2分で死亡。医師の診断は心臓麻痺(狭心症) 元々体が弱く中学を1年休学した程なので、経過を見るに過労死かもしれない。 「要するに無理が生んだ悲劇でした。私も其れ以後睡眠も其の他一切の無理は 止め様と考へて居ます」(伊福部昭本人の母親への手紙) なお勲は当時、義兄の影響を受けて新興宗教に凝っていて、今で言う“自然食 療法”を行っていた為、それが急死原因の一端を担っていたかもしれない。 「然し病の如きものにあっては我々は科学に頭を下げなければならぬ様です。 ・・・中略・・・極端な医学排斥の信念主義はやはりだめです」(同) この時、こちらも体の丈夫でない長兄の宗夫も病気療養中である。 「吾が家系は病弱なりとも必ず長命なりという妙な自信(?)は根底からくつ がへりました」(同。(?)は元から付いている) 伊福部昭本人の文(手紙)引用はいずれも『伊福部昭 音楽家の誕生』より 伊福部昭氏の代表作『交響譚詩』の第2楽章は「兄への追悼の意と、わが身の 明日も知れぬ当時の心境の反映です」との事。CD『伊福部昭の芸術3』より 注7.戦前人気のあった作家。早坂文雄を雇えと東宝の社長に推薦したのも同氏 注8.当時の東京の臨時身元保証。東日本の戦災者や身寄りの無い復員兵と貧困者、 並びに密航不法入国の東アジア人が東京に集中し混乱を極めた為、仕事先の証 明書が無いと正規では東京に住めなかった 注9.講義の生徒数を40名に増やせという学校側に対し、現在(14名)より増や せば、マトモな授業は出来ないと対立 注10.「禍福は糾える縄の如し」ページ参照されたし 注11.手がけた映画作品の半数を占める時代劇(等)の殆どは京都で撮影したため その映画音楽も京都で作曲・録音し(そうしないと、映画スタッフと何の打ち 合わせも、フィルムに合わせる事も出来ない。1970年代辺りまでの邦画で は、そういう丁寧さが要求された)、その演奏の多くは大阪のミュージシャン が担当した 参考にした資料について『音楽入門』・・・伊福部昭氏の音楽に対する思想を知るためには必読 雑誌『宇宙船』・・・1980年創刊の特撮マニアの雑誌。現在まで編集者が3度 以上変わっており、その度にどんどんとマニア誌 → 広告 雑誌化していった。私は90年代半ばまでは、なんとか購読 したが・・・ 『伊福部昭 作曲家の誕生』・・・誕生〜戦後辺りまでを著者の視点で書いた本。 自分の意見と伊福部昭氏の言葉をゴチャ混ぜに 書いている(わざと?)ので、他の資料に当た らないと伊福部昭氏を誤解しそう。この著者が こだわるゴジラのテーマって確かチェレプニン の曲の・・・ 『伊福部昭の宇宙』・・・純音楽関係の評論家5人と伊福部昭ファンの作曲家2人 のそれぞれが伊福部昭とその音楽を分析批評する共著。 でも、本人インタビューが目玉かも 『伊福部昭綴る』・・・伊福部昭氏の主に一般向雑誌や新聞に掲載されたエッセイ を集めたもの。大正生まれの方なので文体が古い、本人の 言う本人の事でも誤りがある。が、マニアなら面白い? 各CD付属の本人コメント・・・本人による曲のコメントは有り難いこのページは、1024×768画面に合わせて作りました。ちゃんと見えなかったらスミマセン |