<2003.8.24.>
原爆資料館メモリアルホール

禎子の親族が明かす愛の物語


【出演者】
比治山小学校児童
東浄小学校児童 
高取北中学校生徒

佐々木禎子の親族
GOD BREATH 

PRECIOUS SUMMER 2003 "Like a little flower on the way-side"
PAGE in ENGLISH is HERE

オープニング

こんにちは。
佐々木禎子です。

小学生の発表
(広島市立比治山小学校)

楽しく遊ぶ子どもたち
〜かごめかごめ
〜だるまさんがころんだ
〜はないちもんめ
「ねえねえみんな。
めいちゃん,
おねえちゃんになるんだって!」

「えー! おねえちゃん?」
「赤ちゃんが生まれるの?」
「いいなぁ」
「男の子? 女の子?」
「私だったら,妹がいいな。 いっしょにお人形遊びができるもん。」
「ぼくだっらた,弟がいいな。 めいちゃんは,どっちがいい?」
「うーん,女の子がいいかな。 名前は,あかりちゃん!」
「どうして,その名前?」
「あのね,私は5月生まれなのでめい。 芽生えの季節。 命の始まりなの。
だから,あかりちゃんも元気で育ってほしいな。 そして,明るく楽しく過ごせるようにって思ったの。」

「大きくなったら何をやろうかな?」
「やりたいことっていっぱいあるよね?」
「いろんなことがしてみたいよね?」
「できたらいいな。 せっかく生まれてきたんだもん。」

 ♪ひとりじゃない

おっきな夢があるんだ ちっちゃなぼくたちだけど あの海の向こうまで 旅をしてみたいな
おっきな大きな船に いっぱい荷物をのせて 忘れちゃいけないよ あめ ガム チョコレート
海の向こうは 何があるのかな さがしに行こうよ 力を合わせて
君にもできるよ 心配いらないよ 
いつも どこでも だれでも そう ひとりじゃない

おっきな夢があるんだ ちっちゃなぼくたちだけど あの空の向こうまで 旅をしてみたいな
おっきな大きな雲で ふわふわ浮かびながら 疲れたらねむっちゃおう 雲でお昼寝
空の向こうは 何があるのかな さがしに行こうよ 力を合わせて
君にもできるよ 心配いらないよ 
いつも どこでも だれでも そう ひとりじゃない

困ったときには 助けてあげるから
いつも どこでも だれでも そう ひとりじゃない そばにいるよ
いつも どこでも だれでも そう ひとりじゃない ひとりじゃない

          (楽曲提供:ss-jun)

小学生の発表
(広島市立東浄小学校)

平和への思いを込めた詩を作りました。
平和って何だろう
それは,世界中の人たちが一人一人幸せになること
安心して暮らせること
そのために,私たちができることから始めたい
未来も,そのまた未来も,ずっと平和でいてほしい
世界の人たちが平和を祈ってともすキャンドルの灯り
世界中にとどけと
ヒロシマの街に灯りがともる未来に伝えようこの祈りを
それが僕たちの使命だからともそうよピースキャンドルを
やさしい心は誰にもあるのだからともし続けよう
心のキャンドルをピースフォーエバー
ピースフォーエバー
手をつないで輪になればきっと心が通じ合う
小さな争いけんかをなくしていくんだ今日からね
ここから始めるんだ第一歩それが僕たちにできること
ともそうよピースキャンドルをやさしい心は誰にもあるのだから
ともし続けよう心のキャンドルをピースフォーエバー
ピースフォーエバー
昔の人たちは僕らに何を伝えようとしたのだろう
自らの命と引きかえに平和の大切さを教えてくれた
伝えていくんだ命の重みそれが僕たちの使命だから
ともそうよピースキャンドルをやさしい心は誰にもあるのだから
ともし続けよう心のキャンドルをピースフォーエバー
ピースフォーエバー
未来に平和を伝えよう大空を飛ぶ鳩のように
永遠に平和を伝えたい
ピースフォーエバー
ピースフォーエバー

中学生の発表
(広島市立高取北中学校)

私は14歳。
この国で,何不自由もない生活を送り毎日を過ごしている。
平和と思えるような毎日を…

「しかし,今,本当に世の中は平和なのだろうか?」
多くの争いが起こっている。何の罪もない人々や動物たちのたくさんの命が失われた。
平和がいい。 平和がいいに決まっている。
私たち中学生に何ができるのだろうか?
中学生の抱える問題も新聞やテレビなどのマスコミを通して毎日のように報じられている。
殺人, 自殺, いじめ, 私たちのまわりにも暴力がある。
すべての暴力は,相手を傷つけてしまう。 かけがえのない命を奪うこともある。
許すことは絶対にできない。
私たちは,この身のまわりの暴力をなくすこと,憎むことからスタートさせていかなければならない。

「路に咲く花のように強く咲きたい」
「すべてを照らす太陽の日差しを体に浴びて」
「路に咲く花のように強く咲きたい」
「春夏秋冬耐えて」
「ひとりひとりが花でありたい」

禎子の兄 
佐々木雅弘さんの話

Sadako's Brother
Told About Sadako

1945年8月6日午前8時15分,広島。
2歳のサダコは,私とお母さんとおばあちゃんといっしょに朝ご飯を食べていました。
「ピカッ」とした瞬間,私たちは吹き飛ばされ,爆風で家の壁が崩れ落ち,土煙で何も見えなくなりました。

サダコは大声で泣いていましたが,ケガはしていませんでした。
私は頭にガラスが刺さり,おばあちゃんの手には箸が突き刺さっていましたが,みんな生きていました。

私たちは,壊れた家の下敷きになり,助けを求める人々から視線をそらしながら,必死で逃げました。
助けてあげたくても,何もしてあげることができなかったのです。
町は燃えさかり,火の海となり,死体と死臭にあふれ,自分が生きていることを呪いたくなるほどでした。

私たちは小さな船に乗って逃げました。
その時,突然黒い雨が降ってきました。
この黒い雨は,体に放射能を染みこます恐ろしい雨だったのです。


原爆から10年。
元気だったサダコに異変がおこりました。
ひどい発熱と関節の痛みのため,サダコはお父さんに背負われて病院へ行きました。

病院の先生は言いました。
「はやくて3か月,長くて1年の命でしょう。」
原爆が原因の白血病でした。


サダコは入院することになりました。
学校の運動場で,野村先生や友だちに手を振りました。
「もしかして,私は原爆病なの?」
「私はどうなってしまうの?」
みんなと会えるのは,今日で最後かもしれないのです。

卒業式の日は,お父さんが卒業証書を受け取りました。
「お父ちゃん,自分でもらいに行けなくてごめんね。」


お父さんは,病院にお金を払うため一生懸命に働きました。
仕事は床屋です。
4人の子どもにご飯を食べさせないといけません。
一人散髪してもらうお金が140円。
週2回の輸血代が,1回800円。
痛み止めの薬(コーチゾン)は,1回2200円。

たとえ治らない病気でも,自分の命と引き換えにしても,痛みを和らげてやりたいと思いました。
今日は,大切な腕時計を質に入れました。
それを知っていたのか,サダコは決して自分から「痛い」とか「注射して」とか言いませんでした。
サダコは,腕時計のなくなったお父さんの手を見て悲しそうにしていたといいます。
そして,とうとう,家も売ることになりました。
サダコは「私が入院したから引っ越すんでしょう?」と涙を流しました。


それでもサダコは,自分が治ることを信じて病気と闘いました。
確実に衰えていく体力の中でも,キラキラした目をしていました。
それは,生きたいという強い気持ちの表れだったのでしょう。

サダコは,友だちから「鶴を千羽折ると病気が治る」という折り鶴の話を聞きました。
サダコは,1羽1羽願いを込めて折り続けました。
しかし,千羽折っても,病気は治りません。

それでもサダコは鶴を折ることをやめませんでした。
サダコは思いました。
「どんなに痛くても,私は痛いと言わない!」
「だって,お父さんやお母さんが心配するから」
「鶴をもう千羽折ったら今度は絶対によくなるから」
「せっかく折った鶴が悲しむから」
「鶴をもう千羽折ったら家に帰れるんだもの」
「だから私はあきらめない」


そんなサダコでしたが,お母さんが初めて病院で寝た日の朝,
家に帰るお母さんを見送るサダコは「待ってるからね」と初めて涙を流しました。
お母さんはサダコに駆け寄り「サダコが涙を流すから帰れないじゃないの」と言いながら抱きしめました。
サダコの涙は,それが最初で最後でした。


ついに,サダコの命が尽きる日がやってきました。
サダコは「お母さん泣かないで」と,最後の声で言いました。
お父さんのもってきたお茶漬けを一口食べて「おいしい」といいました。
2口目を食べて「お父さん,お母さんありがとう」とつぶやきました。
病室のみんなを見つめた後,サダコはゆっくりと目を閉じました。
その目は,2度と開きませんでした。

お母さんは思いました。
「一度も中学校へ行かせてやれなくてごめんね」
「たくさん痛い思いをさせてごめんね」
「もう楽になっていいよ」

お父さんは思いました。
「帰ろう,私たちの家に」

サダコが亡くなって,学校の友達が千羽鶴の像を作りました。
サダコは,戦争の悲惨さを人々に知らせるために,原爆のむごさを人々に知らせるために,
神様に命を捧げたのだと思います。


私は訴えます。
「争いはやめてください」
「サダコの悲しみを広げないように」
「千羽の鶴は時を越えてこの世界に伝えます」
「これ以上の争いはやめてください」
「悲しい思いは誰もしたくないから

被爆体験談 橋本栄一さんの話

  ※抜粋したものです

原爆の日まで広島の町はほとんど無傷でした。
8時15分,私は友だちと千田町の学校で先生を待っていました。
突然,ものすごい光とともにからだが持ち上げられ,そして床にたたきつけられました。
天井が落ちてきて,私は建物の下敷きになりました。
やっとのことでがれきを払いのけて運動場に出てみると,あたりは暗くて,空には大きな雲が上がっていました。

なんとか宇品まで逃げた私たちは,軍隊の上陸用舟艇で似島に渡りました。
そこには,大きな病院がありました。
長い長い行列に並んで軍医さんの診察を受け,私は刺さったガラスをぬいてもらいました。

3日間そこにいましたが,その間に何人もの人が苦しみながら死んでいきました。
このままでは私も死んでしまうと思い,似島から離れることにしました。
そこで「広島に帰らせてください」とお願いしたら,私は死んだことになっていました。

山口の親戚の家に向かう途中,学校に寄りました。
そしたら,学校でも私は死んだことになっていました。

電車はまだ走っていなかったので,歩いて己斐(今の西広島)駅に向かいました。
町はすべて焼けただれていました。
途中,赤ちゃんをしっかり抱きしめたお母さんが真っ黒焦げで道ばたで死んでいました。
それも,特別なことではありませんでした。

ようやく山口に逃げ帰ると,そこでも私は死んだことになっていました。
私は,3度死んだことになっていたのです。

「ノーモア広島」
「核兵器を使ってはいけない」
原爆の恐ろしさを知っている,私たち広島の人間が,他の人にそのことを知らせないといけないと思います。

GOD BREATH の演奏

♪ SADAKO

♪ INORI

♪ 路に咲く花のように

♪ たいせつな夏

 「路に咲く花のように」

部屋の片隅でつかれきったまま 今日も何もすくえず
せつなさが指の間をすり抜けてゆく この手を見つめて
何もない手のひらじゃ力はないけど 
それを振れば明日に立ち向かうことができる
誰も気づかないことでも どんな小さなことでも 
できることから始めれば 一つ一つ見えてくるはずさ
路に咲く花のように 強く咲きたい
すべてを照らす太陽の日差しをからだに浴びて
路に咲く花のように 強く咲きたい
春夏秋冬耐えて 一人一人が花でありたい


みんなで歌おう
「たいせつな夏」

 「たいせつな夏」

過ぎていく日々の中で 僕らは何も考えず
あたりまえのように 生きていませんか
時計の針は戻せないと わかっているのに
僕らは目をそらして 何もかわらないまま
生きる道を閉ざされても あきらめなかった
あの子を思えばもっと 生きることに向き合える
あのたいせつな夏を けして忘れない
今僕たちに足りないものを 気づかせてくれたから
あのたいせつな夏に あふれた涙を
ぬぐえる未来つくろう 一人一人のその手で

宇宙の広さにくらべて 僕らの存在なんか
本当にちっぽけかも しれないけれど
夜空の星たちのように キラキラ光り輝いて
小さな命だけど 燃やしつくそうよ
必死に生きていれば 疲れたりもする
そんな時は立ち止まって でも決して後ろを見ないで
あのたいせつな夏が 教えてくれたね
素直に愛を信じて 与えつづけて生きることを
あのたいせつな夏を 抱きしめていこう
僕らの中にあるから 生きる勇気をくれたから

あのたいせつな夏を けして忘れない
今僕たちに足りないものを 気づかせてくれたから
あのたいせつな夏が 教えてくれたね
素直に愛を感じて 与えつづけて生きることを
あのたいせつな夏を 抱きしめていこう
僕らの中にあるから 生きる勇気をくれたから
会が終わった後,みんなで「サダコ像」に折り鶴を届けました。



路に咲く花のように強く咲きたい
たいせつな夏,けして忘れない


2002.8.18.

copyright@ June TAHARA