私説ヤマト論 その3

−新たなる旅立ち−



え〜、この作品の批評を書くに当たって、その前に一言。
西×の×××。××、××。よくもスターシャを殺したな。
この野郎。人を殺すしか能がないのか。××××、××××。
××××、××××××。
(編集注:これをインターネットで公開するに当たり、あまりに品位を下げる言葉ですので、伏せ字とさせて頂きました。)

し・・しかし、「さらば」、この作品、パート3を含めて重要人物が何人死んだのだろうか。×崎は人を殺すことによってしか観衆の感動を得られないと思っているのだろうか。映画999を見習え。ばかたれ。
さて、本題に入るけど、まあこの映画は「永遠に」のためのイントロだから下らないのはあたりまえだろうが、一番腹が立ったのはスターシャの思想を誤解したのか、わざと変えたのか、とにかく大幅に変えられたことだ。パート1でスターシャがイスカンダルに残ったのはなぜなのかが、完全に変っとる。この映画では、まるで故郷を離れるのが恐い子がただをこねているみたいではないか。それにスターシャが死なねばならない理由がどこにあるんだ。ゴルバを倒すためにイスカンダルを破壊しなければならないのなら、べつにリモコンか時限性の起爆でこと足りるではないか。
おまけにスターシャの幽霊か何かわからんのまで出してきて、ほんまにアホか。ばかたれ。
それに守のあの軟弱さは何だ。フニャフニャして「スターシャ」「スターシャ」とわめくだけではないか。パート1での、あの信念を貫く強い意志を持った漢らしい守と同一人物とは思えんではないか。顔さえ同じだったらいいんではないのだぞ。ばかたれ。
特にスターシャの変貌がひどい。さっき述べた思想の変化の他、性格、言葉遣いなどの内面にとどまらず、顔、そしてダメ押しに声まで変わってしまった。あの岡迫さんの丸い、優しい線の色トレスのスターシャが、ギスギスでおまけにトレスも黒でやっている。
声は優しい中にも芯のある平井さんが、・・・の上田さんになってしまった(べつに上田さんをけなすわけではないが、あの人にはスターシャはできないと思う)。なんで平井さんはやってくれないのだ。NHK大河ドラマ、エマニエル夫人、はては金曜スペシャルなんかに出る暇があったら、ヤマトをやってくれ〜。
しかし考えてみると、声も違い、顔も違い、性格も違うといえば、つまりは全くの別人ではないか。ここで結論。この「新たなる旅立ち」は、ヤマトの新たなる旅立ちではなく、全く別のドラマの旅立ちなのであって、守とスターシャはまだイスカンダルで幸せに暮らしているのだ。
・・・これで少しは落ち着いたぞ。
第一、「さらば」で全部殺しといて、又始めるということ自体、おかしいのだ。ばかたれ。
そろそろ内容に目を向けたいが、何を書こう。実に内容のない作品なのだ。第一設定にも無理がある。イスカンダルの暴走を追う、ヤマト、ガミラス、暗黒星団、という形で進行しているが、まず、火山の爆発で星が加速するか、ボケ。火山煙は大気圏で巡回するだけじゃ。そして、仮に引力圏を抜け出す猛烈なエネルギーの火山があったとしても、火山弾はタージオンなのだから、星が光速まで加速してワープする訳がないのだ。
そして、ヤマトやガミラスとゴルバを戦わせる理由として、守とスターシャの命を使ったりするから、スターシャの性格を変えざるを得なくなってしまったのだ。
とにかく、この映画はヤマト最大の駄作である(TVパート2は問題外なので批評すらしなかったが・・)。その理由は、ヤマトをよく知らないプロデューサが作ったこと。それとウケることを目的として作ったことである。ウケる目的で作った作品でろくなものはない。ミーハー向けの表面だけの薄っぺらなものになってしまっている。何故かというと、へんな制約があり、スタッフが楽しみながら自由に作品を作ることができないからだ。スタッフが楽しみながら作った作品は、僕等が見ていても楽しい。コナンしかり、タイムボカンシリーズしかり、そしてあのヤマトパート1もそうであった。
話がそれてしまったので、戻そう。この映画にテーマはあったのだろうか。少なくとも僕には全然わからなかった。この映画がこういうことを訴えているんだとわかった人は教えてください。なんともはやいい難い作品です。これではスタッフも情熱をかけて作るはずありません。「さらば」の後のヤマトはみんなそうです。我々ヤマトファンはなんとかしなければなりません。これについては、この号の波動近況レポートに載せました。見てください。しかし、ヤマトがこんなになるのなら、パート1でハーロックがボツにされててよかった。どんな目にあわされてたかわからないのだ。それにしてもスターシャがあまりにかわいそーだよ〜。・・失礼。
えーいろいろゴタクを並べましたが、最後にもう一発。○○ざ○○し○ぶのぼけなす。

次回は「永遠に」です