大スターシャ特集

       


さて、個人的趣味で、この特集は極めてまじめに組みました。
今この特集を読んでいる人は、椅子に座り、姿勢を正して読んで下さい。
ところで、古代、雪などのヤマト登場人物は多かれ少なかれ同人誌等でコケにされます。沖田さんでさえ、けなされることはないまでも、ファンに遊ばれるネタにはなっています。しかし、スターシャをギャグのネタに使うところは滅多にありません。古代のように男性ファンにけなされることも、雪のように女性ファンに嫌われることもありません。それはひとえに、地球に救いの手を差しのべるという役割に依存するものでしょうか。ただそれだけではないように思われます。そこで、スターシャが他の全てのキャラクターとどこが違うかを見てゆきます。
まず、一番大きな差というのは、登場する前にキャラクターのイメージができあがってしまっていたことでしょう。これは他のどんな登場人物にも見られないことです。第23話まで、声とあの松本零士先生の絵だけだったのですが、視聴者にはすでにスターシャの姿、人間性がイメージとして伝わっていました。ここで、スターシャの幻のように星にとけ込むイメージを作り出すためのあの松本先生の絵が、動画をつくる段階で裏目にでたのです。あの絵はセルでは描けないスターシャのイメージを作ることには成功したのですが、動かす必要が生じたとき、つまりセルに描かなければならなくなったとき、よけいに難しさを増す結果になったのです。そこで考え抜かれた末、TVアニメとしては唯一のオール色トレスのキャラクターとして登場したのです。そしてスターシャが始めて動いた23話では、松本先生自らスターシャの動画を描き、我々のイメージと寸分違わないスターシャが動いたのでした。また、その後の25話も、パート1総作画監督の岡迫宣弘さんが担当し、多数の美しいスターシャを描いてくれました。
ここで、この2人のスターシャを見比べるとかなりの違いがあります。松本先生のスターシャが割とキツい感じがあるのに対して、岡迫さんは独特の丸い線で、寂しげな憂いを含んだスターシャを描いていました。しかし、それはそれで、たまたま松本先生はデスラーとの会話、岡迫さんは守と分かれて一人イスカンダルに残るというようなシーンだったので、かえって良かったように思われます。 さて、スターシャの外見はここらで置いて、次に内面を見ていこうと思います。彼女は一言で言うと、「鉛の玉を真綿でくるんだ様な人」という古い表現がぴったりではないでしょうか。一見、はかなく可憐に見えるのだけれども、いざというとき芯の強さを見せるといった意味です。スターシャは地球に救いの手を差し伸べるといった愛を持つ大きな女性であり、又、守との別れでとうとう耐えきれず涙を見せたものの、それでもやはり一人イスカンダルに残る決意を変えない強い女性なのです。
ここで、「私説ヤマト論」でも少し触れましたが、なぜスターシャはイスカンダルに残ろうとしたのでしょうか。あの時、もし守が残らなければ、一生話し合う相手も無く、ただ一人で死の世界にいるはめになるのです。しかし、あえてその道を選んだスターシャは強いという他ありませんが、何がスターシャにその道を選ばせたのでしょうか。「新たなる」のスターシャは意味もなくただ残るという感じでしたが、パート1のスターシャにははっきりした信念があったように思われます。 その考えは僕もうまく言葉では表現できませんが、例えて言えば、スターシャにとってのイスカンダル星は、敬虔なキリシタンにとってのキリスト教のようなものだと言えると思うのです。又それはイスカンダルの女王しての責任感がそうさせているのでしょう。ですから、彼女は自分自身の苦難によってこの星を見放すことは決してないでしょうが、「新たなる」のような状況、すなわち、スターシャがイスカンダルに残っているが為に他人が死んでいくということになった場合、彼女はためらわず、遠藤周作の「沈黙」の主人公のなんとか神父(名前忘れた)がキリスト教を捨てたように、イスカンダルを離れるでしょう。又、その際彼女は「新たなる」のようにムダ死にをするわけないのです。
いろいろ書いては来ましたが、ヤマト全体を含めて、スターシャがこれ程までにすばらしいのは、やはりパート1時代の熱意のあったスタッフのおかげなのです。スターシャを生かすため、多くの苦労があったそうです。わざわざ色トレスをしたり、それから松本先生のあの絵も、撮影中に顔のまん中に黒インクをスタッフの一人が落として大騒ぎになり、松本先生が修正されたとか・・。 しかし、もうあの西○の下では二度とスタッフの熱意は戻らないでしょう。ともかく、このスターシャ特集を終わるにあたり、素晴らしいキャラを生み出してくれた方々、特に松本先生と岡迫宣弘さんにお礼申し上げます。