「僕が海モモを見ない訳」

元々この文章は、「赤ちゃんモモの夢についての解説記事」の付録として書いたのですが、結構長くなったので、独立して表示するようにしました。


 僕は海モモを見ていません。正確に言うと、2つの話しだけしか見ていません。実は海モモが始まると知ったときは狂喜したのです。「またモモに会える」と考えるだけで、うれしくてうれしくてしょうがなかったのです。皆さんにも大好きな作品があるなら理解してもらえると思いますが、好きな作品だからこそ当然全話見てしまいます。放映が終わって、あるいは再放送とかによって全部見てしまうと、もう新しい話しを見ることができなくなってしまうのです。大好きな作品を「これからどうなるのかな」とわくわくしながら見る楽しみがなくなるのです。そういった意味で海モモ開始のニュースはとてもうれしいものでした。
 しかも、タイトルは「魔法のプリンセスミンキーモモ」そのままという情報が入ってきたのです。特にこれを知ったときは最高に期待をしました。普通リメイクをするときは、旧タイトルの頭になんかつけるとか、後ろにサブタイトルをつけるとかして、旧作と区別するのですが、それをしないということは、前作を忠実に踏襲するとしか考えられないからです。さらに、アニメ雑誌でスタッフに首藤、湯山の名前を見つけた僕は、続編の素晴らしさを信じて疑いませんでした。実はヤマトファンでもあった僕は、宇宙戦艦ヤマト続編のあまりの出来の悪さに辟易していたため、このモモの続編には、よりいっそう期待したのでした。
 期待に期待を重ねて見た第1話「ハローミンキーモモ」。僕はとてもショックを受けたのです。違う・・モモじゃない。顔も違うし、声も違う。お供も違えばパパとママも違う。僕はこの状況で、反射的にヤマトのスターシャを思い出しました。僕はスターシャを崇拝しているのですが、「宇宙戦艦ヤマト新たなる旅立ち」でスターシャのイメージが完全に歪曲されており、怒り狂ったことがあるのです。そう、そのときのスターシャも声も違うし、顔も違う。挙げ句の果てに性格まで違っていたのです。モモもこれと同じだと思ったのです。僕にとって特別に思い入れがあり、実在の人物と等価なキャラクターはモモとスターシャだけなのですが、どうしてその2人が2人ともこうなってしまうのでしょう。僕はなんて不幸なのでしょうか。
 とにかく、僕はこれ以上、僕の中のモモのイメージを壊されたくなかったので、翌週からは見なくなりました。やはり、僕にとってとても大切なミンキーモモは、前作だけに住んでいるのです。しかし、だいぶ後になって、海モモに空モモが出てきたことを聞いたときは、「しまった」と思いました。そもそも、別人だったということなのです。別人なら別人で割り切ればいいし、しかも、作品の中であの空モモ(本当は僕にとってモモは一人なのでこの表現は好きではないのですが、区別するためにやむをえず使います。)に会えるということなのです。幸い、ケーブルテレビで海モモの放送をしていました。詳しい人が、中間部の「モモとモモ」という話しに空モモが出てくることを教えてくれたので、その話しを見ることにしたのです。話しの中間部まではドキドキしながら見ていました。ペットショップが出てきたのを見て懐かしさのあまりジーンとしてしまいました。モモがロンドンに引っ越ししたというところなどは「それからのモモ」をちゃんと引き継いでおり、うれしくなりました。そして、ロンドンで唐突にモモが現れました。モモ!やっとモモに再開できたのです。
 少し作画は違いましたが、声は紛れもなくあのモモです。性格もさらに若干軽くなったような気がしますが、成長過程が違うので、こんなものかもしれません。とにかくやっとモモに再開できたのです。思わず胸が熱くなり、涙がでてきました。繰り返し繰り返しビデオを見て、あらゆる挙動を覚えてしまい、全て記憶の通りにしか動いてくれないビデオ上のモモではないのです。僕にとって予想できない反応を見せてくれる、生きているモモなのです。「夢のなかの輪舞」以来、十数年ぶりにこんなモモに会うことができたのです。再びモモに会えることで、ここまで幸せな気持ちになれるとは思っていませんでした。しばらく見ないうちに、よく、よくぞここまで大きくなって・・。いい子に育ったね、家のお手伝いもちゃんとしているんだね・・。モモが愛しくてたまらなくなり、画面が涙で見えなくなってしまいました。
 しかし、そんな僕の幸せな気持ちも長くは続きませんでした。モモの足元にボールが転がってきたのです。その状況が前作46話にあまりにも似ていたため、僕ははっとなり、思わず大声で「やめてくれよ!」と叫んでしまいました。一緒にテレビを見ていた僕の子供達は驚いて僕の方を振り返り、僕の顔見て凍り付いていました。僕が相当恐い顔をしていたのかもしれません。でも、僕にとってはそんなことはうわの空でした。おもちゃの車に乗った子供と聞き慣れたセリフのやりとりがあり、直後に再びモモとトラックの影が重なったのです。僕の体はブルブルと震えていました。しかし、あまりに無意味な状況の設定に不自然さを感じてもいました。物語の展開上、ここでこんなことが起こっても意味がないからです。感情の嵐が吹き荒れる心の中を必死に押さえて続きを見ていると、案の定、ひょっこりとモモが起きあがりました。安堵とともに、何でモモをこんな目に遭わせたのか、新たな怒りがこみあげてきました。そして、続くモモのセリフが僕の怒りを爆発させました。モモは「子供の頃からよくこんな目にあって、おかげで避けるのが上手になっちゃった。」(一度しか見ていないので、セリフは正確ではないと思います)と言ったのです。
 なんということでしょう。モモは今までに何度もこんな目に遭ったというのです。僕は猛烈に腹が立ちました。おい、首藤!ふざけるな。何のつもりだ。空モモ46話の事故はやむをえない。モモが自分の夢を持つためには避けて通れない選択だった。しかし、この話しでモモを危ない目に遭わすことに何の意味があるんだ。しかも何度もこんな目に遭わせただと?・・・済みません。つい、感情的になってしまいました。しかし、僕にはどうしてもこれが許せないのです。前作でモモは生まれ変わり、さらに悪夢の干渉にも打ち勝っているのです。もうモモは普通に暮らしているのです。たしかに普通の人間になったとはいえ、モモは特別な存在です。モモか夢を叶えることにより、フェナリナーサが降りてくるからです。それをよしとしない存在がモモを消そうと狙っている可能性はあります。しかし、ここは海モモの話しなのです。そこまで空モモが中心となる複線が用意されているとは考えられません。そこまですると、海モモの主人公としての立場がなくなるからです。単に前作のパロディでモモを危険な目に会わせているのであれば、こんな理不尽はけっして許せません。
 だから、僕はそれから海モモは見ていません。見たくないのです。巷の評価を聞くと、確かに海モモもすばらしい作品かもしれません。でも空モモをこういう扱い方をした作品は僕は見たくないのです。海モモ終演部で再び空モモがでてくるのは聞いています。モモに会いたいのはやまやまですが、モモの為にも僕には見ることができないのです。もしこの終演部で、モモが危ない目に遭う理由が明らかにされているのであれば、教えて下さい。