【言葉のネットワーク】
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  • File 22【言葉のネットワーク】( for internet )

    この地球上において、 私たち人間同士の伝達には『言葉』が主な手段になっています。 「言葉」はサイン(記号)とシグナル(合図)を複雑に組み合わせて完成されたものだと言われています。人間の歴史は言葉の歴史でもあり、言葉という伝達方法が存在しなければコミニュケーション(情報交換)は成り立ちません。人間がものを考える「思考能力」というのは「言葉」を媒体として物事を自分の意識の中で整理して、そこから新しいものを生み出して行くという事なのだそうです。(参考−南 博著「初歩・心理学」光文社)

    インターネット を含むネットワークが広がることを経験する様になって感じる事は、時間の制約や距離を意識する事無く(勿論実際には人それぞれ受け取り方は違うでしょうが)、様々な人の専門的な考えや情報、また人それぞれの人間の個性に触れる事が容易に出来、自己の知的欲求が満たされるという事です。そして、それは自分自身を見つめる「自己確認」が出来るという事にもつながります。

    ネットワーク上で 自らの考えや意見、情報などを発信する事で、より一層それらが明確になって来ます。そして何らかの形でレスポンス(反応)が有ると同時に、自分の考えや存在が認められて来ると、人脈までもが広がって行く可能性が多分にある事が、インターネット最大のメリットであると言えるのではないでしょうか。ネットワークとは単に情報だけはなく、人を結びつける可能性が広がる素晴らしいシステムだと思います。より人間的に表現するならば「縁を繋ぐもの」という事になるでしょうか。

    縁が繋がった場合には電子メールでしょうが、ネットワークが広がる段階では、様々なホームページやフォーラム、掲示板・BBSなど。様々なシステムの色々なカテゴリーに分かれた専門的な情報交換の場はとても魅力です。そして「ふれあい」を重視する自由でフレンドリーな「チャット」や、自由に討論出来る掲示板などのスペースは、読むだけでも楽しく、知識欲を満足させてくれるものです。

    そして、それらに参加する事は、自分の考えや情報を単に提供するというだけでなく、それが正しいのか、もっと他の考え方や情報が有るのかを確認出来ますし、そうであれば多数の人達に享受出来、同時に自己の確認も出来るのでとても有意義な事だと思います。これが読む(閲覧する)だけよりも、参加する(発信する)方が見返り(メリット)が大きいと感じる点です。

    ただし それにはいくつかのリスクも負わなければならない事もあります。それは自分の発信したメッセージや情報に対してのレスポンス(評価)が、有るか無いか。レスポンスがあっても、必ずしも自分が納得の行くモノばかりでは無いということです。専門的な場所ならばもちろん間違った情報の修正や批評は当然なのですが、コミニュケーション(ふれあい)をメインとする場所においてでも、はじめは自分の発言を書き込むだけでも、相当大きな勇気が必要です。

    インターネット がが双方に開かれたメディアといっても、やはり見知らぬ人達の輪の中へ入っていくという事は、普通の人でしたなら実生活においてでも気後れする事でしょうし、システムの管理者が存在しないinternetなど、実体の見えない社会では、なおさら抵抗があっても当然の事です。

    それだけの勇気や労力が必要なだけに、そこで自分の考え方やスタンスまでが批評(批判ではありません)された時に、文字を主にして伝達する電子社会では、実際に相手と話しているという状況以上に精神的にダメージを受けやすく、時には感情的にもなってしまうものです。俗に「引っ込みが付かなくなる」という様な状況に陥りやすく、実生活ではそんなに気にしない様な事でも、基本的に言葉(文字)だけで伝達するインターネットでは、人によって言葉の使い方や受け取り方が様々なので注意も必要です。

    一度発信したメッセージ は一度読まれてしまうと後で「シマッタ」と気が付いて修正や削除したとしても、受信者の印象までは取り消す事が出来ません。私も後から読み返してみては「書き方を変えれば良かったかな」という電子メールや掲示板はいくつも有りますし、相手や読み手が傷つかなかったか心配になったりもします(それ以上に自分自身の人物評価が気になったりもしますが)。

    「心配」とは文字どうり心を配る事です。でもこれが一番大事なのですね。失敗を繰り返さない様に努力する事は、自分自身の向上に繋がるからです。しかし過剰に協調性を保とうとすると、逆になかなか自分自身の意見が発信出来なかったりするのも事実です。これは「仲間外れになりたくない」「笑い者になりたくない」という社会的意識が働く為で、「私は自分自身の意見をしっかり持っている」と思っている人でさえ、周りの多数派意見やテレビ・雑誌から得た「世論」などに無意識の内に考えが左右されているものなのです。

    また、後悔する様なメッセージ を何故発信してしまったかを私自身のケースで分析してみると、必ずと言って良いほど思ったままストレートにオンライン上でリアルタイムに書いたり、読み返す時間が無かったり(発言の時期やタイミングというのも有りますから焦って書き込みをした場合などに多いですね)、自分の実生活でストレスが原因していたり、深夜で頭の回転が鈍かったりハイになっていたりして、一つの事(一つの言葉や単語だけに反応してしまう)しか考える事が出来なかったりする時です。

    ネチケットと言われているネットワーカー用の言葉がありますが、ネットも現実の社会も変わりません。ただテキストだけがコミュニケーション・ツールということが、独自の世界感を持ち、実生活とはかけ離れた「特殊性」というものを感じさせるだけなのです。まだまだ匿名性の高いインターネットには、多くの人が意識の下で電子社会の特殊性を感じているのではないのでしょうか。そういう背景からネット内では言葉(単語)だけが一人歩きしやすいので、普段の実生活以上に「心配り」をしなければなりません。

    実際にネットでは 主に「文章」を使ってその大部分を伝え、自己を表現します。そしてその文章というものは、無意識のうちに「不特定多数の人に見せる為の文章」を書いているものです。それが「他人に読まれる日記」の様なものでは無く、自分宛の本当の日記、自分以外誰にも読まれる可能性が無いという場合の文章であったとしても、結局は誰かの目に触れた時のことを無意識に想定して(中には読んでもらうことを期待して)書いているものなのです。

    そして「文章」を書くときには、誰でも自分を「肯定的」に受け止めて貰える様に書くのが、あたりまえな訳です。ネットワーク上では、自らが書いた文章・画像・データの他に「人を判断する材料」は無いわけですから、当たり前の事として自分自身の一番良いところ(好きなところ)、また自信を持ってアピール出来る事や、みんなに解って貰いたい事だけを表に出して(文章として)他の人に伝える事が出来るものです。また逆に匿名性の高いスペースならば、本当の自分や正反対に脚色した自分も演出出来たりします。

    読む(閲覧する)方もそれだけを受け取ることが出来る(言い換えれば公開された情報しか受け取ることが出来ない)のですが、あまり深く考えすぎて「稚拙な表現をしてしまったので馬鹿だと思われはしないだろうか」などと自己嫌悪に陥ったり、自分に対する相手の評価を気にしすぎるのは良くありません。また、読む場合には何事も良い方へ解釈する様に心がるべきでしょう。

    インターネット以外の コミュニケーションでしたら、話す相手の姿や仕草や話し方(トーンなど)、また態度などの目からの情報も入りますし、その時の雰囲気などという五感も働きます。加えて社会的な立場や職業とか年齢とかが判ったりしますので、いろいろと先入観を持ちます。そしてそういったものに多分に印象なり説得力というものが左右されるものです。逆にその様な先入観を持たずに、文字を主として表現し、受け取り、その交流から更にNetworkが広がっていくならば、有る意味「平等」とも言えるシステムであると思います。

    現実社会より増してインターネットでは「言葉(文章)」というものがネットワーク上のコミニュケーション(情報のやりとり)の重要な役割を担っています。ですから単に知的欲求を満足させるだけにとどまらず、ここでコミニュケーションを経験する事は、現実の社会に於いても、特に精神面へのフィードバックが、良い意味も悪い意味も含めて必ず有るという事です。

    世界中の情報の中から栄養となる肥やしを見つけ出す、そして自分自身の内側を見つめなおして「自己の確認」をし、様々な情報やイメージを吸収して「自己を創造する」ことが出来る可能性が多分にあるのです。気を付けなければならない事は、情報に呑まれて溺れない様にする事だけです。物質的な制約のないこの空間には、素晴らしい人間としての「未知の可能性(進化)」の鍵が秘められているのではないでしょうか。

    (1997年11月12日更新)


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