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The Tomb of Masakado's Head

将門の首塚

Masakado

在処

東京都千代田区大手町一丁目一番一号.そこに彼のご高名な怨霊は鎮座していらっしゃる.

これが,日本の三大怨霊と言われ,崇徳上皇,菅原道真に並び称される,平将門殿の首塚である.度重なる祟りは広く知られている.最初にまず,拙者の所感を述べさせて頂きたい.

雰囲気,感想

知人の案内でここに来た.その夜から翌日未明にかけて,東海・関東では台風でもないのに,風雨が荒れ狂うのだが,雨は降らぬもののじっとりした生暖かい湿気が辺りを包み込んでいた.

"やべぇぞ,ここは !" その時には互いに口にしなかったが,ここを後にしてから語らったっとき,両人ともそういう強い緊張感を強いられたようだ.

伊達騒動での一件を報じた立て看板もあり,事前調査ではそちらもそれなりの興味も引いたのだが,それほど気にならぬ.失礼があってはならぬ,そんな意識ばかりが働く.

怨霊信仰

拙者は伊沢氏の "逆転の日本史" の愛読者である.最も荒れ狂う怨霊をも味方につけようとする,それが日本人である.

Dragon Ball 理論

どんなに荒れ狂う怨霊であっても,どこか仲間であり,話せば,あるいは戦えば分かり合える奴."ふっ,やるじゃねぇか." "おめぇもな" 日本の少年漫画雑誌で良く出てくるセリフである.

鳥山明氏の漫画 "ドラゴンボール" は皆さんご存じであろう.主人公 "孫悟空" は "ピッコロ大魔王" や "ベジータ" など,一度は命のやり取りを行うほど激しく戦う.だが分かり合って (何をだ (^^;),共通の敵に対して力を合わせ立ち向かう.

この姿こそ,日本人独特の価値観があるように思う.そう言えば,"神様" も登場するが,そんなに強くなかったりする.絶対的な神や教えを持たず,柔軟な価値観を持つ日本人像があの漫画には凝縮している気がするのだ.

将門人気の秘密

まず,第一に当時タブーであった天皇を否定し,自ら関東の皇とならんとしたこと.

京では藤原氏が我が世を謳歌していたこの時代,朝廷から任じられ,京からやって来た国司は私欲を満たすことに懸命であった.赴任地で得た富や財宝を賄賂とし,最終的には京へ戻っての出世を夢見ていたのだ.

当時は日本は朝廷によって統治されてはいたが,関東ではそれほど国としての一体感はなかったのではないのだろうか ? この後,奥州は独自の文化を花開かせ,やがて頼朝が鎌倉に幕府を開く.

西国でも藤原氏による荘園が多くあったはずだが,関東や奥州で見られるような動きは全くない.

第二には,外敵 (米軍) をも恐れさせたその呪いだと思う.

第二次世界大戦後にはその最後の意地を見せ,GHQ の命令をはね除け,日本的なものを守る最後の意地を見せてくれたという思いはあるかもしれない.下記の小史の通り,GHQ はこの辺りを整地し駐車場を建設しようとするが,不可解な事故のために断念している.

GHQ は占領下の日本では,その表面上では歓迎ムード一色,ほとんど抵抗や内戦の気配もない."こいつら,心の奥底では負けを認めていないな" と GHQ は分析したと言われる.

上の写真にも周りに蛙が見えることと思う.元々は将門殿の三女 "五月姫" が父の復習を果たさんがため祈願し,妖術を得て "滝夜叉" と改名.蝦蟇となったとされる.だが,歌舞伎のための創作とされる説もある.

周りには官公庁が多く,外国に赴任される方も多い.何時の頃からか,お参りすれば,無事に "カエル" ということで親しまれているらしい.かの若王子さんもここに祈っていたそうである.

祟り

下は,将門殿の首塚の背後にある建物の様子である.撮影日は日曜であった.この周りでは,将門に対し,ケツを向けてはならないとされている.

それにしてもだ,"塚には絶対にお酒はお酒をかけないでください" とあるが,お酒をかけたら何が起こるんだぁ !! とても気になる.

building

将門の首塚 小史

出来事
903 将門誕生.
935 平将門の乱始まる.
940 将門戦死.
1307 時宗の真教上人が "蓮阿弥陀仏" という法号を与え供養."神田明神" と改称.
1600 年頃 家康が江戸入部の際,神田明神を移転する.塚は残される.大名屋敷内.
明治 官庁街建設され,将門塚は大蔵省の敷地内.
1874 明治天皇,神田明神参拝.明治天皇が参拝したのは靖国神社とここのみ.急遽 "朝敵" である将門公は別殿に移され,祭殿は,大己貴命 (オオクニヌシ) と少彦名命となる.
1923 関東大震災.大蔵省庁舎全焼.発掘調査の結果,盗掘され何もないため,塚を破壊し埋め立て,仮庁舎とした.
1926 大蔵大臣早速整爾が病にて死亡.
現職の矢橋官材局課長その他十数名死亡.
政務次官武内作平ほか多数が仮庁舎で転倒して怪我続出.
将門塚破壊の祟りであるという噂が広まる.
1928 噂が広がり,仮庁舎を撤去,神田神社社司平田盛胤祭主の慰霊祭が行われ,大蔵大臣三士忠造以下幹部関係者多数が拝礼.
1945 日本敗戦.
米軍が周囲を整地し,駐車場を作ろうとしたが,工事用のブルドーザーを運転していた日本人が墓のようなものの前で突然転落して死亡する事故が起きたため,塚だけは破壊を免れた.
1984 NHK 大河ドラマ "海と風と虹と" の影響により,将門殿が 110 年ぶりに神田明神の神座に復帰.

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