進化論 Q&A 2

 目次 :  [ 追加編 ]  [ 有性生殖編 ]  [ 数理編 ] 

   「Q&A」の続きです。細かな話を示します。
   初心者向けではなく、こだわる人向けです。


追加編

 Q  「自然淘汰説」と、「自然淘汰」という現象とを、区別するのか?
 A  イエス。「Q&A」の最初に述べたとおり。

 Q  「自然淘汰説を否定する」と言いながら、「自然淘汰」という現象を認めるとも言うのは、なぜか?
 A  次の Q&A を参照。

 Q  ダーウィン説は、「突然変異」と「自然淘汰」を原理として、進化を説明する。そのような考え方を、否定するのか?
 A  イエス。ここでは論理を、わかりやすく図式で示そう。ダーウィン説は、次のようになる。
     「突然変異」&「自然淘汰」 ならば 「進化」
 一方、私の説は、この命題を否定して、次の命題を出す。
     「突然変異」&「自然淘汰」& 「クラス交差」 ならば 「進化」
 つまり、ダーウィン説では、第3の項目が欠けていたのだ。大切なものが欠けていたから、間違った結論が出てしまうのである。
 なお、「突然変異」は両者に共通するから、この部分をあらかじめ前提としておけば、次のようになる。
     ダーウィン説 …… 「自然淘汰」 ならば 「進化」
     クラス進化論 …… 「自然淘汰」& 「クラス交差」 ならば 「進化」
 この意味で、クラス進化論は、ダーウィン説を否定している。「自然淘汰」という概念を否定するわけではないが、「自然淘汰によって進化が起こる」という説を否定する。
 この論理がわかりにくければ、他の例で示そう。
    ・ 「僕が彼女を愛する」ならば「結婚できる」
    ・ 「僕が彼女を愛する」かつ「彼女が僕を愛する」ならば「結婚できる」
 これまでの進化論は、前者の立場を取ってきた。クラス進化論は、後者の立場を取る。論理的には、そういう違いがある。
( ※ これは論理の問題である。「僕が彼女を愛する」ということを否定しているわけではない。クラス進化論が言いたいことは、「これまでの考え方は、彼女がどう思っているかをまるきり無視してきたから、彼女の気持ちも考えてから、結論しろ」ということだ。「僕が彼女を愛する」ということを、いくら強調しても、そんなことはヤボなのだ。)
( ※ 本質的なことは、「早わかり」の冒頭に記したとおり。)

 Q  「自然淘汰」という現象を認めるというのは、どういうことか?
 A  ここでは、「自然淘汰」という言葉より、「優勝劣敗」という言葉の方が、適切だろう。

 Q  「優勝劣敗」とは?
 A  優者が増えて、劣者が減る、ということだ。……ただし、「優者」「劣者」は、個体ではなくて、遺伝子のことである。クラスにおける抽象的な個体だと考えてもいいし、統計的に数としてのみ扱えるものだと考えてもいい。

 Q  なぜ「優者」が増えるのか?
 A  「優者」「劣者」は、「優れているもの」「劣っているもの」という意味ではなくて、「増えるもの」「減るもの」という意味だ。結果論のような命名法だ。
 ある遺伝子が増えるとする。その遺伝子は、優者だから増えたのではない。増えたから、「優者」と呼ぶだけのことだ。「勝負で勝ったものを勝者で呼ぶ」というのと同じだ。
 「なぜ優者は増えるのか?」という疑問は、無意味だ。「優者は増える」というのは、「増えるものは増える」というのと同じであって、ただの同語反覆にすぎない。

 Q  では、個々の遺伝子ごとに、増えたり減ったりするのは、なぜか?
 A  個々の遺伝子ごとに、理由は異なる。それぞれの種や環境や偶然などのさまざまな状況に応じて、どの遺伝子が増えるか減るかが、左右される。あくまで、ケースバイケースだ。そして、それは、理論の問題ではなくて、実証の問題だ。

 Q  具体的に例示してほしい。
 A  たとえば、「旧大陸ではカンガルーが絶滅した」という現象と、「オーストラリアではカンガルーが絶滅しなかった」という現象がある。双方では、異なる現象があり、異なる理由がある。
 こういうふうに、現実に「優勝劣敗」(増えるものと減るものがあるという現象)はあるが、その現象も理由も、ケースバイケースである。もちろん、統一した理由など、あるはずがない。ただし、それらを統一した用語で呼ぶと便利だから、「優勝劣敗」という語で呼んでいるわけだ。あくまで、用語の問題である。「優勝劣敗」という統一的な力が実際に存在しているわけではない。
 同じような話はある。たとえば、男が女を好きになる現象も理由も、千差万別だ。プラトニックなのも肉体的なのもあるし、サディスティックなどもマゾヒスティックなのもある。そこには統一的な力などは働いていない。ただし、そういう心理的な傾向を一括して「愛」と呼ぶ。これはあくまで、用語の問題だ。ただし、いったん用語を決めたら、そのあと、「愛にはどのようなものがあるか?」と、個別の例に則して、実証的に考察できる。
 具体的な生物の例で言おう。シャーレの細菌に、フグ毒を落としたときの現象と、青カビを落としたときの現象とは、理由も結果も異なる。ただし、そういう現象を統一して呼べると便利だ。それぞれをいちいち、別の用語で呼ぶと、不便だ。そこで、「増えたものと減ったものがある。増えたものを優者と呼び、減ったものを劣者と呼ぶ」という意味の概念を、「優勝劣敗」という用語で示しているわけだ。そして、いったん用語を決めたら、そのあと、「優勝劣敗にはどのようなものがあるか?」と、個別の例に則して、実証的に考察できる。

 Q  では、増えたり減ったりする理由については、理論的に何も言えないのか?
 A  言えることはあるが、それは、もっと先の話だ。「遺伝子の増減はどう説明されるか?」というのは、クラス進化論の原理を前提とした上のことだ。クラス進化論の原理を前提とすれば、その後、「原理が実際にどう適用されるか、細かく調べよう」という課題も生じるだろう。しかし、今は、原理自体を提出している段階なのだ。

 Q  優勝劣敗という現象は、本当に観測されるのか?
 A  「種の絶滅」という現象を見れば、わかる。そこでは明らかに、種の個体数が減っている。つまり、絶滅した種では個体数が減っている。(これもほとんど同語反覆である。)
 わかりやすい例もある。シャーレの細菌に、自然毒をふりまく。あるものは生き残り、あるものは絶滅する。ここでも、残ったものは残り、消えたものは消えた。つまり、優勝劣敗があった。
( ※ あらかじめ優者だと判明しているものが残ったのではなくて、残ったものが優者と呼ばれる、という点に注意。)

 Q  「優勝劣敗」を進化の理由とするのならば、自然淘汰説も、クラス進化論も、進化の原理は同じだろう。
 A  たしかに、クラス進化論でも、「優勝劣敗」の力が働く。しかし、その働く向きが正反対なのだ。「概要」にも図を示したが、同じことを意味する次の図を見てほしい。

      [ 新種 ]           [ 旧種 ]
        o               o
        ↓               ↑
    o → ● ← o      o ←  ★ → o
        ↑               ↓
        o               o

 新たな遺伝子()は、旧種の中心からはどんどん排除されていくが、新種の中心にはどんどん集まっていく。これはいわば、磁石のN極とS極のようなものだ。どちらにも、磁力は働いている。しかし、働く方向は、正反対なのだ。
 だから、ここでは、「磁力は正反対に働いている」と認識するのが正しい。「どっちも磁力だから、同じ力が働いている」と認識するべきではない。もしそう認識すれば、事実を誤認することになる。(当然、その認識からは、矛盾が起こる。)

 Q  正反対の力とは?
 A  どちらも「優勝劣敗」の力だが、旧種においては多様な遺伝子を排除する力であり、新種においては多様な遺伝子を取り込んでいく力である。
 こういうふうに、「力の方向が逆転する」という点にこそ、クラス進化論の核心がある。

 Q  新種に働く力は、実在するのか?
 A  次の比喩を理解するとわかる。
 地球には重力が働いている。あらゆる物体は、落下していく。しかし、水素の入った風船は、落下せずに上昇していく。ここでは、重力とは逆方向の力である「浮力」が働いている。
 「浮力」は、一見、「逆方向の重力」つまり「反重力」と見える。しかし、「反重力」という力が実在しているわけではない。まわりの物体(つまり空気)の方が、水素よりも大きな重力を受けているので、水素には「反重力」が働いているように見えるわけだ。
 遺伝子が新種に向かう力も、同様である。新種にもともとあった遺伝子(旧種の遺伝子)が新種から排除されていくから、逆に、新種の遺伝子が新種に引きつけられていくと見えるわけだ。
 なお、旧種と新種に働く正反対の力は、「負の自然選択」と「正の自然選択」という言葉で呼んでもいい。

 Q  従来の進化論では、「正の自然選択」は否定されているが。
 A  「有利な突然変異は起こらない」という意味では、「正の自然選択」は否定されている。
 ただし、クラス進化論では、旧種と新種とが区別される。すると、旧種のなかではたしかに、「有利な突然変異」は起こらない。しかし、新種のなかでは、「有利な突然変異」というのは、ある。ただし、突然変異が新たに起こるのではなくて、多様な遺伝子のなかに有利な突然変異の遺伝子が見出される。
(ただし、「有利」というのは、「新種にとって有利」という意味である。)

 Q  なぜ新種のなかでは、「新種にとって有利な突然変異の遺伝子」が見出されるのか?
 A  新種が劣者の集団だからだ。優者の集団(旧種)のなかでは、それ以上、さらに優秀になることは難しい。しかし、劣者の集団のなかでは、既存の劣者の集団に比べて、「いくらかマシ」でさえあればいいのだから、有利なものを見出しやすい。
 わかりやすく言おう。90点のものは、100点の集団のなかでは劣者だが、80点の集団のなかでは優者である。かくて、同じ90点のものが、一方においては排除され、他方においては組み込まれる。
 たとえ話をしよう。美女の集団がいた。ここに、飛び入りが許される。ただし、既存の美女よりも、もっと美女であることが必要だ。初めは、選抜された美女の集団があった。そこは、ミス・インターナショナルの選考会だった。ここに飛び入りが許されるような美女は、ほとんどいなかった。だから、誰も飛び入りを許されなかった。集団は少しも進化しなかった。
 一方、まったく別の集団があちこちに発生した。そこには、美女はいなくて、人並みばかりだった。だから簡単に、飛び入りが許された。飛び入りが起こるたびに、進化が起こった。すると、あちこちに生じた集団では、非常に多様な美女集団ができた。「デブ美女」「痩せ美女」「筋肉美女」「男装美女」など。つまり、多様な種に分化したことになる。
 別のたとえ話を言おう。トランプの51というゲームをしている。スペードばかりを集めている。この方針を逸脱して、他のハートやダイヤを取るわけには行かない。そんなことをすれば、不利になる。しかし、全員がスペードばかりを集めていると判明したら、これ以上スペードを集めようとしても、頭打ちである。(35点。)そこで、カードを全部とりかえて、ハートを集め直すことにした。つまり、方針を転じた。この時点では、ハートの得点がまだ少ないので、劣者である。(31点。)しかし、ハートを集める路線を取ったことで、ハートをどんどん高得点にすることができる。つまり、進化することができる。
 まとめて言おう。
 いったん完成された種のなかでは、それ以上、水準を高めることはできない。しかし、まったく新たな集団から、あらためてやり直すと、別の方向に転じることができるのだ。ただし、方向を転じる際には、いったん水準が下がることが不可避だ。
 だから、「新種になる」というのは、「いったん劣者の水準に落ちるが、方向を転じることで、新たな遺伝子を獲得して、いっそう高度に進化していく資格を得る」ということなのだ。そこに、進化の本質がある。
 どのような生物も、現状では、種として完成された状態にあり、その先はほとんど進化していけない。しかし、方向を転じれば、さらに進化をしていくことができる。ただし、方向を転じた時点では、不利な種になってしまうのだ。そして、そのような不利な種が生き残れるような環境(自然淘汰のあまり働かない環境)があるときに、進化は起こる。
 大幅な進化は、常に、自然淘汰が弱まった環境においてなされた。そのことは、以上のようにして説明される。

 Q  新種が登場したあと、遺伝子はどのように種(新種)の全体に拡大していくのか?
 A  その質問自体が間違っている。それは「自然淘汰説」の発想である。
 自然淘汰説ならば、「新しい遺伝子が、優勝劣敗によって、種の全体に拡大していく」と言えるだろう。しかし、クラス進化論では、そのようなことは意味がない。
 クラス進化論では、種全体のレベルで有利な遺伝子がじわじわと拡大していくわけではない。少数の個体だけがいる小集団(つまり新種の集団)にむかって、新種の遺伝子が次々と集中していく。このときは、新種の遺伝子は増えていくが、新種の個体数が増えていくわけではない。そしてまた、この時点では、進化の途上であるから、新種は旧種よりも不利であり、旧種をしのぐことはできない。
 そうして遺伝子の集中がどんどん進むと、やがて、新種が大幅に進化することができる。すると、ついに、新種の個体が旧種の個体よりも有利になる。このとき、ようやく、新種の個体が旧種の個体を淘汰していく。
 ここでは、「自然淘汰」が起こる。たとえば、「哺乳類が有袋類を駆逐する」というような例が当てはまる。ただし、この「自然淘汰」は、現象としては見られるが、「進化」ではない。「進化」とは、「旧種のなかで新種が誕生すること」である。「新種が誕生したあとで、新種が旧種を駆逐すること」は、進化ではない。それはただの自然淘汰である。
 たとえ話をしよう。
 赤いボールから青いボールへという変化があった。昨日は赤いボールだったのに、今日は青いボールになっていた。たしかに、赤よりも青の方が有利だったから、赤から青に変わったのだろう。では、なぜ、ボールは赤から青に変わったのか?
 従来の説では、こう説明する。「ボールの全体が少しずつ、赤から青へと変化していったのだ。最初は少し青っぽく。次はもっと青っぽく。そうして、紫などの中間色を経て、赤から青へと変化していったのだ。その理由は、赤よりも青の方が有利だから、少しでも青っぽく変化したら、その青っぽい状態が固定されたからだ」
 なるほど、と思った人がいた。その人は、もう一つ、赤いボールを目の前において、ずっと見つめた。しかし、赤いボールはいつまでたっても赤いままだった。「ボールは毎日少しずつ色が変動するのだ」という突然変異を信じていたが、現実には、そんな突然変異は、まったく起こらなかった。「色がだんだん褪せていく」という不利な突然変異ならば観察されたが、有利な突然変異などはまったく観察されなかった。
 クラス進化論では、こう説明する。「ボールに多様性があればよい。つまり、ボールのあちこちに、多様な色の色素があればよい。すると、それらの色素がうまく結びついて、青色の斑点を生むことがある。その青色の斑点が、だんだん勢力を拡大して、赤を駆逐して、すっかり青だけにするのだ。もちろん、途中の中間色である紫などは生じない」
 なるほど、と思った人がいた。その人は、多様性をもたらすために、ボールを湿らせて栄養素をふりまいた。すると、カビが繁殖した。あちこちに、青カビや白カビや赤カビが繁殖して、それらが斑点となった。やがて、青カビが進化して、非常に強力な青カビになった。その青カビがどんどん拡大して、ボールの全体が青カビに覆われた。ボールはすっかり青くなった。
( ※ 青色が赤色を駆逐するという現象がある。ただし、「それは、自然淘汰ではあるが、進化ではない」という点に注意。「種の交替」と「進化」とは、別の現象なのである。それぞれの現象が発生する時点も異なっている。例示すれば、新人が誕生するという進化があってから、かなり長い年月がたってから、旧人が駆逐された。一つの種が旧人から新人へとなだらかに進化していったわけではない。)

 Q  「遺伝子の集中」は、なぜ起こるのか?
 A  溶液中における「結晶の成長」と同様だと思えばよい。
 溶液中に硫酸銅が溶けている。過飽和の状態であり、結晶が析出するはずだが、析出していない。そこに、結晶のタネを入れる(または偶然発生する)と、そのタネが核となって、だんだん成長していく。かくて結晶がどんどん大きくなる。
 これは、どのような過程か? 物理学を勉強した人にとっては、自明だろう。ただし、物理学を知らない人のために、簡単に解説しておこう。
 溶液中では、硫酸銅の分子は、確率的にランダムに動いている。これは「熱がある」と称してもいい。絶対零度以外の状態では、分子は動くものだ。そうして動いた分子同士が、ぶつかることがある。たいていは、ぶつかったあとで、すぐ離れる。だから、何も変わらない。ただし、結晶があると、違う。結晶にぶつかった分子は、結晶と合体する。かくて、時間の経過とともに、分子が結晶とぶつかる機会が増えるにつれて、結晶はどんどん大きくなる。
 「遺伝子の集中」も、同様である。「新種の核」は結晶に相当する。交配は、分子が結晶にぶつかることに相当する。分子が結晶にぶつかっても、硫酸銅以外の分子ははねつけられるが、硫酸銅の分子だけは結晶に取り込まれる。同様に、外部にある遺伝子が「新種の核」と交配をしたとき、「新種の核」にとって不利であるものは捨てられ、有利であるものだけが取り込まれる。正確に言えば、「新種の核」となる集団にとって、不利である遺伝子は残存率が低く、有利である遺伝子は残存率が高い。時間がたつにつれ、不利である遺伝子は消えていき、有利である遺伝子は増えていく。ある程度の時間がたてば、有利な遺伝子だけが残る。つまり、その新たな遺伝子が、「新種の核」に取り込まれたことになる。かくて、結晶に新たな分子が取り込まれるように、「新種の核」に新たな遺伝子が取り込まれる。こうして、「遺伝子の集中」が進む。
 まとめて言おう。新たな遺伝子が「新種の核」と遭遇して交配するということは、確率的な現象だ。しかし、十分な時間がたてば、遭遇して交配する確率は高まる。そして、いったんそうなれば、新たな遺伝子は、もはや離れることはなくて、新種に取り込まれるのだ。それが「遺伝子の集中」ということだ。
( ※ 「新種の核」というのは、単一の個体ではなく、集団である、ということに注意しよう。単一の個体が、新種の遺伝子をもつ個体をうまく選びながら、次々と交配するわけではない。たとえば、最高の美女が次々と優秀な男と交配して遺伝子を取り込んでいくわけではない。ここでは、「新種の核」は、個体ではなく、集団である。)
( ※ ここでは、集団の大きさとか何とか、さまざまなことが影響する。ただしそういうことは、細かな話となる。)

 Q  「遺伝子の集中」は、どのくらいの速度で進むのか?
 A  両親が新種の遺伝子を一つずつ備えていると、子はその双方を備えることができる。1世代で 2 個。n世代で 2 個。たとえば、3世代で 2 =8個。6世代で 2 =64個。つまり、6世代後には、新種の遺伝子を64個備えた個体が発生することになる。
( ※ ただし、これは、最速の場合だ。実際には、そんなにうまく偶然が重ならないだろうから、6世代ではなく、20世代か30世代ぐらいかかりそうだ。)
( ※ 自然淘汰説では、どうなるか? 「突然変異の蓄積」によって、64個の遺伝子をもつ個体が登場するためには、突然変異が64回、起こる必要がある。1回の突然変異が1万年に一度なら、64万年かかる。これは、20〜30世代に比べると、途方もなく長い時間だ。現実には、新種の遺伝子は、64個ぽっちではなく、1000個以上になるから、その差はさらに広がる。一方は累乗的増加であり、一方は直線的増加だから、遺伝子の数が増えるにつれ、差はどんどん広がるのだ。たとえば、n=10だと、210 =1024 となる。1000個の新しい遺伝子を得た新種を形成するために、「遺伝子の集中」ならば最速で10世代だが、「突然変異の蓄積」だと千万年かかる。)

 Q  「遺伝子の集中」は、直接的に実証できるのか?
 A  進化を起こすような巨大な「遺伝子の集中」は、もし観察されるとしたら、実際に新種が誕生するわけだから、その場に立ち会うことはかなり困難だ。
 一番うまい方法は、シミュレーションである。「ハーディ・ワインベルクの法則」を調べるコンピュータ・シミュレーションの方法が知られているから、それと同様にすればよい。
 「旧種と新種に、それぞれの中心があると仮定する。旧種の遺伝子には、突然変異が1万回に1回の割合で発生する。突然変異の 99.9% は有害だが、 0.1% は新種にとっては有益である。旧種と新種が出会って、交配すると、旧種の遺伝子と新種の遺伝子をもつ個体が誕生する。そのうちの一部は増え、一部は減る。そうするうちに、新種においては、新種の遺伝子の集中がどんどん進んでいく」
 ということを、コンピュータ・シミュレーションで計算すればよい。以上のことを実際に研究すれば、それで論文が書ける。(ただし、初期条件では、仮定ないしテクニックを使う必要がある。)
 なお、この「遺伝子の集中」の過程では、さまざまな「新種の中心」が同時に発生するはずだ。つまり、正確に言えば、「新種」というのは、ただ一つの中心をもつわけではなくて、たくさんの中心をもつ。最初は一つの中心だったとしても、一つの中心がどんどん枝分れして、複数の中心となる。ただし、進化が進むにつれて、複数の中心は、その多くが自然淘汰[種の絶滅]にさらされる。一方、逆に、複数の中心が(クラス交差によって)たがいに結合することもある。──こういうことを、「進化の実験」または「進化の試行錯誤」と呼ぶ。「進化の実験」は、ダーウィン説では説明できないが、クラス進化論では説明できる。
 話が細かくなりすぎた。この話 [進化の実験 : 複数の中心ができること] は、「本論」に詳しく書いたことであり、「概要」に書くべきことではなかった。)

 Q  「遺伝子の集中」を、実験によって証明することは可能か?
 A  小規模でなら、可能だ。それは、「人為淘汰」だ。種というよりは、品種・亜種のレベルではあるが、「遺伝子の集中」を、実際に起こすことができる。
 多様な遺伝子のうちから、「これこれの形質の遺伝子」というふうに遺伝子を選んで、交配をすることにより、「遺伝子の集中」を実現できる。すると、特定の形質の品種ができる。たとえば、ブルドッグやチワワのような品種ができる。
 そして、小形のチワワと大型のドーベルマンでは、自然環境では(生殖器官の大きさの違いから)交配が不可能である。とすれば、放置すると、長い年月のうちに、遺伝子の変異が蓄積して、まったく別々の種(つまり交配によって不妊になる)になりそうだ。
 この意味で、「人為淘汰」は、ある程度、「遺伝子の集中」を実証していることになる。
( ※ なお、人為淘汰によってなされるのは、「新しい品種の誕生」である。「古い品種から新しい品種に変化すること」ではない。なぜなら、古い種は元のままの形で残っているからだ。)
( ※ 人為淘汰の話は、もっと複雑な要因を含んでいるので、十分には書ききれない。ここでは簡単に触れるだけにする。「本論」や「続編」で、別途、詳しく解説している。)

 Q  具体的な例を挙げて、示してほしい。キリンの首は、なぜ長いのか?
 A  ダーウィン説ならば、「最も首の長い個体だけが生き残ったので、種の全体で首が長くなった」と主張するだろう。しかしそれだけでは、「首の長い個体がどうして生じたのか?」という疑問に答えられない。単に「突然変異で」と答えるのでは、「他の動物(たとえば鹿や馬)では、なぜ首が長くならなかったのか?」という疑問に答えられない。
 ここで、「早わかり」の冒頭の言葉を思い出そう。クラス進化論の主張は、「劣悪なものがなぜ滅びたのか?」という疑問に答えるのではなく、「優秀なものがなぜ生じたのか?」という疑問に答えているのだ。具体的には、次のようになる。
      *      *      *      *      *
 まず、草食獣がたくさん存在した。そのうち、ここでは、鹿に似た仲間に着目しよう。
 これらの草食獣には、多様な遺伝子が存在した。ここで、特に重要なのは、「首が長くなる」という遺伝子のほかに、「足が長くなる」「心臓が強くなる」「血圧に耐えるために皮が厚くなる」「血圧から脳を守るために血圧緩衝機構がある」という四個の遺伝子だ。合計、五個の遺伝子が重要である。
 この五個の遺伝子のうち、二つか三つぐらいを生じた種は、いくつかあったが、別に、何も起こらなかった。たとえば、「首が長い」だけがあり、「足が長い」がないと、ろくろ首のようになるので、不利だった。「首が長い」がなくて、「足が長い」だけがあると、足元の水を飲めないので、不利だった。最初の四個があっても、「血圧緩衝機構」がないと、脳の血管が破裂するので、不利だった。かくて、たいていの種では、これらの遺伝子は劣者となって、増えることはなかった。
 あるとき、特別の種では、交配によって、これらの遺伝子をすべてもつ個体が突発的に生じた。すると、その生物(キリンの原種)は、高い樹木の葉を食べることができるようになった。かくて、優者となった。このとき、「新種の核」が誕生したことになる。
 さて。元の仲間は、低い樹木の葉を食べていたが、この新しい生物は、高い樹木のある領域へと移動していった。つまり、「新しい領域」「空白領域」へと、移動していった。そこには、競合するライバルはいなかった。ゆえに自然淘汰の力が弱まった。そのせいで、遺伝子に多様性がもたらされた。
 この新しい種は、古い種とはほとんど交流しなかったので、独自の方向に進化することになった。新種独自の遺伝子を次々と蓄積して、次々と進化していった。最初は五個だけの「新種の遺伝子」があったが、やがて、十個、二十個、……というふうに次々と「新種の遺伝子」を蓄積していった。(クラス交差で。)
 結局、「クラス交差」によって新種が誕生したあと、さらに「クラス交差」を重ねて、旧種とは別の独自の進化の方向をたどることになった。かくて、首はどんどん長くなり、足もどんどん長くなった。
( ※ 最後の過程は、ダーウィン流に、「自然淘汰」による「小進化」でも、いくらか説明できそうだ。ただし、「優勝劣敗」が働く原理はともかく、「突然変異の発生」よりも、「遺伝子の集中」が重要である。)
( ※ 五個の遺伝子は、劣者であったかもしれないが、優者であってもよい。特に、「血圧緩衝機構」は、キリンの祖先種らしいオカピという動物にはもともと備わっているから、この遺伝子は優者であったらしい。
( ※ 細かな説明が不足しているが、詳しくは、本論を読んでもらうしかない。)

 Q  キリンは、新しい環境に進出したから、新しい種になったのか?
 A  違う。新しい環境に進出したから、新しい種になったのではない。逆に、新しい種になったから、新しい環境に進出できたのだ。
 ダーウィン流の考え方だと、「新しい環境に進出したから、新しい種になった」とされる。しかしこれは、「必要に応じて、進化する」という考え方だ。ラマルクの「用不用説」(よく使う器官ほどどんどん発達するという主張)と、基本的には同じだ。
 ラマルクは「獲得形質が遺伝する」と考えたが、この「獲得形質遺伝説」は否定された。ところが、ラマルクの「用不用説」の方は、形を少し変えて、ダーウィン流の考え方に取り込まれてしまったのである。
 その考え方によれば、どういうわけか、草食獣が森林に入ると首がどんどん長くなったり、魚が陸に上がると足が生えたり、恐竜がジャンプすると翼が生えたり、鳥が地面に降りると足が発達したり、猿が草原に出ると直立する、とされる。
 ところが実際には、草食獣が森林に入ると餓死するだけだし、魚が陸に上がると干上がるだけだし、恐竜がジャンプすると地面に激突するだけだし、鳥が地面に降りると肉食獣に食い殺されるだけだし、猿が草原に出るとライオンに追いかけられて四つ足で逃げ回るだけだ。
 では、どうして、こういう食い違いが出るか? ダーウィン流の考え方は、「自然淘汰」つまり「劣者の死」を説明するが、一方、「優者の誕生」を説明できないのだ。説明できないまま、単なる偶然まかせにしている。「偶然でうまく行くさ」という、恐ろしいほど能天気な発想を取る。かくて、「環境に応じて、ちょうど好都合な偶然が起こるのさ」という考え方を取る。
 これはもはや、「金が必要になったら、ちょうど好都合に空から金が降ってくる」という考え方と、同然である。あるいは、「雨の中を歩いても、濡れはしない。雨滴と雨滴の中間を偶然通れば、雨滴を避けられるからだ」という考え方と、同然だ。まったく、非科学的な妄想である。
 ダーウィン説は、科学的に考えれば確率的にありえないはずの突然変異を、「ある」と前提して、話を組み立てている。あまりにもひどい。「宝くじを何度買っても、必ず1等賞が当たって大儲けだ」と前提する超楽観主義者がいるとしたら、彼は、ダーウィン説の信者よりは、はるかに頭が正常である。
 事実を検証しよう。過去を見れば、事実がわかる。たとえば、肺魚は、水中から陸上へと進出したが、いつまでたっても肺魚のままであり、足を生やしたりはしない。また、草原に進出したシマウマやライオンなどは、いつまでたっても四つ足のままであり、二本足で直立することはない。人間にしても、水泳選手の手足はヒレにならないし、走り幅跳びの選手の腕は翼にならない。
 結局、本当のところは、最初に述べた通りだ。「新しい環境に進出すると、新しい種になる」のではない。そんなことは、決してありえないのだ。「新しい種が誕生すると、新しい環境に進出できる」というのが、正しい。
( ※ 環境による制限は、劣者を滅ぼすが、優者を誕生させることはない。そこがポイント。 → 「早わかり」の冒頭。)

 Q  新しい種が誕生すると、なぜ、旧来の種とそっくりにならず、まったく異なる形質をもつようになるのか?
 A  「遺伝子の集中」という過程で、新しい環境の影響を受けるからだ。
 たとえば、キリンを考えよう。この新種が最初に登場したときは、まだ「新種の核」に遺伝子がいくらか追加されたものにすぎなかったから、進化の余地があった。しかも、これは、新たな中心をもつ。だから、独自の遺伝子を吸収していくことができる。そして、その際、新しい環境の影響を受けるのだ。
 仮に、新種が新しい環境に進出しなかったなら、旧来の環境にふさわしい形質をもつようになるので、旧種とあまり変わらない新種になっただけだろう。特に、まったく同じ環境にいれば、新種と旧種とが「似た者同士」として競争したすえに、旧種から新種へと「種の交替」が起こることもある。
 ところが、新種が新しい環境に進出することがある。すると、「遺伝子の集中」の過程において、新しい環境の影響を強く受けるので、旧来の環境に最適化した旧種とはまったく異なる形質を帯びるようになる。かくて、まったく別の形質の新種が誕生するわけだ。
( ※ ここでは、環境の影響を重視している。ただし、環境の影響は、「遺伝子の集中」の仕方を左右する要因として働く。ダーウィン説のように、個体の「自然淘汰」という形で働くのではない。また、逆に「自然淘汰を弱める」という形で働くのでもない。混同しないように、注意しよう。)

 Q  クラス進化論に、いろいろと理屈があるのは、わかった。しかし、そのような理屈が正しいと、なぜ言えるのか?
 A  ある理論が正しいかどうかは、その理論自体からは言えない。これは、当然である。
 たとえば、量子力学を見よう。量子力学が正しいかどうかは、量子力学自体では証明できない。量子力学が正しいかどうかは、実験によって検証されるだけだ。
 クラス進化論も、同様だ。クラス進化論が正しいということは、クラス進化論自体からは言えない。

 Q  では、どうやって、検証するのか?
 A  発想法の妥当さを調べても、無意味である。たとえば、量子力学は、その発想法によって、正しいかどうかが決まるわけではない。発想法で言えば、古典力学に比べると、きわめて不自然であり、納得しがたい。だから、発想法よりも、結論を比べるべきだ。つまり、量子力学の結論と、古典力学の結論とを、比べる。そして、どちらが事実に合致するかで、どちらが正しいかを判定する。
 同様に、「クォークは存在する」という命題に対しては、それが信じやすいかどうかではなくて、その結論が現実に合致するかどうかで、正しいかを判定する。
 同様に、「重いものと軽いものは、どちらも同じように落下する」という命題に対しては、それが信じやすいかどうかではなくて、その結論が現実に合致するかどうかで、正しいかを判定する。
 進化論も同様だ。ダーウィン説と、クラス進化論との、どちらの発想法が信じやすいかではなくて、どちらの結論が事実に合致するかで、どちらが正しいかを判定する。
( ※ こういう方針を、「科学的方法」と呼ぶ。)

 Q  クラス進化論の結論は?
 A  たとえば、次の通りだ。(これらは、従来の説とは、正反対である。)

 どちらの結論が現実に合致するかを調べると、どちらが正しいかを判定できる。
 ( ※ また、「人為淘汰」という実験的な検証方法もある。先に述べたとおり。)

 Q  クラス進化論は、納得しがたい気がするが。
 A  納得する必要は、さらさらない。たとえば、量子力学は、誰にでも納得できるから正しいのではない。納得しがたくても、その結論が現実に合致するから、正しいのだ。
 あくまで、「現実との合致」が問題だ。納得できなくてもいい。

 Q  「クラス」という概念が、なぜ必要なのか? 従来のように「遺伝子」という概念だけでは、なぜいけないのか?
 A  遺伝子を統計的に考えるとき、頻度だけを考えるのでは不足であり、遺伝子同士の連結( or 組み合わせ)も考える必要があるからだ。
 たとえば、旧種の遺伝子が A1 ,A2 であり、新種の遺伝子が B1 ,B2 であるとしよう。旧種のなかに、新種の遺伝子がそれぞれ、5%ずつあるとしよう。ここで、頻度だけを見るならば、単に「5%だけある」と考えるだけで終わりだ。しかし、連結(遺伝子の組み合わせ)も考えるならば、次の二つを区別するべきだ。
 前者の場合は、新種の遺伝子( B1 と B2 )は「劣者」として減少する。後者の場合は、新たな新種が出現するので、新種の遺伝子( B1 と B2 )はこの組み合わせにおいて「優者」となって増大する。
 こういうふうに、連結の有無によって、結果が異なる。だから、ここでは、頻度に着目するだけでは不十分であり、連結の有無にも着目するべきなのだ。

 Q  頻度だけを考えるのでは、なぜダメなのか? 少し精度が落ちるだけではないのか?
 A  少し精度が落ちるだけではなくて、ほとんど正反対の結論が出るからだ。
 「連結がある」というのは、「クラス交差がある」というのと同様であり、また、「二つの中心がある」というのと同様である。この点に着目するべきであり、この点を無視してはならない。
 両者の違いは、次の結論の差をもたらす。(クラス進化論/従来の進化論)  こういう違いがある。つまり、思考の精度を上げると、単に結論の精度が上がるだけではなく、結論がほぼ正反対になってしまうのだ。
( ※ どうしてか? 統計的に言えば、頻度は一次成分であり、連結は二次成分だ。進化は、一次成分によって起こるのではなく、二次成分によって起こる。しかもここでは、二次成分は、一次成分とは反対の方向性をもつ。つまり、劣者同士から優者が誕生する。)
( ※ なのに、従来の進化論は、「一次成分によって進化は起こる」と考えた。そこに、誤りがあった。……このことを、物理学でたとえよう。速度は一次成分だが、加速度や重力は二次成分である。現実には二次成分である加速度を、一次成分である速度として理解すれば、まったく間違った結論が出る。)

 Q  「劣者と劣者から優者が生じる」という原理は、なんだか、不自然に思える。
 A  たしかに、不自然である。実は、これは、一般的に成立することではなくて、例外的なことなのだ。そこで、こういう例外的なことが当てはまる現象を、特別に考察した学問分野がある。それは「ゲーム理論」である。典型的な例は「囚人のジレンマ」と言われる。その表を応用して、「クラス進化論」の原理を表で書けば、次のようになる。

 \ -1  +1 
 -1  +3   0 
 +1   0  +2 

 通常は、「-1」と「-1」の組み合わせは、「-2」になるだろうが、特別な場合には、「+3」になって、「+2」をしのぐようになる。
 ここで本質的なことは、「2次元の現象は、1次元の現象の単純な和とは異なる」ということだ。似た例を挙げると、「美味な食物Aと美味な食物Bを、両方いっしょに食べると、食い合わせになって、腹をこわす」という例がある。
( ※ こういう話は、もっと精密に数学化すると、「ナッシュ均衡」の理論になる。)

 Q  この表のような現象は、あまりにも特殊すぎて、一般的ではないと思えるが。
 A  自然現象では、こういう場合はよく見られる。そして、生物の形質は、それに当てはまるのだ。
 たとえば、小学校で野球チームを作るために、スポーツ能力の高い生徒を選抜することにした。ここで、「最強のチーム」を作るには、どうやって、生徒を選抜したらいいか?
 自然淘汰論者は、こう主張した。「まず投球をさせて、最も優秀な生徒たちをを選ぶ。次に、そのなかで、最も打力の強い生徒たちを選ぶ。こうすれば、投球も打力も最強の生徒が残るはずだ。」と。
 クラス進化論者は、こう主張した。「投球のうまい生徒が、打力が優れているとは、限らない。両方のバランスが大事だ。投球では少しぐらい劣っている生徒も残し、打力では少しぐらい劣っている生徒も残そう。そうして多様な生徒を残そう。そのなかで、実際に野球をさせて、投球と打力のバランスの取れている生徒を最強の選手として残そう」と。
 両方のチームが決まった。自然淘汰論者の選手は、全員が剛速球を投げた。しかし全員が打力がダメだった。クラス進化論者の選手は、剛速球を投げることはなかったが、投球と打力のバランスが優れていた。かくて、後者のチームが勝った。
 現実の例も示そう。ある有名なコンピュータ会社の、Fという会社がある。この会社は、「英語至上主義」を唱えた。「社員に全員、英語を強制しよう。英語で能力評価をしよう。そうすれば、英語力と技術力の、双方を備えた社員がそろって、最強の会社になる」と。そこで、最初に英語力で選抜しようとしたら、大学の英文科卒のような、英語力だけの人間ばかりが残った。非常に優秀な技術力を持つ人間は、一次選考の段階で、「英語ができない」という理由で、排除された。一次選考を通過した英文科卒のような人間のなかで、最も優秀な技術力を持つ人間ばかりが選ばれたが、いずれも技術力は低かった。かくて、この企業は、技術力が急激に低下してしまった。
 「個別分野の能力で最も優秀な者が、総合力でも最も優秀だ、とは言えない」
 このことが一般的に成立する。だからこそ、「自然淘汰による進化」などは、原則的に成立しないのだ。
( ※ 「自然淘汰による絶滅」ならば、成立するが。)

 Q  「劣者と劣者から優者が生じる」というのは、やはり、不自然に感じる。本当に、「劣者と劣者から優者が生じる」というふうになるのか?
 A  勘違いしてもらっては困る。文字通りの意味では、そのことは成立しない。たとえば、病弱の男と、低知能の女が、交配して子供を生んでも、その子供は、病弱で低知能になるのが普通だ。天才が生まれることなど、まず、ありえない。
 「劣者」とは、「劣っている」という意味ではなくて、「最善ではない」つまり「次善」という意味である。

 Q  次善だって、劣っていることは劣っているはずだ。それぞれの遺伝子は、減っていくはずだ。

 A  その通り。いくらかは減る。ただし、「劣っているから減る」のは、その有利な組み合わせになっていないとき(片方だけのとき)に限る。いったん組み合わさったら、今度は、有利になるから、減るどころか、増える。
 なお、片方だけのとき(有利な組み合わせになっていないとき)にも、消滅はしない。「いくらか不利であっても、残っている」ということ、つまり、「多様性がある」ということが、大切だ。

 Q  多様性があれば、うまくクラス交差が起こって、劣者が誕生するのか?
 A  起こることもあるし、起こらないこともある。新種を生み出すほどはっきりとした優者が誕生するのは、非常に稀だろう。数十万年に一度というように、きわめて例外的となるだろう。そして、そういう例外的なことが起こったときに、新種が生じて、進化が起こる。

 Q  よくわからないが。
 A  話を整理しよう。次のように、場合分けする。
   (1) 劣者と劣者から、劣者が生まれる。
   (2) 優者と優者から、優者が生まれる。
   (3) 劣者と劣者から、優者が生まれる。
 この三つのいずれの場合も、起こるだろう。ただし、頻度が異なる。
   (1) は、劣者が生まれて、淘汰されるだけだ。非常にしばしば起こる。
   (2) は、小進化だ。小規模な進化がときどき起こる。
   (3) は、クラス交差による大進化だ。ごく稀に、例外的に起こる。

 クラス進化論は、決して、「 (3) だけが起こる」と主張しているわけではない。「 (3) が起こることはめったにないが、もし (3) が起これば、これこれの過程で進化が起こる」ということを、体系的に説明しているだけだ。
 たとえて言おう。量子力学は、「シュレーディンガー方程式は常に成立する」と主張しているわけではない。電子や中性子には、シュレーディンガー方程式が当てはまるが、人間の心の変化には、シュレーディンガー方程式は当てはまらない。量子力学は、電子や中性子には適用されるが、人間の心には適用されない。
 クラス進化論も、同様だ。大進化が起こるときには、そのことの原理を説明できる。しかし、クラス進化論の説明が、あらゆる現象に適用されるわけではない。 (3) が適用されるのは、大進化の場合だけだ。
 だから、基本は、場合分けである。「クラス交差は必ず成立する」ということは、ありえない。(3) が成立するのは、数十万年に一度というような、ごく例外的な現象である。

 Q  大進化では、本当に、(3) が適用されるのか?
 A  それは、「クラス進化論は正しいか」という質問と同じだ。先にも示したが、その質問への回答は、クラス進化論からは与えられない。
 正しいかどうかを知りたければ、現実と比較して、検証するしかない。

 Q  あらかじめ正しいと判明した理論しか、信じたくない。
 A  ならば、あらゆる科学を捨てるしかない。どんな科学も、誕生した時点では、正しいかどうかは不明であった。その後、ガリレオがピサの斜塔の実験をしたりして、理論と現実とを比較して、何が正しいかを検証していった。
 科学的態度とは、未知の真実を探ることだ。既知の知識を覚えることではない。

 Q  クラス進化論を捨てても、いいのか?
 A  もちろん、捨てても構わない。それはあなたの科学観しだいだ。
 現状では、従来の進化論には、さまざまな矛盾がある。ところが、クラス進化論は、それらの矛盾を解決するための体系を示して、次のことを結論した。

 こういう結論を捨てたければ、捨てても構わない。それは、「従来の説を信じる」ということだ。つまり、次の説を取る、ということだ。  なお、従来の説も取らず、クラス進化論も取らない、というのなら、単なる無知と混沌になるだけだ。それがお好みなら、それはそれで構わない。
 たいていの人々にとっては、新しい理論よりは、無知の方が、居心地がいいのである。新しい分野の開拓は、常に苛酷だからだ。
 私の予想では、たいていの人は、従来の説を取るだろう。そして、「従来の説は間違っているんだ。困ったなあ」とぼやき続けるだろう。ぼやくことほど、楽しいことはない。逆に、真実を突きつけられて、思考を崩壊させられることほど、恐ろしいことはない。だからこそ、ガリレオは、あれほどにも激しく攻撃されたのである。





有性生殖編

 Q  「メンデルの法則」は、すぐに認められたか?
 A  すぐには認められなかった。メンデルの仕事は、地方の雑誌に発表されたが、学会からは認知されず、むしろ、否定された。世間がメンデルの業績を理解できるようになるまで、35年間もかかった。
 ( → Q&A 「メンデルの法則」

 Q  「メンデルの法則」の意義は何か?
 A  メンデルの法則は、進化論の最重要の基礎だが、かなり誤解されている。
 第1に、「メンデルの実験では、異なる形質の遺伝子は、異なる染色体の上にあったが、それは、偶然そうだったのだ」(メンデルは運が良かっただけだ)というふうに記述されることもある。しかし、これは誤りだ。メンデルの実験で対象となった遺伝子は、7個あるが、それらは4本の染色体の上にあった。つまり、染色体上で、遺伝子のダブりがあったわけで、「連鎖」(リンケージ)があったことになる。メンデルは、3個の遺伝子の独立性について実験しただけである。残りの4個については推測しただけだ。なぜ7個すべてを対象に実験しなかったかと言えば、そんな大規模な実験は、個人の努力では、困難だったからだ。その意味で、実験は不備だった。ただし、このことは、メンデルの業績を無意味にしない。肝心の推測は正しかったからだ。また、実験の結果、「連鎖」(リンケージ)に気づけば、「遺伝子の存在」が否定されるのではなくて、さらに「染色体」という概念にたどりついたはずだ。
 第2に、「メンデルの法則は、例外的にしか成立しない」という批判がある。つまり、メンデルの法則を、物理学の法則のように見なして、「例外なしに成立する」と思い込んだすえ、「例外があるぞ。だから法則ではない」と批判するわけだ。
 以上の二点のようにメンデルの業績を批判することで、得意になる人も多い。そこで、本質を指摘しておこう。
 メンデルの業績は、「法則の発見」ではない。「遺伝というものは、遺伝子によって起こる」ということを想定して、そのことを証明するために、実験をした。その実験結果は、三つの法則を想定すると、うまく説明された。ここでは、「法則」とは、「常に成立する一般原理」ではなくて、「この実験結果を説明する特殊原理」であるわけだ。この特殊原理が成立するためには、
  「それぞれの遺伝子が、優性遺伝・劣性遺伝の関係にあること」
  「それぞれの遺伝子が、異なる染色体上にあること」
 という二つの条件が必要だ。そして、この二つの条件を満たす場合(メンデルが実験したような場合)には、「遺伝子は存在する」と結論できる。このことがメンデルの業績だ。だから、メンデルの業績とは、何らかの数式的な原理を発見したことではなくて、「遺伝子の存在」を証明したことだ。
 実は、メンデル以前には、「遺伝子」というものは存在しないと見なされていた。たとえば、父親と母親がそれぞれの遺伝的な要素をもてば、子は両親の形質をそのまま受け継ぐ、とされた。図式で書けば、
     F & M  →  (F+M)/2
 となる。つまり、「白と黒からは、灰色が生まれる」という考え方だ。これは、「遺伝は連続的なものから生じる」という説だ。一方、メンデルの考え方によれば、遺伝子は「分割不可能」なものであるから、
     F & M  →  F or M
 となる。つまり、「白と黒からは、白または黒が生まれる」という考え方だ。これは、「遺伝は不連続的なものから生じる」(原子のような分割不可能なものがある)という説だ。
 メンデルの業績の本質は、「遺伝子の存在」つまり「遺伝における要因の不連続性(量子性)」を明らかにしたことだ。そのことを示すために、三つの法則を、補助的手段(補題)として用いた。とはいえ、この三つの法則は、常に成立する原理ではなくて、一定条件のもとで成立するだけだ。かくて、そのことを批判する人もいる。しかし、メンデルの業績は、そういう部分的な法則を発見したことではなくて、そういう部分的な法則を使うことによって「遺伝子の存在」を明らかにしたことだ。この本質を理解しよう。
( ※ クラス進化論でも、「進化の不連続性(量子性)」を明らかにしている。しかし、こういう本質を理解せず、枝葉末節的な点に目を奪われている人もいる。彼らは、揚げ足取りをしようとして、鵜の目鷹の目だ。彼らがもし、メンデルの時代に生まれたら、メンデルの業績を否定するために躍起になっていただろう。「メンデルの論文にはきっとどこか欠点があるはずだ。その欠点を突ついてやろう」と思って、しきりに論文を曲解したに違いない。そしてメンデルの法則の成立しない現象を発見して、「ほれ見ろ。メンデルの法則は間違っている!」と、大得意になったに違いない。かくて彼らは、「ゆえに遺伝子は存在しない」と証明したつもりになるのである。……いつの時代にも、そういう人物はいるものだ。)
( ※ メンデルの発見の意義  → 小泉の波立ち 7月31日 【 追記 】 )

 Q  すぐ前の説明では、親の遺伝子がそのまま子に伝わる、というふうに述べているが、不正確なのでは?
 A  その通り。親の遺伝子がそのまま子に伝わる、ということはない。子は、父または母の遺伝子を、そのまま引き継ぐわけではなくて、半分ずつだけ引き継ぐ。だから、先の説明は、正確には、「減数分裂」を考慮して、修正するべきだろう。
 ただし、そういうふうに細かく説明すると、話が煩雑になる。だから、すぐ前の記述はあえて修正しないで、ここで注記しておくだけにする。

 Q  それはそれとして、正確に言うとどうなる?
 A  詳しく言おう。メンデルの法則では、「減数分裂」という原理が働いている。つまり、子は、両親の遺伝子を半分ずつ引き継ぐ。このことが、非常に重要だ。
 実を言うと、「遺伝子」という概念は、メンデルの独創ではない。「物質に原子があるように、遺伝の要因にも分割不可能なもの(アトム)があるはずだ」と想定することは、かなりたやすい。だからメンデル以前にも、「遺伝子」という概念を導入した人はいた。しかし、彼らは全員、実証に失敗した。メンデルだけが、実証に成功した。
 ではなぜ、メンデルだけが、実証に成功したか? それは、「減数分裂」という原理を正しく理解したからだ。「減数分裂」では、子は、両親の遺伝子をそっくりそのまま受け取るのではなくて、半分ずつの遺伝子を受け取る。そのとき、どの半分になるかは、確率的に半々となる。親の特定遺伝子が「Aa」という一対であるとき、子が受け継ぐ遺伝子が「A」か「a」かは確率的に半々となる。
 メンデルは、そう考えた。だからこそ、「遺伝子」の存在を実証することに成功した。一方、「減数分裂」ということを考えなかった人々は、「両親の遺伝子をそっくりそのまま受け継ぐ」と思ったので、「遺伝子」の存在を実証することに失敗した。──ここでは、「減数分裂」ということが決定的に重要なのだ。
 とすれば、進化を考えるときにも、「減数分裂」というものを、深く考慮することが、絶対に必要だ。しかるに、従来の説では、このことをまったく無視している。ダーウィンの「自然淘汰」という概念には、「有性生殖」や「減数分裂」という概念はまったく抜けている。ドーキンスの「利己的な遺伝子」という説に至っては、「遺伝子は自己増殖を目的とする」と唱えているが、「有性生殖」とは逆の「無性生殖」(クローン作成)を前提としている。
 進化を考えるときには、「減数分裂」というものを考慮するべきだ。それはつまり、「有性生殖」や「性」というものを考慮するべきだ、ということだ。
( ※ 従来の進化論は、「ダーウィンの説とメンデルの説[遺伝子の存在]を合体させた」としばしば言われる。これは、とんでもない誤解である。従来の進化論には、メンデルの重視した「減数分裂」という概念が、すっぽりと抜け落ちている。正しく言えば、従来の進化論は、「ダーウィンの説とメンデルの説の半分を合体させた」のであり、「メンデルの説のもう半分については忘れてしまった」のである。そういう大いなる欠陥があるのだ。)

 Q  進化において、「減数分裂」や「有性生殖」というものを考慮すると、どうなるか?
 A  クラス進化論になる。実は、クラス進化論における「クラス交差」や「遺伝子の集中」という概念は、本質的には、「減数分裂」や「有性生殖」という概念と、同等なのである。
 これまで、「クラス交差」や「遺伝子の集中」という概念を示したが、これは、物事の核心を示すために、図式ふうの原理として示したものだ。理科系の科学者には、そういう抽象化した図式ふうの原理がわかりやすいだろう。ただ、同じことを示すにも、文科系の一般人には、俗っぽい具体的な説明の方がわかりやすいだろう。そこで、言い換えておこう。「クラス交差」や「遺伝子の集中」とは、本質的には、「性」のことなのだ。
( ※ 「性」が、「減数分裂」や「有性生殖」を意味する。)

 Q  「減数分裂」や「有性生殖」は、進化においてどう影響するか?
 A  「遺伝子が変化していく」という進化において、突然変異よりも交配が大きな影響をもつ、とわかる。このことを順に示そう。
 まず、従来の考え方では、遺伝子が変化していく過程は、次の図式のようになる。( A に添え字を付けて A3 のように書いてもよい。)

     AAAA  →  BAAA  →  ……

 こういうふうに示すと、「 A 」→「 B 」という遺伝子の変化は、「突然変異によって起こった」と考えるのが自然だろう。
 しかし、である。ここに「有性生殖」という概念を導入すると、遺伝子の変化は、突然変異によらなくても、交配があればいい。ただし、交配がどう関与するかを、正確に示すには、「減数分裂」という考え方が必要である。
 有性生殖をする生物では、遺伝子は一対ある。だから遺伝子の変化は、次の図式で書ける。


     AAAA     BAAA
           →        →  ……
     AAAA     BAAA

 ここでは、「AAAA」をダブルでもつ個体集団から、「BAAA」をダブルでもつ個体集団へと変化していく過程がある。それは、どういう過程か? 実は、この過程で、「減数分裂」が影響するのである。
 「AAAA」をダブルでもつ個体集団のなかで、「BAAA」をシングルでもつ個体が登場する。そのあと、「BAAA」をシングルでもつ個体同士が(親として)交配することで、「BAAA」をダブルでもつ個体が(子として)誕生する。かくて、「AAAA」をダブルでもつ個体集団から、「BAAA」をダブルでもつ個体集団が誕生する。それが、上の図式の意味することだ。
 ただし、こういうふうに遺伝子についてはダブルの形で考慮することが正確ではあるとしても、シングルの形で考慮することが不正確だというわけではない。すでに示した「概要」では、遺伝子がダブルの形になることについては考慮していない。図式でも、「BAAA」というふうに、シングルの形で示している。それはそれで、不正確というわけではない。なぜか? 基本的には、ダブルの遺伝子は同じものが二つあるわけだから、一つにまとめて、シングルの形で扱ってもいいのだ。
 というわけで、「AAAA → BAAA」というふうに、シングルの形で示しても、別に問題はない。ただし、その移行の途中過程では、ダブルのうちの一方だけが異なっていることがある。だから、途中過程では、遺伝子がダブルであることについて考慮するべきだ。一方、途中過程以外では、遺伝子がダブルであることについていちいち考慮しなくてもよい。
( ※ ただし、いちいち考慮しなくても、頭の隅には入れておく必要がある。遺伝子の二重性をまったく無視していいわけではない。従来の説は、遺伝子の二重性をまったく無視している[交配を無視している]から、そこに根本的な難点がある。)
( ※ なお、上の図式では、遺伝子の変化は、直列的に進むように示している。これは、便宜上のことであって、本当は、直列的でなく並列的に進む。……ただし上の話では、直列と並列をあえて区別する必要はない。つまり、このことは気にしなくていい。)

 Q  従来の説でも、有性生殖の利点について言及しているが。
 A  それは、「遺伝子の二重性によって、遺伝子のエラーから守る」ということだけだ。しかし、このことのためなら、有性生殖は必要ない。無性生殖のまま、二倍体になればいいだけだ。
 有性生殖の本質は、あくまで、「減数分裂」である。つまり、両親から半分ずつの遺伝子を受け取って、「新たな組み合わせを生じること」である。(なお、それは、交配によってなされる。)

 Q  「減数分裂」については、以上の説明で十分か?
 A  とんでもない。以上で示したのは、ごく簡単なことだけだ。理論の全体は、もっと複雑な事情にあるので、とうてい簡単に説明しきれることではない。以上では、ごく簡単に触れておいたが、まったく不十分である。詳しいことは、本編や続編を読んでもらうしかない。
 たとえば、「優性遺伝」「劣性遺伝」の問題がある。遺伝子をダブルで考えると、途中過程では、一対の遺伝子が異なる場合がある。しかも、一対の遺伝子が「優性遺伝」「劣性遺伝」の関係にあることがある。
 ここで特に重要なのは、新たな遺伝子(B)の方が「劣性遺伝」である場合だ。劣性遺伝であれば、その形質は発現しない。発現しないまま、集団のなかにひろがる。そして、あるとき、その遺伝子(B)を二つとも備えたせいで、その遺伝子(B)の形質が発現することがある。そして、その形質が有利であると、その遺伝子(B)が急速に拡大していくことになる。
 こういうふうに、「劣性遺伝」ということが非常に重要な影響を及ぼすことがある。ただし、こういうことを考えるには、そもそも、「減数分裂」ということを考慮することが必要だ。「減数分裂」を無視して、「突然変異」と「自然淘汰」だけで進化を考えるのでは、話がまったく不正確になる。
 とにかく、進化を考えるときには、「減数分裂」や「有性生殖」を、話の基本に据えることが必要だ。これなしには、話がまったく進まない。
( ※ 続編では、分子生物学のことにも言及する。ただ、その前に、「クラス交差」や「遺伝子の集中」という概念を、あらかじめ導入しておくことが必要であるわけだ。「クラス交差」や「遺伝子の集中」という概念を導入しないと、「減数分裂」や「有性生殖」を無視してしまう。すると、その先でいくら分子生物学的に考えても、話が不正確になってしまうのだ。そういうのは、分子生物学的な考察であるとしても、無性生殖の生物における話になってしまうので、有性生殖をする生物の話にはならない。無性生殖と有性生殖とは、事情がまったく異なるのだが。 → カンブリア紀の爆発

 Q  性は生物にとって大切なのか?
 A  イエス。性の目的は、「子孫を滅亡させないため」ではないし、「遺伝子の自己増殖のため」でもない。そのためだけなら、無性生殖でも十分だ。
 性とは、進化のためにあるのだ。性があるからこそ、生物は進化できた。初めに、性のない生物と、性のある生物があった。その後、性のない生物は進化しなかったが、性のある生物は進化できた。だからこそ、今日、進化した生物はどれもこれも、性があるのだ。進化において、性とは、かくも重要な意味をもつのだ。
 鳥類も哺乳類も、すべての高等生物がやたらと性的行動をするのは、ちゃんと理由がある。それらは、やたらと性的行動をするからこそ、今日のような発達した姿に進化できたのだ。性とは、生物の本質なのだ。換言すれば、性を無視する限り、生物の本質を理解できない。
 性は進化を通じて、生物に大きな影響をもたらした。──このことを説明しようとすると、話があまりにも大きくなりすぎて、ここにはとうてい書ききれない。だから、この問題は、別のところ[続々編]で記述する。今はとりあえず、予告編のような形で、いくらか言及しておくだけに留める。
( ※ それでも少しだけ、哲学的な話を加えておこう。人間が「愛」というものをかくも重視するのは、決して、単なる「性行動」としての「性」のためではない。その底には、生物である人間としての本質があるのだ。「愛」を知り、「性」を知ることは、人間が人間である本質を知るということなのだ。「性」とは決して、単なる繁殖のためにあるのでもなく、人間を獣レベルに落とすためにあるためにあるのでもなく、人間の本質を規定するためにあるのだ。)

 Q  性は、子孫を残すために存在するはずだ。性行為は、子孫を残すために行なうはずだ。どの本にもそう書いてあるから、そうに決まっている。
 A  違う。「進化論全体の展望の (3) 」に示したように、遺伝子の意味は、親にとって子を残すことではなくて、子にとって自分を誕生させることだ。とすれば、性もまた、同様だ。親にとって子孫を残すことが大切なのではなくて、生まれる子孫にとって自らを誕生させることが大切なのだ。
 たとえば、あなた自身は、どうか? あなたにとって子を残すことが大切だから、あなたが性行為をなすのではない。あなたにとってこの世に誕生することが大切だから、あなたの親が性行為をなしたのだ。
 では、あなたの親は、なぜ、性行為をなしたのか? 性行為は、自分自身のためにはならず、子のためになるだけなのに、なぜ、そんなことをなしたのか? 生物が単なる利己主義で行動すると考える限り、この問題を解決することはできない。とすれば、そこには利己主義を超えた何かがあるはずだ。
 その何かを「愛」と呼んでもいい。親が子を大切にし、雌雄のそれぞれが異性を大切にするのは、「愛」があるからだ。それは生物に根本的に備わっている本質であり、利己主義を超えたものだ。そういう利己主義を超えたものが、生物を誕生させ、生物を進化させ、それぞれの生物の本質を規定する。
 従来の進化論は、「生物の本質は利己主義だ」と主張する。クラス進化論は、「生物の本質は愛と性だ」と主張する。

 Q  「生物の本質は利己主義だ」という主張は、まったくの間違いなのか? 生物に利己主義があるのは、事実だと思えるが。
 A  たしかに、生物に利己主義があるのは、事実である。問題は、それが本質であるかどうか、ということだ。
 「利己主義/利他主義」というふうに、単純に二項分類するのであれば、生物は「利他主義」とは見なされない。たとえば、自分で獲得した食物を、まったくの他者にプレゼントすることはない。そんなことをすれば、餓死するだけだ。しかし、完全な利他主義ではないからといって、完全な利己主義であることにはならない。
 仮に、生物が完全な利己主義であるとしよう。ならば、他者を皆殺しにしようとするはずだ。特に、ドーキンス流に、「自己の遺伝子を増やそうとする」のが原理であれば、他者を皆殺しにすることが、最善の戦略である。ダーウィン流であっても、他者を皆殺しにすれば、それだけ、そのような個体の生存する確率が高まるわけだから、そういう個体ばかりが増えるはずだ。
 かくて、「利己主義」を淘汰の原理とすれば、「他者を皆殺しにする」という遺伝子をもった個体だけが残るから、どの種でも、個体はたがいに殺し合うはずだ。
 ところが、現実には、そうではない。個体同士の縄張り争いは、しばしば見られるが、常に、相手に致命的な攻撃を加えない段階で、勝負がついた時点で、終了する。このことは、ほとんどすべての生物種で観察される事実だ。(例外は霊長類の一部だけだろう。)
 結局、こうだ。「利己主義」を原理とすれば、「殺し合い」が結論となる。しかしそれは生物的な事実に反する。ゆえに、「利己主義」は、生物の原理とはならないし、生物の本質でもない。

 Q  利己主義は、殺しあいをするほど激しくあるわけではないとしても、少しぐらいはあると思えるが。
 A  もちろん、利己主義は、少しぐらいはある。しかし、それは、「自己を生存させる」(自己防衛)という意味でだけあるのであって、「自己のために他者を犠牲にする」(他者攻撃)という意味であるのではない。
 なぜか? 仮に、他者に損失を強いるような個体だらけだとすれば、個体同士で生死を賭けた闘争することになる。だから、その種は滅んでしまいやすいのだ。
 結局、どういうことか? 「利己主義には生物に備わっていない」と言っているわけではない。自己防衛本能としての利己主義は、生物にとって有益であるから、生物に備わっているだろう。私が言いたいのは、「利己主義」と「利他主義」だけで片付けようとする考え方は、あまりにも単純すぎる、ということだ。生物には、自己防衛としての利己主義もあるし、同時に、身近な他者への利他主義ないし博愛もある。これらのうちの一つだけを基本原理としてすべてを説明する、という極端な考え方を、私は否定しているわけだ。
 たとえて言えば、「人間の本質は金儲けだ」というような極端な一元主義の主張を否定している。なるほど、人間には、金儲けをしたい気持ちもあるだろう。しかし、だからといって、それがすべてではない。
 利己主義というのは、しょせんは、生物の形質を示す概念の一つであって、基本原理ではないのだ。この意味で、従来の進化論を否定している。
( ※ ついでに言えば、「人間の本質は金儲けだ」という主張も否定している。金儲けだけを目的として生きる人々もいるだろうが、そういう人々は、生物としては、不完全な出来損ないなのである。)

 Q  従来の進化論は、進化の原理に、利己主義を据えているが。
 A  そういう考え方を、クラス進化論は否定する。
 個体は、利己主義にもとづいて生存競争をすることなど、ありえない。仮に、利己主義にもとづいた生存競争があったとしても、それによって起こるのは、ダーウィン流の進化、つまり、小進化だけである。 ( → 場合分け
 大進化は、有性生殖(クラス交差)によって起こる。そこで働く原理は、「親の愛」や「異性の愛」である。親が自分のためでなく子のために育児したり、オスが自分のためにレイプするのでなくメスのために求愛行動などをすることである。そういうふうに、自己のためよりも他者のために行動することがあるからこそ、大進化が起こったのだ。
 ドーキンスなどの説が正しいとすれば、生物は、現状では、殺害と泥棒とレイプだらけであったはずだ。また、将来では、人類は、自己の遺伝子を100%残すために、どれもがクローン人間になるだろう。それこそが最良の状況だ、とされるからだ。しかし、私の説が正しいとすれば、クローンという無性生殖には愛がないゆえに、それこそは最悪の状況なのである。そこでは、愛のかわりにエゴイズムだけが横行するから、各人は自分の遺伝子だけを残そうとして殺し合うことになる。かくて、その種は絶滅するだろう。
 今日、あらゆる生物が絶滅せずに生存できているのは、利己主義ではなくて愛があるからだ。愛こそは、進化したあらゆる生物の本質なのだ。

 Q  利己主義によって小進化があるなら、その小進化が積み重なって、大進化になるのでは? 従来の進化論は、そう主張しているが。
 A  そういう主張を、クラス進化論は否定する。
 小進化が積み重なって大進化になることなど、ありえない。たとえば、節足動物であれ、魚類であれ、両生類であれ、爬虫類であれ、何億年も前から、ほとんど同じ形質を保っている。これらは、何億年もたっているのだら、小進化を積み重ねたすえ、大昔のものとはまったく異なった形質をもっていていいはずだ。しかるに、ほとんど同じままである。肺魚であれ、シーラカンスであれ、サンショウウオであれ、大昔からほとんど変わっていない。ごくわずかな形態の差があるだけだ。
 要するに、小進化の積み重ねでは、進化はほとんど起こらないのだ。それが厳然とした事実である。
 大規模な進化は、「小進化の積み重ね」という形では、起こらないのだ。大規模な進化は、「新種の誕生」という形でのみ起こるのだ。そして、そのためには、有性生殖が不可欠なのである。

 Q  生命の本質は、何か。自己増殖か? 自己保存か?
 A  そのどちらでもない。
 「自己増殖」ならば、生命以外にも見られる。たとえば、火事における火の拡大。原爆における核分裂。太陽における核融合。岩崩れにおける崩壊の拡大。ドミノ倒し。
 「自己保存」ならば、たいていの無機的な物質において成立する。そもそも、遺伝子の「自己保存」を言うまでもなく、原子や分子そのものに、「自己保存」という性質がある。
 要するに、自己増殖または自己保存は、生命の本質とは何の関係もない。ところが、これを生命の原則と見なすと、「利己主義」という概念にたどりつく。
 物理学では、さまざまな物質は、放置すると最も安定的な状態に落ち着く。それと同じように、自由放任で利己主義を最大化させると、生物もやはり最も安定的な状態に落ち着くだろう。……こう考えるわけだ。(ポテンシャルという概念を用いる。) これは、いかにも科学的な思想と思えたので、多大な支持を集めた。しかし、それはしょせん、生物を無生物として扱う考え方にすぎない。そこでは生物の本質が見失われている。
 生物と無生物の根元的な違いは、何か? それは、エントロピーという概念を使うと、わかりやすい。無生物は、放置すれば、エントロピーが増加する。つまり、乱雑化する。一方、生物は、放置すれば、エントロピーが低下する。つまり、秩序化する。──ここに、生物と無生物を区別する本質がある。
 では、なぜ、生物では、エントロピーが低下するのか? 生物には、そのように秩序化する方向性があるのだ。そして、それがどんな原理であるかを知ることが、生物とは何かを知るということだ。
 無性生殖の生物では、その原理は、ただの自己増殖である。それは「自己の複製を作る」という形で進行する。
 有性生殖の生物では、その原理は、愛と性である。それは「自己の複製を作ること」ではなくて、「自己以上のものを作ろうとすること」である。それは個体同士の密接な関係によってなされる。
 生物は、無性生殖の段階では、無生物としての結晶と大差はなかった。ウィルスなどの増殖も、雪などの結晶の拡大も、ほぼ似たようなものであった。ところが、有性生殖の段階になると、単なる自己複製を超えて、自己以上に高度なものを作ろうとするようになった。それが進化である。──かくて、生命の本質と進化とは、深く結びついているのである。
 生命の本質は、愛と性である。それは、単なる心理的なものではない。それは、生命がいっそう秩序を増そうとする原理、つまり、生命がいっそう生命らしくなる原理なのだ。そして、だからこそ、愛と性を発揮しているときに、人は誰しも、自分が最も人間らしさを発揮していることを実感するのである。

 Q  親が子を大切にするのは、単に、自分の遺伝子を残したいだけだろう。
 A  ドーキンスなどは、そう主張する。しかし、この説は正しくない。
 第1に、「自分の遺伝子」なんていうものは、存在しない。生物にはたくさんの遺伝子があるが、そこには特定の形質の遺伝子があるだけであり、「自分の遺伝子」なんてものは存在しない。
 第2に、「自分の遺伝子」ではなくて、何があるかと言えば、「自分のもつ遺伝子と同じ遺伝子」である。しかしそれは、個体に備わるものではなくて、種全体に備わるものだ。たとえば、「青い瞳の遺伝子」というものがある。この遺伝子は、特定の個体に備わっているのではなくて、種全体(人間全体)に広く分布している。だから、青い瞳の親としては、自分の子供を大切にする必要はなく、青い瞳をした他人の子供を大切にしてもいいはずだ。「同じ遺伝子を残す」のが大切であるとすれば、そういう結論が出る。……しかしこれは、事実に反する。親は、自分に似ていようが似ていまいが、自分の子供を愛するものだ。また、異性同士で言えば、自分に似ている異性よりは、あえて自分に似ていない異性を求めることも多い。なぜなら、相手は、自分には無いものをもっているからだ。(ドーキンス説では、「醜い自分と同じように、醜い配偶者を求める」となるはずだが。)
 第3に、自分と共通する遺伝子の量を調べるのであれば、自分の子供も、他人の子供も、どちらも自分にそっくりである。あなたの子供も、他人の子供も、どちらもあなたとは、99.9%以上が一致している。チンパンジーと人間でさえ、遺伝子は約99%も一致しているのだから、人間同士であれば、遺伝子は99.9%以上が一致している。残りの0.1%未満の微妙な差異だけを、いちいち調べて、あなたは態度を決めているわけではない。だいたい、そんな微妙な差異は、知りたくても、よくわからない。
[ ※ 注釈しておく。「血縁淘汰説」では、赤の他人と自分とで、遺伝子の共通性は0%だとされるが、これは、とんでもない間違いである。赤の他人と自分とで、遺伝子の共通性は99.9%以上である。残りの0.1%未満の部分だけに着目しても、二人の遺伝子セットの共通集合は空集合とは限らない。だから、赤の他人が自分にそっくりな遺伝子セットをもつことは、たまにある。「世の中には自分にそっくりな人間が何人かいる」という説は、たしかに成立する。]
 第4に、個体よりも遺伝子が本質的であるなら、(配偶者の遺伝子を引き継いで)黒い瞳をしたわが子よりは、青い瞳をした他人の子の方を大切にしていいはずだ。親に似ていない子供などは、よくいるし、自分にそっくりな他人の子供も、いくらかはいる。だから、自分にそっくりな他人の子供を、自分の子供よりも、大切にしていいはずだ。……しかし、そんなことは、ありえない。
 第5に、自分に似ている子供を大切にするのだとすれば、親としては、最適の戦略がある。それは、配偶者を変えながら子供を非常にたくさん産んで、そのなかで自分に最も似ている子供だけを大切にして、他の子供を殺すことだ。それこそ、遺伝子としては最適の戦略なのだ。(これは人為的な「自然淘汰」のようなものだ。)しかし、親が子殺しをするということは、原則としてありえない。
 第6に、遺伝子を残すためであれば、それぞれの個体は、自分の子供だけを大切にするはずであり、自分のを邪魔に思うはずだ。かくて、親を大切にするどころか殺すはずだ。親を一人多く生かすよりは、親を殺して子を一人多くする方が有利だからだ。しかし、そんなことは、まずありえない。

 以上に、六つの理由を述べた。いずれにしても、「自分の遺伝子を増やすため」という原理では、説明できない。しかし、である。その六つとも、「愛ゆえ」という原理でなら、説明できるのだ。自分に似ていようが似ていまいが、ただ「自分の子である」ということだけで、親は損得なしに愛する。
 そうだ。生物の原理は、損得ではなくて、愛なのだ。愛ゆえに、個体は自分にとって損であることも、あえて行なうのだ。愛する子のためであれば、自分の命さえ投げ出すのだ。男が女のために命を投げ出すのは、彼と同じ遺伝子を女がもっているからではなくて、彼が女を愛するからなのだ。
 ただし、反論する生物学者もいるだろう。
 「なぜ、損であることをするんだ。損であることをする個体ばかりだと、損ゆえに、滅びてしまうはずだ」
 と。しかし、こう主張する人々は、他者から受けた愛のことを忘れてしまったのだろう。
 生物は、自分にとって損であることも、あえて行なう。そして、その無償の愛を受けて、それぞれの生物は育まれていくのである。それぞれの個体が、利己主義ではなくて愛の行動を取るから、種全体としては、非常に有利になるのである。
 無性生殖の生物は、自分の利益のためだけに、行動する。有性生殖の生物は、自分の利益を超えて、他者(子や配偶者)への愛のために、行動する。それゆえ、有性生殖の生物は、全体としては、非常に大きな利益を得るのである。
 人は、愛し、愛されたとき、最も幸福になる。他人に何も与えない人は、他人からも何一つ受け取れないので、不幸になる。愛のために生きる人間は幸福であり、利益だけのために生きる人間は不幸である。……こんなことは、誰でも知っている。しかし、従来の進化論を信じる人々だけは、あくまで利己主義を唱えるので、生物の真実を理解できないのである。つまり、「生物の本質は愛だ」ということを。

 Q  文学的な表現だと、科学的に感じられない。「生物にとって愛が大切だ」というのなら、そのことを、数字で示してほしい。
 A  簡単だ。「ゼロサムか否か」という形で区別すればいい。( Sum = 総和。これを数える。)
 利己主義とは、「ゼロサムにおける配分の変更」である。たとえば、利益の総計が一定であるときに、各人は、少しでも多く取ろうとして、競争する。すると、力の強いものが勝ち、力の弱いものが負ける。「だから、力の強いものが増えていく」という思想が、ダーウィン説である。経済学における古典派の主張も同様だ。(増えた分と減った分の差し引きがゼロであることを、ゼロサムという。)
 愛とは、「ゼロサムではなくて、サムの増大」である。各人は、奪いあうのではなくて、与えあう。他人同士ならば、自分が1を与えて、相手が1を受け取ると、相手はうまく1を得するが、自分はみすみす1を損する。友人同士ならば、自分が1を与えても、相手が1を与えてくれるので、各人は損得なしだ。愛しあうもの同士であれば、自分が1を与えると、相手も1を与えてくれるが、相手の与えてくれるものは、1でなく2の価値があるから、全体を見ればサムが増える。
 たとえば、優しい言葉であれ、優しい心遣いであれ、与える方は少しの手間がかかるだけだが、受け取る方は大きな幸福を得る。親にとって子を育てることは、大きな手間ではないが、育ててもらう子にとっては、死活的に重要なことである。このようにして、愛のある生物は、与えあうことによって、サムを増大するのである。
 「利己主義こそ大事だ」と信じる人々は、目先の小さなことばかりを考えていて、全体的な「サムの増大」ということを理解できないわけだ。それはつまり、生物の真実を理解できないということだ。

 Q  利己主義や愛というのは、現象としてはわかるが、その原理は何か? 核心を示してほしい。
 A  「部分最適化」および「全体最適化」という概念で説明できる。
 複雑な構造体があるとする。この構造体を最適の状態にするには、どうすればいいか?
 ある人は、考えた。「いきなり全体をいじるのは、難しい。だから、全体を固定した上で、一つずつ最適化しよう。まず、一番目だけを最適化する。次に、二番目だけを最適化する。次に、三番目だけを最適化する。こうして順々に一つずつ最適化していけば、全体も最適化するはずだ」と。……これは、「部分最適化は全体最適化をもたらす」という発想だ。
 この方法でうまく行くことは、かなり多い。たとえば、一つのチームを作るとき、「最高の投手」「最高の捕手」「最高の一塁手」「最高の二塁手」……というふうに順々に最高の選手を取りそろえていけば、最高のチームが作れるだろう。(「ベストナイン」というのがそれだ。)
 しかし、この方法は、あらゆる場合に適用されるとは限らない。例外は、ゲーム理論の「囚人のジレンマ」が成立する場合だ。もっと一般化すれば、「ナッシュ均衡」が成立する場合だ。これらの場合には、「部分最適化は全体最適化をもたらさない」というふうになる。
 生物における「利己的行動/愛」もまた、後者の枠組みで理解できる。
 一方、前者の枠組みで理解しようとする立場もある。つまり、「個人が自分にとって最善を選択すれば(利己的になれば)、全体にとっても最善になる」という発想を取る立場だ。(「自然淘汰」、「利己的遺伝子」、古典派経済学の「パレート最適」などは、いずれも、こういう発想を取る。)
 しかし、このことは、生物においては必ずしも成立しない。親が自分だけのために行動するよりは、親が(他者としての)子のために行動する方が、全体にとっては最適になるのだ。
 個体は、子供時代には愛を受け、成長後には愛を与える。受け取る量と、与える量は、量的には同じであるが、価値が異なる。同じ量でも、受け取るときには大きな利益があり、与えるときには小さな損失があるだけだ。かくて、愛を通じたやりとりをすることで、全体の最適化がなされる。……ここでは、利己主義に基づく「部分最適化」は、「全体最適化」をもたらさないのである。
( ※ これは数学的な原理である。細かなことは数学的にあれこれと研究することもできる。「ナッシュ均衡」「曲率」「ポテンシャル」などの概念を用いて研究できる。)
( ※ おもしろい例として、先のベストナインのチームがある。それぞれで最強の選手をそろえても、各人がわがままな選手ばかりであったなら、チームはガタガタになってしまう。また、ホームランバッターばかりを集めたチームよりは、出塁率の高い選手のいるチームの方が、得点は高い。前者はソロホームランばかりだが、後者は3点ホームランなどが出るからだ。こういうふうに、「部分最適化」と「全体最適化」は異なるのだ。)
( ※ 生物で言えば、生涯の各時期における「部分最適化」は、生涯すべてにおける「全体最適化」をもたらさない。繁殖期には是非とも、「部分最適化」を抑制する必要がある。オスは自分にとって損であっても、メスに奉仕する必要があり、親は自分にとって損であっても、子に奉仕する必要がある。その仕組みが「愛と性」である。これゆえ、自分には損なことをしても、自分にとって得なことをしたと感覚するようになる。)
( ※ なお、「全体最適化」は、すぐ前の「サムの増大」と同じことである。)

 Q  利己主義による説明がおかしいというのなら、具体的な例を示してほしい。
 A  二つの例を示そう。次の (1) (2) だ。
 (1) 子殺し
 「子殺し」は、従来の説では、どうなるか?
 ダーウィン説では、「子殺し」は、好ましいはずだ。どうせ種全体では、他者の子が生まれるのだから、種全体は滅びるわけではない。だったら、親は、自分だけが利益を得ればいいから、自分の子の世話など、しない方が得である。
 ドーキンス説では、「子殺し」は、愚かしいことである。そんなことをすれば自分の遺伝子を残せないので、損になる。なのに、そう理解できない愚か者だけが、子殺しをすることになる。
 私の説では、「子殺し」をするのは、愚か者ではなくて、「愛」のない者である。その個体は、頭が愚かなわけではなくて、生物としての基本が壊れているのである。どんなに利口であっても、生物として欠陥品であれば、「子殺し」をすることがある。
 (2) オイディプス
 ギリシア悲劇に「オイディプス」という物語がある。彼は、父親を殺し、母親とまぐわいをした。そのことに気づいたとき、狂乱状態になった。これを、どう解釈するか?
 ダーウィン説では、オイディプスは賢明である。父親を殺したのは、もはや役立たずの年寄りを殺したことになるので、自分の利益になるからだ。
 ドーキンス説でも、オイディプスは賢明である。母親とまぐわいをすれば、自分の遺伝子と同じ遺伝子をたくさん残すことになる。だから、見知らぬ娘とまぐわいをするよりは、ずっと賢明である。
 私の説では、オイディプスは、賢明でもないし愚かでもない。彼は、得をしたわけでもなく、損をしたわけでもない。では、彼は、何をしたか? 生物の原理に反したのである。それゆえ、根源的な苦悩にさいなまれ、狂乱状態になったのだ。

(付記しておこう。「オイディプス」という物語は、ギリシア悲劇で最高峰であるとされる。なぜか? そこでは、人間性の根源となる問題が提示されているからだ。人は、生物の原理に反したとき、根源的な苦悩にさいなまれる。仮に、オイディプスが、人間性を失ったのでなく、金を失っただけであるならば、彼はちょっと悲しむだけで済んだだろう。……人間の本質は、人間性にあるのであって、利益にあるのではない。そのことを理解しよう。)
(結局、生物の原理を利己主義と見なすことは、生物の本質を見失うことなのだ。)

 Q  血縁淘汰説は、「利己主義」を原理として、ミツバチの利他的行動を見事に説明したのでは?
 A  ハミルトンの血縁淘汰説は、たしかに、ミツバチの利他的行動を見事に説明した、と見なされている。しかし、これは、完全な誤りである。
 血縁淘汰説によれば、働きバチの血縁度(遺伝子の共通度)が決まる。第1に、自分の子と自分とは、50%である。第2に、自分の妹と自分とでは、50%と100%の平均で75%である。このことから、「自分の子を育てるよりも、自分の妹を育てる方が、自分の遺伝子を多く残せる」と結論する。
 多くの人は、この説を聞いて、「なるほど」と思った。ドーキンスの「利己的遺伝子」説もまた、同じ論拠を取る。しかし、実を言うと、この論拠は、完全に間違っている。なぜか? 世代を考えていないからだ。
 自分の子は、自分の次の世代である。自分の妹は、自分と同じ世代である。この両者を単純に比較するのはおかしい。
 わかりやすく言おう。双子の兄弟がいる。この双子は、遺伝子的に同一である。とすれば、この双子は、自分の子(血縁度50%)を育てるよりも、自分の兄弟(血縁度100%)を育てる方が、有利だろうか? もちろん、そんなことはない。双子はたがいに、同じ世代である。同じ世代のものを育てても、次の世代を残すことにはならない。
 ミツバチでも、同様だ。自分の妹が、自分とよく似た遺伝子をもっているとしても、しょせんは自分と同じ世代に属するのだから、自分の子とは比較の対象にならない。自分の子と、妹とを、比較しても、比較する意味がない。どうせ比較をするのならば、自分の子と、妹の子とを、比較するべきだ。(異なる世代のもの同士で比較しても意味がなく、同じ世代のもの同士で比較するべきだ。)
 血縁淘汰説がおかしいのは、普通の哺乳類でもわかる。親子(血縁度50%)も、兄弟(血縁度50%)も、血縁度は同じである。とすれば、自分の子と、自分の兄弟を、同じように大切にしていいはずだ。親は、自分の子にせっせと餌をあげるのと同じように、自分の弟や妹にせっせと餌をあげていいはずだ。……矛盾。
 こういう矛盾がある。だから、血縁淘汰説というのは、根源的に狂った思想なのである。「利己主義」を原理とする思想は、完全に破綻しているのだ。
( ※ その他、「血縁度を高めるには、近親相姦をすればいいから、近親相姦をするはずだ」という矛盾もある。この件は、別に述べた。)
( ※ では、正しくは、どうなのか? 親が子に餌をあげるのは、子がそうしてもらうことを必要としているからなのだ。そして、その必要を満たすということが、「愛」なのである。)

 Q  血縁淘汰説によれば、ミツバチでは、働きバチ同士の血縁度は75%だ。どうしてそんなふうに、うまいことができるのだろうか? 人間も、自分の子に、自分の遺伝子の75%を伝えることはできないのだろうか?
 A  それを「うまいこと」と考えること自体が、根本的に間違っている。
 第1に、前項で述べたように、(働きバチの)姉妹同士では血縁度が75%だとしても、姉妹同士は同じ世代に属するのだから、姉妹同士で助け合っても、次の世代に遺伝子を残すことにはならない。同じ母親から生まれた姉妹同士の間で、血縁度が高いとしても、双子がたくさん生まれているようなものである。双子のようなものがどんなにたくさん増えても、そんなことでは、次の世代へと、自分の遺伝子を多く残すことにはならない。だからミツバチの姉妹間の血縁度の高さは、ちっとも「うまいこと」ではないのだ。
 第2に、血縁度というものは、相対的な比率にすぎない。大事なのは、相対的な比率ではなくて、(遺伝子の)絶対的な個数である。人間では、親から子へは、二つある遺伝子のうちの一つだけが伝わる。ミツバチでも、母親から子へは、二つある遺伝子のうちの一つだけが伝わる。ただし、父親は一つしか遺伝子をもっていないので、一つだけがそのまま伝わる。父親側の遺伝子については、親から子に伝わる比率は、2分の1ではなく、1分の1となる。それゆえ、2分の1と1分の1の平均で、75%という血縁度となる。しかしこれは、「親が自分の遺伝子をたくさん子に伝える」というわけではないのだ。伝えられる遺伝子の個数は、あくまで、1個である。ただし、父親の側が、もともと遺伝子を1個しかもっていないので、相対的なパーセントでは、75%という高い数値になるだけだ。
 なお、ここでは、父親の側は、減数分裂をしていないわけだから、無性生殖をしているのと同様である。ミツバチは、いわば、有性生殖と無性生殖の混合をなしているわけだ。そして、それは、「うまいこと」ではなくて、「まずいこと」なのである。なぜなら、無性生殖は、劣った方法だからだ。無性生殖は、血縁度が100%である。それは、「うまいこと」ではなくて、「まずいこと」なのである。ここのところを根本的に誤解すると、「血縁度が高いと、自分の遺伝子を多く残せるので、好ましい」というふうに、誤った結論を出すことになる。
 そもそも、「自分の遺伝子を多く残せる」というのは、「他者の優れた遺伝子を取り込めない」ということなのだから、進化にとっては、有利であるどころか、不利なのである。「血縁度が高いほど良いことだ」と思うのは、「無性生殖をする細菌はすばらしい」とか、「有性生殖と無性生殖の混合をするミツバチや蟻はすばらしい」とか、そう判断することになる。そのあげく、「有性生殖をする哺乳類は、細菌や蟻よりも、ずっと劣った生物である」と結論することになる。──そういうふうに根本的に狂った発想をするのが、血縁淘汰説なのだ。
( ※ では、なぜ、血縁淘汰説は、そういうふうに間違った発想をするのか? 「生物は自分の遺伝子を残したがる」とか、「生物は利己的に行動する」とか、最初の前提が間違っているからだ。間違った前提からは、間違った結論が出るだけだ。逆に言えば、間違った結論がいくつも出るゆえに、これらの前提は否定されるわけだ。)
( ※ 注記しておこう。私がここで批判しているのは、血縁淘汰説そのものではない。血縁淘汰説自体は、ダーウィン説と同様に、歴史的な意義があった。ただし、もはや過去の遺物になった血縁淘汰説を、いまだに「正しい」と信じていることが問題なのだ。)

 Q  ミツバチが「有性生殖と無性生殖の混合をする」というのは、変ではないか? ミツバチは、交配をするのだから、有性生殖をするはずだ。
 A  違う。メスは、有性生殖によって生まれるが、オスは、無性生殖によって生まれるのだ。(ただし、この無性生殖は、有性生殖をする生物の1倍体の発生である。そこで、通常の無性生殖とは区別されて、「単為生殖」と呼ばれる。)
 ともあれ、ミツバチでは血縁度が高くなるのは、子孫に遺伝子を多く残すためのうまい方法があるからではなくて、有性生殖と無性生殖の混合をしているからなのだ。血縁度50%の有性生殖と、血縁度100%の無性生殖の混合だから、血縁度75%になるわけだ。
( ※ 一般に、「血縁度は高ければ高いほど、まずい」と言える。次項参照。)

 Q  有性生殖においては、血縁度は、高い方が好ましいのか、低い方が好ましいのか?
 A  血縁度は、低い方が好ましい。つまり、血縁淘汰説とは逆のことが成立する。
 血縁度が高い交配とは、近親婚を意味する。そういうふうにして血縁度を高める交配をなすことは、好ましいことではなくて、好ましくないのである。親子や兄弟の交配は最悪であるし、親戚間の交配もあまり好ましくない。
 好ましいのは、逆に、血縁度を低くするような交配、つまり、遠く離れたグループ間の交配である。その原理を「雑種強勢」と呼ぶ。そして、そのような交配を選ぶ性向が、もともと生物には備わっているものだ。一般に、たいていの生物で、メスは、放浪して、遠くの場所のオスを選ぶものだ。なぜか? そうすればそうするほど、近親婚を避けられるから、生物として有利になるからだ。
 要するに、生物は、遺伝子の均一化を避けて、遺伝子の多様性を求める性向が、もともと備わっているものなのだ。この意味でも、遺伝子の均一化を重視するハミルトンやドーキンスの考え方は不適切であり、遺伝子の多様性を重視するクラス進化論の考え方が適切である。
( ※ 余談だが、人間でも、同様のことは言える。留学や結婚などで、女性は他国のものに憧れるものだ。かくて、集団内で、遺伝子の混合が多様に生じて、クラス交差が起こりやすくなるわけだ。)

 Q  利他的行動は、クラス進化論では、どう説明されるのか?
 A  そもそも、「利他的行動」とは、何か? ダーウィン説では、「優れた個体だけが生き延びる」と前提した。すると、ミツバチなどの行動が、「他者に有利であっても、自分には有利ではない」と見えた。これが「利他的行動」だ。これは、ダーウィン説に矛盾する。
 そこで、ミツバチなどの利他的行動を説明するために、「大切なのは、個体の利益よりも、遺伝子の利益だ」という発想が生じた。それが、ハミルトンの「血縁淘汰説」やドーキンスの「利己的遺伝子説」だ。これらの説では、「利己主義」という前提を保ったまま、「自己」というものの認識を「個体」から「遺伝子」へと変更したわけだ。
 クラス進化論では、「利己主義」という前提そのものを否定する。「生物にとっての最優先の原理は、利己主義ではない」と主張するわけだ。(かわりに「愛」を大切だと見なす。)
 では、なぜか? 利己主義は、自己にとって利益にならないからだ。そもそも、「自己の利益をめざす」ことと、「自己の利益になる」こととは、別のことである。たとえば、われわれが全員、自己の利益だけをめざして行動すれば、全員が泥棒や殺人者となるので、全員にとって不利益となる。ここでは、「自己の利益をめざさない」ことが、「自己の利益になる」という結果をもたらすのである。……そのことを数理的に示したのが、「部分最適化は、全体最適化をもたらさない」ということだ。
 生物にとって大切なのは、部分最適化ではなくて、全体最適化である。そして、その原理が、「愛」なのだ。「利己主義」は部分最適化をもたらすだけだが、「愛」は全体最適化をもたらす。このことが、有性生殖をする生物の原理なのだ。
 「利他的行動」と呼ばれるものも、この観点から理解される。「利他的行動」は、「他者にとって利益となり、自分にとっては不利益となる」と見なされやすいが、実は、そう見なすことは誤りであったわけだ。
 「利他的行動」と呼ばれるものは、本当は、自分にとって利益になるのである。ただし、そのことが成立するには、隠れた条件がある。それは、「全員がそうすれば」という条件だ。この条件が満たされる限り、「利他的行動」と呼ばれるものは、自分にとって利益になるのである。(つまり、部分最適化を捨てることで、全体最適化を得る。)
 「親が子を育てる」という行動は、特定の個体にとっては不利益であるが、あらゆる個体がそうするのであれば、その種の個体全体にとっては利益となる。ミツバチの利他的行動についても、ほぼ同様のことが成立する。(詳細は省略するが。)

 Q  ハミルトンやドーキンスの説に関して、もう少し説明してほしい。特に、遺伝子レベルで。
 A  前にも述べたとおり、「有性生殖」では、「減数分裂」がある。このことが、遺伝子レベルでは大切だ。
 ハミルトンやドーキンスの説は、「親は子に遺伝子を残す」と考えている。しかし、その前提からして誤っているのだ。なぜなら、「減数分裂」を十分に考慮していないからだ。
 「親は子に遺伝子を残す」という前提は、無性生殖では成立するが、有性生殖では成立しない。有性生殖では、「親は子に遺伝子を残す」のではなく、「親は子に半分だけ遺伝子を残す」のだ。それが「減数分裂」という原理だ。
 血縁淘汰説の難点は、血縁度の計算方法にあるわけではなく、考え方の前提にあるのだ。「親は自分の遺伝子を残すことが目的だ」とか、「親は(親の遺伝子は)自己複製が目的だ」というふうに前提する。その上で、子孫同士の「自己複製の程度」を「血縁度」という言葉で示して、「血縁度100%ならば自己複製が100%だ」とか、「血縁度50%ならば自己複製が50%だ」とか、そういうふうに考える。そして、「自己複製の程度が高い子孫(自分に似ている子孫)を優先する」と考える。……しかし、である。「親は(親の遺伝子は)自己複製が目的だ」というふうに前提は、有性生殖では、もともと成立しない。しょせんは、半分しか残せないからだ。
 「血縁淘汰説」や「利己的遺伝子説」は、無性生殖の生物には適用されるが、有性生殖の生物には適用されないのだ。
( ※ 「血縁淘汰説や利己的遺伝子説も、減数分裂を考慮しているぞ」と反論する人もいるかもしれない。そこで、注釈しておこう。血縁淘汰説や利己的遺伝子説では、血縁度を比較するときには、減数分裂を考慮している。だから、血縁度の計算そのものは、問題はない。問題は、その前提だ。血縁淘汰説や利己的遺伝子説は、「利己主義」に基づいて、「親は自分の遺伝子を残すことが目的だ」と前提して、「だから親は子を育てる」と結論する。しかし、そもそも、その前提がおかしいわけだ。実際には、「半分だけ残す」にすぎないからだ。そしてまた、「半分より多く残す」ことは、好ましいどころか、かえって好ましくないことなのである。そのわけは、近親婚だ。この件は、すぐ前に述べた)
( ※ 「自分の遺伝子を残すため」ということは、別のところでも、六つの理由で否定した。 → 自分の遺伝子

 Q  血縁淘汰説に対比して、クラス進化論では、どうなるか?
 A  クラス進化論では、「親は子に半分だけ遺伝子を残す」ことを重視する。「親は子に半分だけ遺伝子を残す」というのは、子から見れば、「片親からは半分の遺伝子をもらう」ということであり、「もう一方の片親からは別の半分をもらう」ということであり、つまり、「半分ずつ遺伝子をもらって組み合わせる」ということである。
 この「半分ずつの遺伝子を組み合わせること」を意味するのが、「交配」という概念だ。そして、この概念をうまく定式化すると、「クラス交差」という概念になる。
 ハミルトンやドーキンス流の前提に立てば、「有性生殖では、片親からは半分しか遺伝子をもらえないので、遺伝子の自己複製のためには不都合だ」ということになる。ここでは、「親にとって不都合だ」となるので、「親にとっては、有性生殖よりも無性生殖の方が望ましい」という結論が出る。
 クラス進化論の前提に立てば、「有性生殖では、片親からは半分しか遺伝子をもらえないので、両方の遺伝子をもらうことができて、クラス交差のためには好都合だ」ということになる。ここでは、「子にとって好都合だ」となるので、「子にとっては、無性生殖よりも有性生殖の方が望ましい」となる。
 前者の考え方では、親にとって、「完全な自己複製が理想だ」となるので、「進化が起こらないことが目的だ」となる。
 後者の考え方では、子にとって、「親以上のものとして誕生することが理想だ」となるので、「進化が起こることが目的だ」という結論が出る。
 二つの考え方は、このように、まったく正反対のものとなる。

 Q  「親にとって」「子にとって」という違いは、大切なのか?
 A  その通り。(参考 → 進化論全体の展望 (3)
 従来の考え方では、「オスにとって有利」とか、「メスにとって有利」とか、そういう考え方をしていた。あくまでオスとメスを並置して、「どの個体にとって有利か」とか、「どの遺伝子にとって有利か」とか、そういう考え方をしていた。ここでは、「利己主義」という原理が成立した。
 そして、その考え方によれば、「親が子を育てるのは、そうすることが親(または親の遺伝子)にとって有利だからだ」となる。しかし、そんなことはありえないのだ。むしろ、「親が子を育てるのは、そうすることが子にとって有利だからだ」と考えるべきだ。そして、そんなことは、簡単にわかるはずだ。
 親が子を育てなくても、親にとっては、さして不利ではない。一人の子を餓死させても、新たに別の子を生めばいいだけの話だ。また、危険に瀕した子を見て、親は子を命懸けで守ることがあるが、そんなことは、親にとっては損である。子を命懸けで守るよりは、子を見殺しにして、かわりに、別の子を複数生む方が、ずっと得である。では、なぜ、親は、子を育てたり、子を命懸けで守るのか? そのことが子にとって死活的に重要だからだ。そう考える以外に、合理的な解釈はなしえない。
 結局、親が子のために行動するのは、親(または親の遺伝子)という「自分」のためではなくて、親子という「全体」のためなのだ。親が損をしても、子が得をすれば、「自分」は損をしても、「全体」は(差し引きで)得をする。そして、「全体」の損得が重視されるところでは、「利己主義」という原理は否定されるのである。

 Q  では、かわりに、どう考えるべきか?
 A  すでに述べたとおりだ。クラス進化論では、「利己主義」という原理は成立せずに、「愛」という原理が成立する。
 あるいは、同じことだが、「部分最適化」という原理は成立せずに、「全体最適化」という原理が成立する。(これについては、前に詳しく述べたとおり。)
 従来の考え方では、そういうことができないから、間違った結論を出すようになる。ダーウィン説に従って、「個体の利己主義」を前提とすれば、「親は子を育てない」となる。ドーキンス説に従って、「遺伝子の利己主義」を前提とすれば、「親は繁殖年齢を過ぎたあとは生存価値がなくなる」となるので、「老いた個体はさっさと自殺するべきだ」となる。どちらも、生物の事実に矛盾する。「利己主義」を原理とすれば、正しい結論は得られないのだ。
 とにかく、生物は、無性生殖と有性生殖では、原理が大きく異なる。前者では「利己主義」が成立するとしても、後者では「利己主義」は成立しない。なのに、無性生殖の生物も、有性生殖の生物も、同じように扱うのでは、事実を誤認することになる。そんなことでは、生物の真実を理解することはできない。
 生物の真実を知るには、生物の事実をしっかり見ることが必要だ。無性生殖と有性生殖には、生物学的な生殖方法の違いがあるだけでなく、進化の原理における違いがある。──ここでも、生物の本質を知るためには、進化の本質を知ることが大切なのだ。





数理編   《 難解なので、読まなくてもよい。》


 Q  初めに戻って、考えてみたい。そもそも、「クラス」という概念は、なぜ必要なのか? 「遺伝子」という概念だけあれば、十分ではないのか?
 A  このことは、クラス進化論の核心に関わる問題だ。従来の考え方からすれば、「遺伝子」という概念だけで十分だが、クラス進化論では、「遺伝子」という概念だけでは十分ではない。このことは非常に重要だ。
 では、両者の違いは、どこにあるか? 「それぞれの遺伝子が、たがいに独立している」と見なすか否か、ということだ。
 従来の考え方では、「それぞれの遺伝子は、たがいに独立している」と考える。すると、それぞれの遺伝子の頻度だけを考えながら、「環境で有利な遺伝子が増えて、環境で不利な遺伝子が減る」と結論する。ここでは、個別の遺伝子が独立的に増減するだけであって、遺伝子間の関係は考慮されない。(統計学で言えば、一次的な数値である「頻度」だけを考える。)
 クラス進化論の考え方では、「それぞれの遺伝子は、たがいに独立しない(相互関連する)」と考える。すると、それぞれの遺伝子の頻度だけを考えるのでは不足であって、他の遺伝子との連関を考える必要がある。どっちの考え方でも、結論が同じになることもある。それはそれで、特に問題はない。しかし、結論が異なることもある。すなわち、「ある遺伝子Gは、それ単独では頻度が減るが、他の何らかの遺伝子Hと結びつくと頻度が増える」ということがある。これが「クラス交差」という概念だ。(統計学で言えば、一次的な数値である「頻度」だけでなく、二次的な数値である「連関」も考える。)

 Q  クラス進化論の方が正確だとしても、そんなに細かく複雑に考える必要はないのでは? 単純に「遺伝子はたがいに独立している」と考えても、別に、難点はないのでは?
 A  難点は、ある。次の二つの難点だ。
 (1) 現実との不一致
 第1に、現実との不一致がある。
 従来の考え方では、「遺伝子はたがいに独立している」と見なす。実際、集団遺伝学では、遺伝子をあたかも気体の分子のごとく、たがいに独立しているものと見なす。しかし、現実には、遺伝子は一つの個体のなかで、遺伝子セットとして組み合わさっているのだ。人間の個体には、人間の遺伝子セットがある。猿の個体には、猿の遺伝子セットがある。ここでは、遺伝子と個体は、「行列表」の形で、関連しあっているのだ。
 遺伝子については「行列表」の形で認識するのが正しく、遺伝子をあたかも気体の分子のごとくたがいに独立しているものと見なすのは正しくない。現実からは、そう結論できる。
( ※ 「行列表」というものを導入した時点で、クラス進化論の考え方に踏み込む必要がある。「種」という概念を導入して、「種の遺伝子」というものを考えた時点で、行列表を導入する必要がある。もし「行列表」を無視すれば、現実を無視することになる。)
 (2) 結論
 第2に、結論に難点がある。
 「遺伝子はたがいに独立している」というのは、「一つの遺伝子の有利・不利は、他の遺伝子には依存しない」ということだ。そのことからは、「有利な遺伝子は、環境だけによって決まる」という結論が出る。たとえば、鹿のような動物が高い木のある領域に進出すると、首の長いキリンとなる。恐竜が空に進出すると、鳥となる。……こういうふうに、特定の領域に適応する形で、環境だけに依存して、進化が起こることになる。
 そして、そうだとすれば、他の祖先からも、同じ進化が起こっていいはずだ。鹿のような動物でなく馬だって、首を長くしてキリンになっていいはずだ。恐竜でなく哺乳類のムササビだって、鳥になっていいはずだ。従来の考え方では、「キリンになる」とか「鳥になる」とかいう遺伝子は、他の遺伝子に関係なく、独立的に生じるはずなのだから、馬もキリンになっていいはずだし、ムササビも鳥になっていいはずなのだ。つまり、そういう遺伝子が突然変異によって登場していいはずなのだ。「遺伝子はたがいに独立している」という説からは、そういう結論が出る。
 しかるに、この結論は、正しくない。馬はキリンにならないし、ムササビは鳥にならない。それゆえ、「遺伝子はたがいに独立している」という考え方は、正しくないのである。
 そしてまた、こうも言える。鹿のような動物が高い木のある領域に進出しても、首の長いキリンにはならないし、恐竜が空に進出しても、鳥にはならない。つまり、従来の説のように、「環境が進化をもたらす」ということは、ありえないのだ。

 Q  では、正しくは?
 A  前々項で述べたとおりだ。突然変異によって、新たな遺伝子が出現するとしても、その新たな遺伝子は、それ単独で「有利・不利」が決まるのではなく、他の遺伝子との関連の上で、「有利・不利」が決まるのだ。つまり、「遺伝子はたがいに独立している」ということはなく、「遺伝子は他の遺伝子と連関する」のだ。
 従来の説によれば、遺伝子はたがいに独立しているはずだ。すると、それぞれの環境では、最適の遺伝子セットが唯一的に決まるだろう。つまり、「環境が進化をもたらす」というふうになるだろう。……すると、一つの環境には一つの生物だけが存在するようになり、一つの環境に複数の生物が存在することはなくなるだろう。たとえば、海では、それぞれの領域ごとに、唯一の魚種だけが最適の種として存在するようになり、それ以外の魚種は存在しなくなるだろう。ここでは、「求心性選択」の中心となるような、唯一の魚種だけが存在するはずなのだ。
 クラス進化論によれば、遺伝子はたがいに連関しているはずだ。すると、それぞれの環境にいる生物は、多様になるだろう。なぜなら、最適の遺伝子セットは、環境だけによって決まるのではなく、元々ある遺伝子セットにも依存するからだ。たとえば、元がサンマならば、元々あるサンマの遺伝子セットと組み合わさって、「最適なサンマ」となるだけだ。元がマグロならば、元々あるマグロの遺伝子セットと組み合わさって、「最適なマグロ」となるだけだ。つまり、最適なものは、元々ある遺伝セット(他の遺伝子)に依存するのであって、環境だけで決まるのではない。それぞれの遺伝子セットごとに、最適となる遺伝子は異なるのだ。換言すれば、それぞれの種ごとに、「求心性選択」の中心は別々にあるのだ。
 クラス進化論では、遺伝子が一つずつ交換されるのでなく、複数の遺伝子がそろって一挙に交換されることがある。「求心性選択」の中心が、移転することがある。それが、「新種の誕生」なのである。
 進化とは、「新たな遺伝子が出現すること」ではなくて、「新たな中心が出現すること」なのである。そのことを、クラス進化論は結論する。

 Q  数学的に言うと、どうなるか?
 A  遺伝子について、「独立している」と見なすか、「連関している」と見なすか。──この違いは、数学的には、特定の表現形式で説明できる。それは、「部分最適化」と「全体最適化」だ。(「有性生殖」のところでも、同様の原理を示しているが。)
 従来の説は、「部分最適化によって、全体最適化がなされる」と考える。つまり、「個々の遺伝子を一つずつ最適化すれば、遺伝子セット全体も最適化される」というふうに。ここでは、一つ一つの形質の遺伝子ごとに、独立的に、「最適の遺伝子」を考えることになる。
 クラス進化論では、「部分最適化によって、全体最適化がなされる」とは考えない。むしろ、「部分最適化をしないことで、全体最適化がなされることがある」と考える。つまり、「遺伝子を一つずつ変動させて最適状態を求めるのでなく、複数の遺伝子をいっぺんに変動させて最適状態を求めるべきだ」と考える。そういうことを考えるのが、「クラス交差」という発想だ。
 このことは、数学的には、ポテンシャル曲面で考えることができる。
 普通は、凹型のポテンシャル曲面がある。ポテンシャル曲面のなかの、ある点にいるとき、そこから、右前であろうと、左前であろうと、とにかく、ポテンシャル値が下がる方向に進めばよい。そうすると、最終的には、ポテンシャルの最小値にたどりつく。たとえば、ドンブリのなかでパチンコ玉を動かすと、最初に動いた方向がどちらであれ、最終的には、底の一点にたどりつく。
 一方、凹型のポテンシャル曲面でなくて、凹型が二つくっついたような曲面もある。(ピーナツの殻を寝かせてから、上下半分に切って、その下半分だけを残すようなものだ。横から見ると、 w のような形に見える。)ここでは、凹型が二つあり、極小値が二つある。最初に一方の凹型のなかにいるときには、少しぐらいランダムな動きがあっても、最終的には、元の極小値に戻るだろう。しかし、あるとき突然、大きな動きがあると、境界を越えて、一方の凹型のなかから、他方の凹型のなかへと、移行する。すると、そのあとは、新たな極小値に向かって進んでいくのである。
 さらに、別のタイプがある。それは「ナッシュ均衡」ないし「囚人のジレンマ」のタイプだ。ここでは、「2行×2列」の行列を書くことができる。右下と左上が極小値である。

 \ A  B 
 A  -3   0 
 B   0  -2 

 最初、右下(-2)にいるとしよう。すると、行の側だけで最適化しても、列の側だけで最適化しても、右下が極小値となる。右上や左下は、極小値ではなく、最適化されていない。だから通常は、右下から脱せない。しかし、あるとき、行と列がいっしょに動いて、右下から左上に移行する。すると、元の極小値(-2)から、新たな極小値(-3)へと、より小さな極小値の状態に変わる。これが「クラス交差」に相当する。……結局、ここでは、行または列が「独立」して動く場合と、「連関」して動く場合とでは、異なる結果が得られるのである。かくて、「遺伝子を、独立的に考えるべきではなく、連関させて考えるべきだ」という結論が出る。
 数学的には、以上のように説明できる。

 Q  従来の説が正しくないというのなら、従来の説はなぜ無性生殖では正しくなるのか?
 A  無性生殖では、前項の「全体最適化」ということが不可能だからだ。(だからクラス進化論の考え方が適用されない。)
 前項の表では、「右下から左上へ」という移行があった。これを無性生殖で起こすとしたら、複数の突然変異が、同時に同一の個体で発生する必要がある。そういうことは、まったく不可能だということはないが、確率的には非常に低い。ほとんど無視してよいだろう。
 一方、「右下から左上へ」という移行は、有性生殖では十分に可能である。遺伝子にもともと多様性があれば、あとは多様な遺伝子同士で、交配があればいいからだ。それが「クラス交差」だ。
 結局、有性生殖と無性生殖とには、まず、「性の有無」という違いがある。そこから「クラス交差の有無」という違いがもたらされる。そこから「全体最適化の有無」という違いがもたらされる。そこから「進化の有無」という違いがもたらされるわけだ。

 Q  「部分最適化と全体最適化」という話題は、有性生殖編の場合と、どう違うのか?
 A  有性生殖編では、「部分最適化と全体最適化」という話題は、「個体」レベルでの話である。それぞれの個体がその個体だけの「最適化」をめざすのが、「部分最適化」である。一方、それぞれの個体がその個体だけの「最適化」をめざすのをやめることで、かえって全員が「部分最適化」以上の利益を得るのが、「全体最適化」である。その原理を「愛」と呼ぶ。(ここでは、「全員」または「全体」というのは、「同じ種の個体の全体」ではない。通常は、「家族」または「コロニー」である。)
 数理編では、「部分最適化と全体最適化」という話題は、「遺伝子」レベルでの話である。それぞれの遺伝子がその遺伝子だけの「最適化」をめざすのが、「部分最適化」である。一方、それぞれの遺伝子がその遺伝子だけの「最適化」をめざすのをやめることで、かえって遺伝子セット全体が「部分最適化」以上の有利な状態になるのが、「全体最適化」である。その原理を「クラス交差」と呼ぶ。
 だから、この二つの原理は、現実レベルではまったく別の原理ではあるが、数理レベルではほぼ同様の原理であるわけだ。



 題 名   進化論 Q&A 2
 著者名   南堂久史
 Eメール  nando@js2.so-net.ne.jp
 URL   http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/

[ END. ]