血縁淘汰説とは


 血縁淘汰説とは何かを、簡単に説明する。

 本項では、多くのことが述べられるが、いずれも要点だけを示す。
 それぞれの要点について、詳しい説明は、リンク先に示してある。
 本ページはあくまで、案内ページとして読んでほしい。
 詳しい話は、リンク先を読んで、しっかりと理解してほしい。

 

 ハミルトン


 血縁淘汰説は、ウィリアム・ドナルド・ハミルトンが提唱した進化学説である。(血縁選択説とも訳される。)
 ハミルトン自身は、わかりにくい別の言葉を使ったのだが、のちにジョン・メイナード=スミスがこの言葉を使ったので、この言葉で知られることになった。
 この説では、淘汰の単位は、「個体」ではなくて、「血縁」(血筋・家系)である。それは、今日の遺伝子重視の発想では、「遺伝子」と言い換えることができる。
 いずれにせよ、この発想では、
 「自分の子孫を残すかわりに、自分の血縁者の子孫を残してもいい」
 というふうに主張される。(どっちみち、自分の遺伝子と同じ遺伝子が残るから、という理由で。)
 この発想を典型的に示したのが、ホールデン(J. B. S.Haldane)の言葉だ。
  「二人の兄弟または八人の従兄弟のためであれば、自分の命を犠牲にしてもいい」
 彼はこのように述べて、血縁淘汰説の発想を支持した。
  ( → 自分の遺伝子 3

 ミツバチの例


 血縁淘汰説の発想を取ると、面白いことがわかる。ミツバチの場合、働きバチを取って考えると、血縁度は次のようになる。
  ・ 自分の子との血縁度 …… 50%
  ・ 自分の妹との血縁度 …… 75%
 つまり、自分の子との血縁度よりも、自分の妹との血縁度の方が高い。このことは、次の図から説明される。

血縁度の図


   ※ この図についての説明は、次のページに詳細を記してある。
       → 血縁度の計算方法の説明

 このことから、次の結論がなされた。
 「ミツバチが自分の子を育てないで、自分の妹を育てるのは、その方が有利だからだ」
 これによって、ミツバチの行動(利他的行動)がうまく説明された、と人々は考えた。

 血縁淘汰説と利己的遺伝子説


 ダーウィン説では、個体は利己的な行動を取るはずなのに、ミツバチについては、そのことがうまく説明できなかった。
 しかるに、個体単位の淘汰でなく、血縁単位の淘汰を考えると、うまく説明できるようになったわけだ。
 特に、血縁単位でなく、遺伝子単位で淘汰を考えると、物事をうまく説明できるようになった。こうして「万々歳」と思われるようになった。
 ( → 利己的遺伝子説とは

 血縁淘汰説の破綻 1


 しかしながら、よく考えると、それは間違いだった。つまり、血縁淘汰説も、利己的遺伝子説も、どちらも間違いだった。
 これらの説が破綻しているということは、次のことから簡単にわかる。

 自分の子よりも、自分の妹の方が、血縁度は高い。だからといって、大勢がそろって、特定の妹1匹だけを育てれば、遺伝子を増やす効果はない。
 1000匹のミツバチがそれぞれ自分の子を生めば、自分の遺伝子はたくさん増える。1000匹のミツバチがたった1匹の妹を育てても、自分の遺伝子はほとんど増えない。1匹への重複が起こるからだ。
 ( ※ 詳しくは → ミツバチの利他的行動 3


 [ 余談 ]

 イメージ的に言えば、次のように言える。
 果物を絞って、ジュースを作った。では、果汁濃度が 50%のジュースと、果汁濃度が 75%のジュースは、どちらが果汁が多いか?

 利己的遺伝子説を信じる人々は、こう答えた。
 「果汁濃度が 75%のジュースの方が、果汁が大いに決まっている。こっちの方が果物の成分がいっぱい入っている!」
 こう思ったので、利己的遺伝子説を信じる人々は、1000人全員が 75%のジュースを取った。それはコップ1杯しかなかったので、1000人全員でコップ1杯のジュースを共有した。
 
 小学6年生の生徒は、こう答えた。
 「濃度だけじゃ決まらないよ。濃度と数との掛け算で、総量が決まるんだ。数はいくつなの? 果汁濃度が 50%の方は 1000個で、果汁濃度が 75%の方は1個? だったら、果汁濃度が 50%の方がいいよ」
 こう思ったので、小学6年生の生徒は、果汁濃度が 50%の方を取った。1000人で 1000個のコップを取ったので、各人が1杯ずつのジュースを取った。

 その後、利己的遺伝子説を信じる人々は、首をひねった。
 「どうして果汁濃度 75%の方が、果汁濃度 50%の方よりも、果汁が少ないのだろう。不思議だ、不思議だ」

 小学6年生のみなさん、そのわけを教えてあげてください。

( ※ 「1匹の妹が数千匹の子を産むから、問題はない」と思う人もいるだろう。だが、それは、説明になっていない。なぜなら、同じことは働きバチにも成立するからだ。千匹の働きバチが、それぞれ数千匹の子を産むことができる。その方が遺伝子をたくさん産めるのだ。 1×2000 よりは 1000×2000 の方が多い。千匹が1匹の妹を助けるよりは、千匹が自分の子を産む方が遺伝子をたくさん産める。)

 血縁淘汰説の破綻 2


 血縁淘汰説も利己的遺伝子説も、どちらも間違いだ。では、本質的には、どこがおかしいのか?
 実を言うと、「自分の子と自分の妹を比較する」という発想が、根本的に間違っているのだ。どうせ比較するのならば、次のように比較するべきだった。
  ・ 自分の妹 / 自分自身 
  ・ 自分の姪 / 自分の子 
 これはどういうことかというと、「比べるのならば、同じ世代で比べる必要がある」ということだ。

 「自分の妹 / 自分自身」ならば、どちらも同じ世代なので、比較する意味がある。「自分の姪 / 自分の子」でも、どちらも同じ世代なので、比較する意味がある。
 しかし、「自分の子 / 自分の妹」では、世代が異なる。世代の異なるものを比べて、「自分の子よりも自分の妹の方が血縁度が高い」と主張しても、何の意味もないのだ。
 なぜか? 自分の妹をいくら育てても、自分の妹は自分と同じ時期に死んでしまうからだ。それでは「次の世代を残す」という効果がないからだ。
( ※ 次の世代のものを育てるのでなければ、いずれは滅亡する。育てるのであれば、次の世代を育てるのでなければ、意味がない。)

 というわけで、
 「自分の子よりも自分の妹の方が血縁度が高いから、血縁度の高い妹を育てる」
 という発想は、成立しないわけだ。
 ( ※ 詳しくは → ミツバチの利他的行動 3

 血縁淘汰説ではなく


 では、正しくは、どう考えるべきか? もちろん、同じ世代で考えるといい。
 そこで、同じ世代で、血縁度を計算すると、次のようになる。
  ・ 自分の妹 / 自分自身 ( 75% / 100% )
  ・ 自分の姪 / 自分の子 ( 37% / 50% )
 ここから得られる結論は、次の通り。
  ・ 自分の妹を育てるよりも、自分自身を育てる方がいい。
  ・ 自分の姪を増やすよりも、自分の子を増やす方がいい。

 結局、血縁淘汰説は、ミツバチの利他的行動を説明しないのだ。
 換言すれば、「ミツバチの利他的行動を説明するには、血縁淘汰説は有効だ」ということはないのだ。
 ミツバチが自分の子でなく自分の妹を育てるのは、「その方が遺伝子をたくさん残せるから、そうする」のではなく、「その方が遺伝子を少ししか残せないのに、そうする」のだ。「遺伝子のために有利だから、そうする」のではなく、「遺伝子のためには不利であるにもかかわらず、そうする」のだ。

 こうして、血縁淘汰説や利己的遺伝子説は、(ミツバチの行動を説明する理論としては)破綻したことになる。というのは、数学的な計算方法が間違っているからだ。それらは、仮説としては成立するが、動物行動を説明するための理論としては、まったく間違った理論なのである。
 

 利全主義


 では、正しくは? 
 基本としては、「これは動物行動の理論だ」とわきまえておくといい。(新論ではない。)
 その上で、「個体の利己主義」でもなく、「血縁の利己主義」でもなく、「遺伝子の利己主義」でもなく、まったく別の発想を取るといい。それは、「利己主義」ではない理論だ。
 
 では、それは何か? それは「利全主義」と呼ばれるものだ。それは、「利己主義」(エゴイズム)とは正反対の概念である。つまり、「個体を犠牲にして全体の利益に奉仕する」という概念である。
 
 そして、この概念のもとで、ミツバチの行動は説明される。次のように。
 「利己的な行動を取るミツバチたちのコロニーはあっさり滅亡するが、利全的な行動を取るミツバチたちのコロニーは生き残る。個体の利益に反する行動を取る生物の方が、生存性が高まる」
 こうして、ミツバチの行動は説明される。
 そして、そこにあるのは、「利己主義」でも「利他主義」でもなく、「利全主義」である。

 比喩的に言うと、会社のサラリーマンの行動では、次のようになる。
  ・ 利己主義 …… 自分の利益が優先で、同僚の足を引っ張る。
  ・ 利他主義 …… 同僚の利益が優先で、自分は自己犠牲するだけ。
  ・ 利全主義 …… 各人が会社のために尽くすので、全員が利益を得る。

 ここでは、「利己主義」でも「利他主義」でもない、「利全主義」の発想がある。そして、その発想を取ることで、ミツバチの行動は説明される。
 ( → ミツバチの利他的行動 4ミツバチの利他的行動 5

 進化論との関係


 進化論と動物行動との関係を示そう。次のようにまとめられる。
 ダーウィンは、個体の利己主義ですべてを説明しようとした。
 ハミルトンは、血縁の利己主義ですべてを説明しようとした。
 ドーキンスは、遺伝子の利己主義ですべてを説明しようとした。
 しかしながら、そのいずれも、破綻した。(前述。)

 そこで、すぐ上で述べたように、「利全主義」の発想が登場した。これは、それまでの三つの発想がいずれも「利己主義」であったのに対して、まったく正反対の発想を取る。そして、そのことで、動物行動が進化論的に説明される。

 遺伝子との関係


 では、利全主義は、いかにして種に備わったか? (特に、ミツバチという種に。)
 それは、遺伝子と淘汰の関係を見るとわかる。すなわち、次のように言える。
 「利全主義をもつ個体集合と、利全主義をもたない個体集合とを比べると、前者の方が増えて、後者の方が減る。そのせいで、前者の遺伝子が増えて、後者の遺伝子が減る」
 ここで、それぞれの個体集合は、次のように書くことができる。

   種全体 = A ∪ Ac

 A  という個体集合には、 a という遺伝子がある。
 Ac という個体集合には、 その対立遺伝子である a' という遺伝子がある。
 そして、 A が増えて、Ac が減るから、 a が増えて、 a' が減る。

 ここで注意。この際、次のように発想するべきではない。
 「 a という一つの遺伝子が増えて、 a' という一つの遺伝子が減る」
 これは、遺伝子単位の発想であり、遺伝子淘汰の発想だ。これはまた、ドーキンスの発想でもある。(たくさんの個体にある、たくさんの同等遺伝子を、一つの遺伝子と見なす発想。たとえば、たくさんあるA型遺伝子を、「A型遺伝子」という一つのものと見なす発想。)

 しかし、このような発想を取るべきではない。むしろ、たくさんの遺伝子を「集合」(遺伝子集合)と見なして、次のように発想するべきだ。
 「 a の遺伝子集合が増えて、 a' の遺伝子集合が減る」
 ここでは、増えたり減ったりするのは、一つの遺伝子ではなく、遺伝子集合なのである。このように発想することが大切だ。
 この発想が「遺伝子集合淘汰」の発想だ。
 ( → 遺伝子集合淘汰

 [ 付記 ]
 「遺伝子集合淘汰」の発想では、遺伝子集合における遺伝子が増えたり減ったりする。そして、そのことは、あくまで、個体の増減を通じてのことだ。ここでは、現実のものとして、個体に着目することが大切だ。
 さて。個体の全体は、個体集合をなす。そして、この個体集合は「クラス」というふうに呼ぶこともできる。……それが「クラス進化論」の立場だ。
( ※ 「クラス進化論」がなぜ「クラス」という言葉を取るのかも、ここからわかるだろう。クラス進化論の根底には、「遺伝子集合淘汰」の発想があるのだ。そして、「遺伝子集合淘汰」が、個体のレベルを通じて表現されるとき、遺伝子集合に対する個体集合が「クラス」という名前で呼ばれる。)

 結論


 話をまとめよう。
 ダーウィンの個体淘汰説は、進化論の理論として誕生した。
 この理論は、動物行動の理論としても、動物行動をうまく説明することができた。ただし、ミツバチの行動は、「利他的行動」と見えて、個体単位の淘汰説では説明できなかった。
 そこで、ハミルトンが登場して、血縁単位の淘汰説で説明した。さらにドーキンスはそれを遺伝子単位の淘汰説に書き直した。
 しかしながら、その両者は、理論的に破綻した。
 正しくは、利己主義の発想を超えて、利全主義の発想を取ればいい。そうすれば、ミツバチの行動は、うまく説明される。
 
 結局、動物行動の理論としては、利全主義を取ればいい。これは、進化論の理論というわけではないが、動物行動を説明するには、適切だ。
 そして、利全主義がいかに備わったかを考えるには、「遺伝子集合淘汰」の発想を取ればいい。……それは、「クラス進化論」から得られる結論でもある。

 [ 付記 ]
 血縁淘汰説との違いはどこにあるかというと、次の点にある。
  ・ 血縁淘汰説 …… 妹経由の方が、たくさんの遺伝子を産める
  ・ 本頁の説   …… 妹経由の方が、個体が生き残れる
 ここでは、生まれる遺伝子の数が大事なのではなく、死なずに生き残る遺伝子の数が大事なのだ。
 そして、血縁淘汰説が間違っていることは、「たくさんの遺伝子を産める」ということ自体が成立しないことからもわかる。(1匹の妹への重複があること/姪の遺伝子との共通度は低いこと。)

 参考ページ


 本文書で述べたことの核心を、次のページで短く説明している。一番肝心の核心を示しているので、これもぜひ読んでほしい。
  → 血縁淘汰説 [ 核心 ]







 補足 1


 血縁淘汰説や利己的遺伝子説が理論的に破綻していることは、すでに示した。ここでは、「それが正しいとすれば矛盾」という形で、それが正しくないことを指摘した。
 一方、もっと強く、「血縁淘汰説や利己的遺伝子説は間違いである」と示すこともできる。以下の通り。

 血縁淘汰説や利己的遺伝子説によれば、生物は「自分の遺伝子を増やそう」として行動するはずだ。そして、そのために、最も有効な方法を取るはずだ。
 では、「自分の遺伝子を増やすために、最も有効な方法」とは、何か? それは、近親者との交配だ。特に、次のいずれかだ。
  ・ 兄弟との交配
  ・ 親または子との交配
 げげげっ。冗談じゃないですね。それじゃ、近親××だ。(気持ち悪いので 伏せ字。)
 なるほど、近親××をすれば、「自分の遺伝子を増やす」ことは可能だ。しかし、そんなことをしようとする生物は、ほとんどいない。むしろ、ほとんどの生物は、近親××を避けようとするものだ。(特に、自家不和合性という性質を帯びる生物もある。)

 補足 2


 血縁淘汰説の考え方は、どこがおかしいか? それは、基本的には、次のことだ。
 「不妊の妹の遺伝子が増えるのを見て、その無意味さに気づかなかった」


 換言すれば、次のことだ。
 「遺伝子の増加を考えるときには、遺伝子全体(= 遺伝子の集合)の増減を考えなくてはいけないのに、局所的な遺伝子(= 遺伝子の部分集合)の増減だけを見て、それを遺伝子全体の増減だと勘違いした」

 ここで、「局所的な遺伝子」とは、コロニー内の遺伝子のことである。ミツバチが不妊の妹を育てると、不妊の妹が増える。そのことで、コロニー内の遺伝子は増える。しかしながら、その遺伝子は、(同じ世代のものであるから)すべて同時期に滅亡する。遺伝子全体を増やす効果はないのだ。
( ※ 遺伝子全体を増やすためには、次世代のものを増やす必要がある。不妊の兄弟姉妹がいくらたくさんいても、やがては滅亡する。しかし子や姪が産まれれば、滅亡を免れる。)

 血縁淘汰説では、遺伝子の増減を考えるとき、遺伝子全体を見ないで、コロニー内の一時的な増減ばかりに目を奪われた。そのせいで、物事の認識を誤ってしまったのである。そこには、全体的な認識がなかった。視野があまりにも狭すぎたのである。
 《 余談 》
 比喩的に言おう。
 猿に餌をやるとき、「朝に一つ、夕べに一つ」と決めた。ただし、別の配り方もあった。「一週間分として、まとめて百個上げるよ」と。それを聞いて、たいていの猿は拒んだが、ドーキルトンという猿だけは、大喜びした。「本来ならば、2×7で 14個。なのに、百個ももらえるのならば、大儲け」と考えた。そしてまさしく1日目に百個をもらった。そして大喜びで1日目に4個を食べた。
 しかし、翌日になると、残りの 96個はすべて腐ってしまった。結局、食べられたのは、4個だけ。翌日以降の6日間は、飢えて過ごした。
 この猿は、7日間全体のことを考えず、1日だけのことを考えたから、「部分的に増えればそれでいいのさ」と思ったのである。翌日以降にはすべては消滅してしてしまうのだ、ということに気づかずに。


 補足 3


 血縁淘汰説や利己的遺伝子説は、どこでどう間違えたのか?
 それは、「自分の遺伝子」という概念を取ったところにある。そんな概念は成立しないのだ。
 なるほど、「血液型の遺伝子」,「耳アカの遺伝子(乾/湿)」,「目の色の遺伝子」などは、ある。これらは形質の遺伝子だ。だから、そういう形質ごとに、遺伝子の増減を考えることはできる。
 しかしながら、「自分の遺伝子」というものはない。たとえば、田中五郎の遺伝子を見て、「血液型はA型、耳アカは乾燥、目の色は黒」というふうに判明したとする。では、それらの遺伝子は、「田中五郎の遺伝子」と言えるか? もちろん、言えない。たとえば、「血液型がA型」というのは、田中五郎の遺伝子とは言えず、多くの人々に共通する遺伝子だ。とすれば、そういう遺伝子を見て、「田中五郎の遺伝子」と見なすことは正しくないし、また、「田中五郎は自分の遺伝子を増やそうとする」と見なすことも正しくない。
 要するに、「自分の遺伝子」という発想を取ること自体が間違いなのだ。換言すれば、血縁淘汰説や利己的遺伝子説の、基本概念そのもの(発想そのもの・原理そのもの)が、根源的に間違っているのだ。
 ( → 自分の遺伝子 1

 では、どうすればいいか? 「自分の遺伝子」という発想を捨てればいい。かわりに、どうすればいいか? 単に、それぞれの形質ごとに、遺伝子の増減を考えればいい。「自分の遺伝子」でなく、「それぞれの形質の遺伝子」を取って、遺伝子の増減を単純に考えればいい。
( ※ 詳しくは、先に「遺伝子集合淘汰」として説明したとおり。また、すぐ下でも言及する。)

 補足 4


 余談ふうに、「利己主義」という言葉について語る。
 「個体の利己主義」「群の利己主義」「血縁の利己主義」「遺伝子の利己主義」などでは、いずれも、「自然淘汰」という発想にともなって、「利己主義」という概念が取られた。しかし、そのような発想は、不要なのである。
 では、何が必要かと言えば、単に「増減する」という発想だけがあればいい。特に、(同種の)遺伝子の増減だけだけを見ればいい。……これは、集団遺伝学の発想でもある。(本項での概念では「遺伝子集合淘汰」と言える。)

 そして、その際には、単に数字の増減だけを考えればいい。そこでは「利己主義」というような発想は、不要である。それどころか、有害でさえある。なぜなら、「利己主義」とは逆の、「利全主義」の方が正しいこともあるからだ。
 ダーウィンであれ、ドーキンスであれ、「利己主義」という発想を取ったところに、難点があった。ここでは単に集団遺伝学的に、(遺伝子集合の)数字の増減だけを考えればいいのだ。「利己主義」という概念は、(場合によっては)捨てた方がいいのだ。
 にもかかわらず、あえて「利己主義」というような考え方だけを取ると、理論が破綻してしまう。その失敗例が、ミツバチの行動だ。ミツバチの行動は、「利全主義」でのみ理解される。なのに、「利己主義」という発想にばかりとらわれるから、物事の真実を見抜くことができなくなってしまう。これがドーキンスの陥った落とし穴だ。

 ミツバチの行動について、血縁淘汰説や利己的遺伝子説のなした失敗は、「利己主義にとらわれては駄目だ」(それ一辺倒では駄目だ)ということを教えてくれる。
 物事は単に数理的に見るだけでいい。そして、そのあとで、解釈が来る。すると、「利己主義になることもあるし、利全主義になることもある」というふうに、解釈を変えることができる。このことで、正しい認識をなすことができる。
 一方、「利己主義」を大前提として原理に据えてしまうと、そのあとで、「利己主義になることもあるし、利全主義になることもある」という事実を、認識できなくなる。
 
 要するに、「利己主義」というのは、原理ではなくて、ただの行動様式の一つにすぎない。われわれ人間だって、利己的にふるまうこともあるし、社会貢献的(利全的)にふるまうこともある。「利己主義」というのは、原理にはならないのだ。……なのに、そんなものを原理として仮説を構築するから、「利己的遺伝子説」のような破綻した理論ができてしまう。
 生物学は数学ではない。ある原理から演繹的に体系を構築することが大切なのではない。まずは事実をちゃんと観察することだ。それが生物学においては何よりも大切なことだ。

 ファーブルは生物を丹念に観察した。彼の態度こそ、最も立派な生物学者の態度だ。
 ひるがえって、ハミルトンやドーキンスは、勝手な仮定の上で、勝手な理論体系を構築して、現実との矛盾にぶつかり、体系が崩壊した。そんな仮説など、砂上の楼閣にすぎない。
 生物学に必要なのは、事実と数字である。思い込みによる演繹的な体系など、ただのオモチャにすぎない。生物学者が数学の方法を真似ても、あとで現実に矛盾して、破綻するだけだ。……そのことを、ハミルトンやドーキンスは教えてくれる。反面教師として。

 補足 5


 話を整理して、全体をまとめてみよう。
 歴史的には、次の経緯があった。まず、ダーウィンの進化論が出た。それによって、動物の形質は、おおむね説明が付いた。ただし、ミツバチの利他的行動については、説明が付かなかった。なぜなら、利他的な行動を取る個体は淘汰されてしまうはずだから、そのような行動を取ることはありえないはずだからだ。
 これは、ダーウィンの個体淘汰の発想による説明だった。そして、ダーウィンの個体淘汰の発想では説明ができないことがあると判明したわけだ。
 そこで、血縁淘汰説が出た。また、それを書き直す形で、利己的遺伝子説が出た。これらの説は、淘汰の単位を、「個体」から「血縁」または「遺伝子」に転換することで、ミツバチの利他的行動を説明することが可能になった。

 これで大成功……と思えた。だが、実は、それは勘違いにすぎなかった。そこには計算ミスがあったからだ。前述のことをまとめれば、次の通り。
  ・ 濃度ばかりを見て、数量を見なかった。(重複の存在)
  ・ 世代を考えないせいで、比較対象を間違えた。(妹と姪)
 こうして、血縁淘汰説や利己的遺伝子説の間違いが判明した。

 では、間違いではなく、正解は?
 それは、淘汰の単位を「個体」「血縁」「遺伝子」のいずれでもなく、「遺伝子集合」にすることによって与えられる。(集団遺伝学の発想と同じ。)
 すると、どうなるか? ミツバチの利他的的行動は、
   「利全主義が利己主義よりも有利だ」
 という形で示される。つまり、
   「利全主義の遺伝子は、利己主義の遺伝子よりも、多く残る」
 というふうに。
 ( 詳しくは → ミツバチの利他的行動 4

 そして、ここではもはや、「利己主義」という枠組みをはずれている。「利己主義」というのは、生物における基本原理ではなくて、形質のうちの一つにすぎないのだ。そして、利己主義という形質以外に、利全主義という形質もまた成立するのだ。
 利己的遺伝子説の間違いは、「利己的」という概念に過剰にとらわれて、それを原理と見なしたところにあった。「利己的」という概念にとらわれ、「遺伝子は利己的だ」と勝手に思い込んだから、間違った学説を生み出してしまったのだ。
 そして、利己的でなく利全的にふるまうミツバチは、利己的遺伝子説の間違いを明白に示してくれるわけだ。

( ※ 正しくは? 個体は、利己的にふるまうこともあるし、利全的にふるまうこともある。また、遺伝子は淘汰の単位とはならない。遺伝子集合が淘汰の単位となる。……利己的遺伝子説は、このように、二重の意味で間違っている。大切なのは、それぞれの形質ごとに「遺伝子集合が増減する」という集団遺伝学の発想だけだ。そして、その発想を取るのが、「クラス進化論」だ。 → 下記リンク。)

 補足 6


 利己的遺伝子説のどこがおかしいか、その本質を示そう。
 まず、次のような疑問が出るだろう。
 「遺伝子全体のために個体が奉仕するのだとすれば、それは遺伝子全体が利己的だということになるのでは?」
 この疑問は正しい。たしかに、「遺伝子は利己的だ」ということは言えなくても、「遺伝子集合は利己的だ」ということは言える。
 しかし、である。「遺伝子集合は利己的だ」ということは、
 「個々の遺伝子は、遺伝子集合全体に奉仕する」
 ということだ。そして、これは、
 「個々のものは、全体に奉仕する」
 ということだ。それは、利己主義ではなく、全体主義なのだ。

 要するに、「全体の利己主義」という発想を取ると、言葉の意味が反転してしまう。そこでは、次のように言葉の意味が反転する。
  ・ 利己主義 …… 個が全体のために奉仕すること (= 全体主義)
  ・ 遺伝子   …… 個々の遺伝子ではなく遺伝子集合のこと。
 これでは言葉の意味が正反対だ。いわば、白を「黒」と呼び、プラスを「マイナス」と呼び、右を「左」と呼ぶような用語法だ。滅茶苦茶の極み。気違いの表現だ。(不思議の国のアリス?)
 そこで、そういうデタラメ表現をやめる。個は「個」と呼び、全体は「全体」と呼ぶ。利己主義は「利己主義」と呼び、利全主義は「利全主義」と呼ぶ。……このようにまともな表現で表現し直したのが、本項だ。

 そして、このようにまともに表現すれば、次の重大な結論が得られる。
 「遺伝子は反利己的である」
 これは、次のように言い換えることができる。
 「個々の遺伝子は、遺伝子集合全体に奉仕する」
 たとえば、ミツバチの利他的行動を見る。そこでは、個々のミツバチは、ミツバチ全体のために奉仕する。個々の遺伝子は、遺伝子集合全体のために奉仕する。……この意味で、遺伝子は、反利己的なのだ。(利全主義とも言える。)

 だから、遺伝子集合淘汰の発想を取れば、次のように言えるのだ。
 「個々の遺伝子は、遺伝子集合全体のために奉仕するので、反利己的である。遺伝子は反利己的である」
 これが正解だ。利己的遺伝子説は、真実とはまったく反対のことを語ってくれた。そのおかげで、われわれに真実を教えてくれた。反面教師として。
 利己的遺伝子説が、天動説のような虚偽を告げてくれたおかげで、われわれは、地動説のような真実を得ることができたわけだ。「遺伝子は反利己的である」という真実を。
( ※ 「遺伝子は反利己的である」というのは、「淘汰の単位は遺伝子集合である」というのと同じことだ。)
( 詳しくは → 反利己的な遺伝子 2 。およびその前後の項目 )

 補足 7


 次の批判があるかもしれない。
 「ドーキンスの言う『利己的』というのは、遺伝子と個体との関係を示す。遺伝子が個体に対して利己的であることを示す」
 これはこれで、いちおう妥当である。ただし、そこには、概念の混同がある。次の二つがいっしょくたにされている。
  ・ 遺伝子が個体に対して、利己的であること。(上記)
  ・ 遺伝子集合が遺伝子に対して、利己的であること。(補足 5)
 ドーキンスの言う「利己的」という概念は、この二つがごっちゃになっている。そのせいで、概念の混同を招く。
 そこで、この二つをはっきりと区別するべきだ、というのが、本サイトの方針だ。その場合、次の表を使うと、わかりやすい。

  個体   個体集合
 遺伝子  遺伝子集合 

   ( 詳しくは → 遺伝子集合淘汰 [ 補説2]

 ドーキンスが示したのは、「遺伝子集合が個体を操作する」ということだ。(それが彼の「利己的」という意味。)
 しかしこれは、次の二つの過程の合成である。
   ・ 遺伝子集合 → 遺伝子 (利己的な遺伝子集合。反利己的な遺伝子。)
   ・ 遺伝子    → 個体  (遺伝子から個体への影響)
 この二つの過程は、別々の過程であるから、別個に理解するべきだ。なのに、一緒くたにして、「利己的」と呼んだのが、ドーキンスだ。そのせいで、概念の曖昧さを招いて、話がおかしくなった。
  ( → 反利己的な遺伝子 2

 そこで、この二つの過程については、別個に理解するといい。次のように。
  ・ 遺伝子が反利己的であること …… 前述。補足 5。(遺伝子集合淘汰)
  ・ 遺伝子が個体を操作すること …… 本能。( → 遺伝子と本能
 これが正しい理解だ。そして、そのことから、ドーキンスについては、次の評価をすることもできる。
 「遺伝子が個体行動に影響する、という点を指摘した点では、ドーキンスの『遺伝子は利己的』という発想は正しい」
 「ただし、遺伝子が個体行動に影響する、という点は、昔からすでに知られていた。そのことはドーキンスの独創ではない。そのことはむしろ、本能という概念で理解する方がいい。ドーキンスの独創は、遺伝子が個体行動に影響する、という点を、遺伝子の反利己性とごちゃ混ぜにしたことだ。つまり、二つの真実をごちゃ混ぜにして、一つのデタラメを作り上げたことだ。そのデタラメは、あまりにも不自然なデタラメだから、誰も主張しなかった。こうして、彼は、『利己的遺伝子説』という独創的な説を提出した」
 彼はたしかに独創的な説を出した。「個体は遺伝子の乗り物にすぎない」という独創的な説を。それは、そのときまで、誰も語ったことのない、独創的なものだった。ただし、それは、独創的な真実ではなく、独創的なデタラメだった。本当ならば、二つの概念で語るべきことを、「利己的」という一つの概念で語ることで、物事を曖昧にしてしまったからだ。

 とすれば、われわれが今なすべきことも、はっきりとする。「利己的な遺伝子」というような曖昧な概念を捨てることだ。そして、曖昧な概念で文学的に表現するかわりに、厳密な学術的な概念で学術的に語ることだ。
 その際には、「利己的な遺伝子」という一つの概念のかわりに、「遺伝子集合淘汰」および「本能」という二つの概念を用いればいい。それだけのことだ。
( ※ 遺伝子集合淘汰によって遺伝子が増減して、遺伝子にしたがって個体が本能的に行動する。……こう考えれば、利己的遺伝子説の話は、きちんと説明し直すことができる。)

 結論


 結論としては、どうなるか? 次のように言える。
 遺伝子が増えるかどうかということは、遺伝子集合淘汰の発想で説明される。そこでは、遺伝子集合が増えるか否かだけが問題となる。
 そして、遺伝子集合が増えるか否かは、通常、個体にとっての有利・不利で説明される。たとえば、クチバシが長い方が有利だとか、首が長い方が有利だとか。そういう有利・不利が、個体レベルで判定され、その有利不利によって、遺伝子集合が増えるか否かが定まる。……これが、ダーウィン説だ。(個体淘汰説。)
 ダーウィン説は、通常はそのまま成立する。個体淘汰説と遺伝子集合淘汰説とが、同じ結論を出すからだ。── しかしながら、例外的に、そうならない場合がある。たとえば、ミツバチの利他的行動だ。ここでは、個体は、自分にとって有利な行動を取らない。このことは、個体淘汰説からは説明できない。
 ただし、それは不思議に見えても、別に問題はない。そもそも、個体淘汰説は真実ではないからだ。個体淘汰説が正しいのは、個体淘汰説と遺伝子集合淘汰説とが一致する場合だけだ。

 一方、個体淘汰説と遺伝子集合淘汰説とが、異なる結論を出すことがある。それが、ミツバチの利他的行動だ。この場合は、個体淘汰説を捨てて、遺伝子集合淘汰説を取ればいい。そうすれば、真実はあっさり判明する。次のように。
 「利他的行動を取るミツバチの方が、遺伝子集合が増える」
 ここでは、「利他的行動」と見えるのは、真の利他的行動ではなくて、「利全的行動」である。「利全的行動」とは、「個々の利益を捨てて、全体の利益に奉仕する」という行動である。この場合、個々の遺伝子は犠牲になるが、遺伝子集合全体にとっては有利になる。それゆえ、遺伝子集合は増える。個々のものが全体のために奉仕するなら、全体が増えるのは当然のことだ。……これがミツバチの「利全的行動」である。
 ( → ミツバチの利他的行動 4

 結局、ダーウィンの「個体淘汰」という発想を取ると、物事が不思議に思えるのだが、「遺伝子集合淘汰」という発想を取れば、物事は何も不思議ではない。個体が利己的な行動を取らないとしても、何も不思議ではない。
 個体は、利己的な行動を取ることもあるし、利全的な行動を取ることもある。その両方がある。ここで、「個体淘汰」「利己主義」という発想を取ると、矛盾に直面する。だが、かわりに、「遺伝子集合淘汰」という発想を取れば、矛盾などはもともと生じようがない。そこでは、「利己主義」は、ただの形質の一つにすぎない。生物は、「利己主義」という形質を取ることもあるし、「利全主義」という形質を取ることもある。「利己主義」は、原理ではないのだ。
 「利己主義こそ物事の原理だ」
 というような発想を捨てることで、生物の真実を認識できる。
 [ 参考 ]
 「利己主義こそ物事の原理だ」
 という発想を取ると、とんでもない勘違いをするハメになる。その典型が血縁淘汰説や利己的遺伝子説における発想だ。
 特に、妹育てを、「遺伝子の利益」という発想でとらえることだ。これがいかに間違っているかは、次のことからもわかる。
   → ミツバチは利他的行動をするか?

 [ 付記 ]
 「利己主義こそ物事の原理だ」
 というのは、経済学における「市場原理主義」(優勝劣敗による社会進化)の、焼き直しである。
 しかしながら、経済学の世界では、「市場原理主義は正しくない」ということが、ほぼ合意されている。市場原理主義は、市場における商品売買については成立するが、景気対策のようなマクロ経済には適用できない。市場原理主義は、成り立つこともあるし、成り立たないこともある。それは、いくつかある原理のうちの一つにすぎない。
 生物学でも同様だ。「利己主義」というのは、いくつかある原理のうちの一つにすぎない。それが成立することもあるし、それが成立しないこともある。例として、利全主義が成立する場合がある。その一例が、ミツバチの行動だ。
 実を言うと、これは、経済における原理と同様である。景気回復のような国全体の総生産を増減したいときには、市場原理という利己主義に頼るのではなく、マクロ経済学による利全主義を取る必要がある。にもかかわらず、現状では、市場原理主義が幅を利かせているので、利全主義の原理は取られない。
 その結果は? 各人が自分の利益を最大化しようとするので、国全体の利益は最悪になる。消費者は自分の利益を守ろうとして節約に努め、企業は自分の利益を守ろうとして解雇・派遣・賃下げに勤める。誰もが利己主義に走るから、全体としての利益は最悪になる。
 生物学であれ、経済学であれ、人々は真実を認識していない。……それが現代という時代である。人間は、ミツバチほどの知恵を、持てないのだ。

 核心


 すぐ前では、次のように述べた。
 「利己主義こそ物事の原理だ、ということはない。それは、市場原理と同様に、基本的な原理ではなく、多くの原理のうちの一つにすぎない」

 ただ、より強く言えば、次のように言える。
 「進化論においては、利己主義を前提とした優勝劣敗の思想(自然淘汰主義)は、あまり重要ではない。それは進化においては、副次的な原理、二次的な原理にすぎない。大切な主要な原理は、もっと別にある」

 これは、本質的には、次のことと等価である。
 「進化論においては、小進化よりも、大進化の方が、大切である。小進化をもたらす原理(自然淘汰)よりも、大進化をもたらす原理(分岐)の方が、大切である」
 ここで言う「分岐」については、すぐあとの「参考」で簡単に紹介しているので、そちらを参照。

 さて。なぜ、このように大切さの順序が付くかというと、次のことによる。
  ・ 遺伝情報は、どうでもいいので、あまり重要ではない。
  ・ 生命情報は、必要不可欠なので、とても重要である。
 たとえば、「目の色が青い」とか、「クチバシが大きい」とか、そういうことは、有利・不利には影響するとしても、生存にとって必要不可欠というわけではない。だから、絶対的に重要であるわけではない。
 一方、心臓の弁を形成する遺伝子とか、脳の小器官のサイズを決定する遺伝子などは、ちょっとでも狂うと、生命にかかわる。それは絶対的に必要不可欠なものだ。それゆえ、絶対的に重要だ。……そこでは、「有利・不利」ではなく、「生・死」もしくは「誕生・非誕生」という差があるからだ。
 この件については、下記で述べた。
   → 遺伝情報と生命情報遺伝子の意味(生命子)

 一般に、自然淘汰で対象となるのは、小進化の遺伝子であり、遺伝情報の遺伝子であり、あってもなくても問題ないような遺伝子である。たとえば、人間の目の色の遺伝子。
 一方、種の誕生のときに対象となるのは、大進化の遺伝子であり、生命情報の遺伝子であり、その個体にとって必要不可欠な遺伝子である。たとえば、人間の脳を形成する遺伝子。そのうちの一部が、チンパンジーの遺伝子と交替したら、脳の形成が完遂されないので、その個体は人間になりきれず、「脳の壊れた個体」となる。白痴となるか、流産となるか、いずれかであろう。それほどにも重要なものである。

 というわけで、「自然淘汰がどうのこうの」というのは、進化論においては、たいして重要ではない。人間で言えば、それは、「目の色が青い白人」と「目の色が黒い黄色人種」という亜種(?)の違いをもたらすぐらいであって、ほとんど重要性はない。
 一方、クロマニョン人以前のもの(旧人もしくは原人)から、クロマニョン人がいかに誕生したかということでは、「自然淘汰がどうのこうの」というのとはまったく別の原理が働く。そこでは、遺伝子は一つ一つ交替して置換されたのではなく、多くの遺伝子が一挙に(ほぼ同時に)形成されたのだ。……そういう大進化の過程を探るのが、進化論の役割だ。

 ダーウィンは、ダーウィン・フィンチの違いを調べて、「個々に自然淘汰が働いている」と認識した。そこまではいい。しかし、それを見て、「これこそ進化の証拠だ」と思ったのは、とんでもない勘違いだった。なぜなら、ダーウィン・フィンチは、いくらたくさんの形態があっても、いずれも亜種に過ぎず、種の違いをなさないからだ。( → Wikipedia ) そして、種の違いをなさないからには、そこには進化などはないのだ。
 自然淘汰を進化の原理と見なすのは、まったくの間違いだ。そして、その間違いを信じた上で、「利己主義こそが進化の原理だ」と思った人々が、利己的遺伝子説などを出した。
 しかし、正しくは、自然淘汰とは別の原理を出すべきだったのだ。つまり、小進化の原理ではなく、大進化の原理を。
( ※ そして、それを行なうのが、クラス進化論だ。)

 参考


 参考として、進化論との関係を述べる。(動物行動の理論ではなく。)

 ハミルトンやドーキンスの説は、動物行動をうまく説明することができた(と見えた)。「だからこの理論は、進化論として正しい」というふうに主張された。
 しかし、動物行動の理論と、進化論の理論とは、原理的には別のことだ。動物行動を説明する理論として正しいか否かと、進化を説明する理論として正しいかどうかは、別のことだ。それぞれ別個に考える方がいい。

 動物行動については、それぞれの行動ごとに、ケース・バイ・ケースで考えればいい。一般的には、「本能にしたがって行動する」と考えればいい。

 では、その本能は、いかにして備わったか? それは、「遺伝子集合淘汰」の発想で考えればいい。
 「遺伝子淘汰」は若干、不正確である。
 利己的遺伝子説は、本能を無視して、遺伝子と行動とを直接結びつけているという点で、不正確である。
 ( → 遺伝子と本能

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 さて。「遺伝子 → 行動」という関係は、上記のように説明される。一方、「行動 → 遺伝子」という関係もある。「その行動のせいで遺伝子がいかに増減するか」という問題だ。
 この問題は、「自然淘汰」の問題である。そして、自然淘汰が遺伝子の増減に影響するのは、主に小進化の場合だ。
 一方、種に固有の性質が備わることは、小進化の理論では説明しきれない大進化の理論が必要だ。そして、大進化の理論においては、(自然淘汰という)環境の影響よりも、(遺伝子レベルの)分岐の方が大切になる。
 ( → 分岐と進化

 分岐において遺伝子はどういうふうに作用するか? 実は、それは、「大進化はいかに起こるか?」という問題と等価である。そして、それを説明するのが、本サイトの「クラス進化論」である。
 ( → クラス進化論の表紙






 表紙ページ   http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/

[ END. ]