【 目的 】
量子論の問題を示すことにしよう。それがこのページの目的だ。
ただし、早とちりしないでほしい。このページは、「量子論を否定する」という立場(いわゆるトンデモ)ではない。量子力学者なら誰でも知っている問題について、その核心をはっきりとさせるだけだ。
これは、「シュレーディンガーの猫」の問題でもある。さて。「シュレーディンガーの猫」の問題については、別の専用ページで、こう述べた。
「シュレーディンガーの猫の問題は、論理学の問題である」
これはこれでいい。シュレーディンガーの猫の問題は、これですっかり片付いている。つまり、「シュレーディンガーの猫の問題は、量子力学の問題ではないから、量子力学的に扱うべきではない」と。
しかし、シュレーディンガーの猫の問題は片付いても、量子力学の問題は片付いてはいない。量子力学では、シュレーディンガーの猫を比喩的に使うことで、問題点が浮かび上がっていた。
「二つの状態の重ね合わせとは何か?」
という問題だ。そこで、この問題を、以下では扱うことにしよう。
( ※ 以下の話は、「シュレーディンガーの猫」のページと、「二重スリット」のページとの、橋渡しをする。いわば「注釈編」である。)
(コインを投げたあと、)コインが回転している間は、裏と表という二つの状態が混じっていると考えてもいい。しかし、コインが倒れた後では、二つの状態は混じっていることはない。なのに、その二つの事象を区別できないと、論理が錯乱して、シュレーディンガーの猫の問題が起こるわけだ。
「二つの状態が混じっている」と見なしてもいい、と述べたが、本当は、この解釈は不正確である。コインが回転している間には、「表」と「裏」という二つの宇宙が存在するわけでもないし、「表」と「裏」という二つの宇宙が観測者によって観測されるわけでもない。
では、本当は? 「どちらでもない」つまり「未確定だ」というのが正解だ。
生死で言えば、「生と死が未確定」という状態はあっても、「生と死が混じっている」ということはありえない。「裏と表が未確定」という状態はあっても、「裏と表が混じっている」ということはありえない。それが確率の本質だ。
( → 該当箇所 )
コインの回転を図で示せば、こうなる。(動画 GIF を使っている。)
共存 = 空間的共存
回転中 = 未確定
「二つの状態の重ね合わせ」と見なされているのは、何か?
上半分では、表または裏に確定した状態が二通りある。通常の発想では、コインは、表または裏である。多世界解釈では、コインは、表および裏の双方である。(表と裏のいずれにしても、倒れている状態。)
下半分では、表または裏に確定していない(未確定である)。コインは、倒れずに回転している。「表で倒れているか、裏で倒れているか」と尋ねられたら、「倒れていないから、どちらでもない」と答えるしかない。
回転するコインは「表でも裏でもない」「未確定である」と理解される。しかし、猫の方は、「生または死」のどちらかに確定している。「生でも死でもない」「未確定である」ということはない。── ここが、ミクロとマクロの違いだ。
ミクロとマクロとは違う。この両者を混同したのが、シュレーディンガーの猫というパラドックスだ。
では、正しくは? シュレーディンガーの猫は、どう理解すべきか? この件は、すぐあとの 【 補説 】を参照のこと。
【 補説 】 シュレーディンガーの猫の本質
シュレーディンガーの猫の本質を考えよう。ミクロとマクロを結びつけたとき、どうしてパラドックスが生じたのだろうか? ── この問題を理解するには、先の「回転するコイン」の図(動画)を見るといい。
ミクロの世界では、量子の状態は「未確定」である。「AでもBでもない」という状態がある。マクロの世界では、猫の生死は「確定」する。「生でも死でもない」という状態はない。「生」か、「死」か、どちらかだ。
では、マクロの世界では、「AでもBでもない」という状態はないのか? いや、マクロの世界でも、未確定の状態はある。それは回転するコインで、「表でも裏でもない」という状態だ。つまり、マクロの世界における、確率的な状態だ。
マクロの世界でも、確率的な未確定状態については、量子力学的な解釈が可能である。なぜかと言えば、「量子力学的な解釈」というのは、ただの「確率的な解釈」にすぎないからだ。
ただし、確率的な現象(回転するコインなど)と、猫の生死のような現象とは、まったく別である。前者は未確定の状態であるから、中間的な値を取れる。後者は確定の状態であるから、中間的な値を取れない。なのに、中間的な値を取れないものについて、あえて中間的な値を取ろうとすると、従来の解釈が生じる。コペンハーゲン解釈や、エヴェレット解釈だ。いずれも、根本的な勘違いがある。
この図を見よう。
[ 量子の世界 ]── [ 回転するコイン ]
…… [ 猫の生死 ]
図の上半分は、確率的な世界である。
図の下半分は、非・確率的な世界である。
図の上半分では、[ 量子の世界 ]と[ 回転するコイン ]は、ともに確率的な世界にある。だから、どちらも、中間的な値を取れる。(「未確定」であるから。)
図の下半分では、[ 猫の生死 ]は、中間的な値を取れない。(「確定」しているから。)
シュレーディンガーの猫のパラドックスとは、何か? こうだ。
「確率的な世界の現象を、非確率的な世界と結びつけたこと」
これが根本的な勘違いだった。量子の世界を、回転するコインと結びつけるのならば、正当である。どちらも非確定の現象(確率的な現象)であるからだ。ところが、どこを血迷ったか、猫の生死と結びつけてしまった。そこに、根本的な錯覚がある。もちろん、コードで物理的に結びつけることは、可能である。しかし、コードで物理的に結びつけても、意味的には結びつかない。そこを勘違いすると、シュレーディンガーの猫というパラドックスが生じる。
たいていの量子力学者は、こう思う。
「量子力学の扱うミクロの世界では、マクロの世界とは異なる不思議な状況がある」
これは、まったくの間違いだ。量子の状態には、「AでもBでもない」という状態がある。しかしそれは、マクロの世界でも、当り前にあることだ。たとえば、「回転するコイン」のように。
つまり、確率的な現象はすべて、量子力学の場合と同様に、「AでもBでもない」という状態があるのだ。別に、ミクロの世界に、限ったことではない。
マクロの世界には、確率的な現象(回転するコイン)もあるし、非確率的な現象(猫の生死)もある。この両者は、「確率的か/非確率的か」という違いがある。
「ミクロ/マクロ」という区別をするのならば、「量子/回転するコイン」という比較をするべきだったのだ。なのに、「量子/猫」という比較をした。そしてそれを、「ミクロ/マクロ」の違いだと思い込んだ。そう勘違いしたせいで、こう結論した。
「ミクロの世界では、マクロの世界とは異なる現象がある」
と。── そこに、シュレーディンガーの猫のパラドックスの理由があるのだ。次の表を参照。(すぐ上の図を、簡略化したもの。)
上段同士(量子とコイン)を比較すればいいのだが、上段の左と、下段の右とを、比較してしまった。比較にならないものを比較してしまった。
\ ミクロ マクロ 確率的 量子 コイン 非確率的 猫
そして、上段の左と、下段の右との違いは、「上段か下段か」(確率的か非確率的か)という違いなのだが、それを誤解して、「左か右か」(ミクロかマクロか)という違いだと思い込んだ。── そこに、勘違いの理由がある。
( ※ なお、上段と下段とは、結びつかない。「確率的な現象」と「非確率的な現象」とは、結びつかない。無理にコードで結びつけると、どうなるか? 左上と右下を結びつけると、「シュレーディンガーの猫」となる。右上と右下を結びつけると、「ナンドウの猫」になる。……どっちみち、無理にコードで結びつけても、ほとんど意味はない。)
( ※ たとえて言おう。トムの胸とジュリーの胸を、電源コードで結びつける。これで、二人は心を通わせて、愛しあうだろうか? 「イエス。コードで結びつけたのだから、二つの心は一致するはずだ。二人は愛しあうはずだ」と思うのが、量子力学者だろう。しかしこれは、大いなる勘違いである。無理にコードで結びつけても、ほとんど意味はないのだ。)
( ※ 「未確定」という言葉の意味については、数学的な確率の話もある。「シュレーディンガーの猫」のページにある [ 誤差の話 ] を参照。)
【 参考1 】 ミクロとマクロ
「ミクロとマクロの違いは、どこにあるか?」── そういう疑問を感じる人もいるだろう。
この問題については、次のように答えることができる。
「波と粒子との相互転換があるのが、量子力学の世界。粒子がずっと粒子のままであるのは、マクロの世界である。たとえば、化学の世界がそうだ。」
具体的に言えば、次の例。
第1に、一つの電子が運動することがある。これは、
「一つの電子が消滅したり発生したりすることだ」
と理解できる。だから、これは、ミクロの世界で説明され、量子力学が扱う。この量子は、安定した質量とは見なされず、質量とエネルギーとの間で、たえず相互転換するものだ。その相互転換の仕方を、シュレーディンガー方程式が示す。
第2に、一つの分子が分子のまま安定していることがある。通常、そうだ。これは、
「一つの分子が消滅したり発生したりすることだ」
とは理解できない。分子は分子として、安定的に存在し続ける。ひょっとしたら、ときどき陽子や電子が外部の陽子や電子と交換されるかもしれないが、そんなことは、あってもなくても何ら影響がない。だから、無視してよい。ここでは、量子力学はあまり関係なくて、単に化学的に化学反応を考えるだけでいい。
( ※ ただし、化学のエネルギーなどを数量的に考えるときには、単体としての電子の移動が問題になるので、この場合には、量子力学が用いられる。とはいえ、「水素と酸素を結合すると、水ができる」ということを説明するには、いちいち量子力学を使う必要はない。昔ながらの化学式で十分だ。)
( ※ 同様に、惑星の運動を考えるときにも、物質が安定的に存在していて、消滅することはないから、量子力学は不要である。とはいえ、物質は安定的に存在していないときには、当然、量子力学は必要とされる。たとえば、恒星のエネルギー反応などだ。……ミクロの世界とマクロの世界を区別するのは、寸法の大小ではなくて、「物質が安定的に存在するかどうか」ということだ。それは、つまり、「波と粒子との相互転換があるか」ということだ。……なお、この件については、「表紙」ページの後半でも、核心を示しておいた。これも、ぜひ読んでほしい。)
【 参考2 】 量子力学の範囲
すぐ前に述べた発想(波と粒子の相互転換という発想)を取ると、「量子力学の範囲はどこまでか」という疑問に、自然に答えることができる。
従来の発想では、たいてい、次のいずれかだった。
(1) 「ミクロとマクロの範囲は、区別しがたい。はっきりと境界を引けない。」
(2) 「ミクロの範囲はどこまでも続く。マクロの範囲も、ミクロに含まれる。」
後者の代表格は、(コンピュータで有名な)ノイマンだ。彼の主張では、こうなる。
「マクロの世界の物質も、その物質の一つ一つの原子は、量子力学で示されるとおりに動く。たとえば、猫も、猫を構成する一つ一つの原子は、量子力学で示されるとおりに動く。だから、原子の総体としての猫は、量子力学で示される。」
しかし、これは、完全な間違いである。それが証拠に、この発想では、猫の生死を、まったく扱えない。生きている猫と死んでいる猫とは、明らかに生死が異なるのだが、それを量子力学では扱えない。なぜなら、量子力学には、「生死」という概念がないからだ。
同じことは、「愛」や「悲しみ」という人間感情にも言える。これらの感情は、人間の感情であるから、人間が一つ一つの原子から構成される以上は、これらの感情も量子力学で示すことができそうだ。とすれば、人は、
「彼女は私を愛してくれるのかな」
と考えるかわりに、量子力学を解けばいい、ということになる。水野百合子という女性が、素敵な男性である大山太郎を愛するか、変な男性である小山次郎を愛するかは、量子力学を解けば判明する、ということになる。……しかし、ノイマンがこんなことを主張したら、聞いている女性は、「馬鹿じゃないの?」と軽蔑の眼差しを送るだろう。
だから、マクロの世界のことは、量子力学では扱えないのだ。では、量子力学が扱えるのは、どこからどこまでか?
ここで、上の【 参考1 】述べた発想(波と粒子の相互転換という発想)を取るといい。そうすると、この疑問に、うまく答えることができる。つまり、こうだ。
「量子力学が扱えるものは、波と粒子で相互転換するもの(つまり量子)だけである」
このことは、わかりやすく言い換えると、こうなる。
具体的に言おう。ミクロとマクロでは、こう異なる。
量子力学が扱えるものは、真空中で発生するもの(つまり量子)だけである。
ミクロの世界では、陽子や電子が、真空中で発生する。つまり、真空中で、「陽子と反陽子」とか、「電子と反電子」とか、あるいはさらにはもっと複雑な形で、量子が発生することがある。こういう量子を、量子力学は扱う。その意味は、「波が粒子になること」であり、その量は確率的に示される。
マクロの世界では、物質(分子の形で安定しているもの)は、真空中では発生しない。たとえば、H2O という水の分子は、安定的存在している。水の分子が、真空中に急に発生することはない。同様に、猫が真空中に急に発生することもない。また、猫が急に地上で消滅することもない。……これらの物質は、安定的に存在しているのだ。量子力学的に言うなら、これらの物質が発生したり消滅したりする可能性は、限りなくゼロに近いから、いちいち考えるのも馬鹿らしい。
要するに、マクロの世界のことを量子力学で扱うとしたら、「そのまま安定しています」ということ以外には、何も言えない。常に同じ命題を出すような理論は、たとえ正しい命題を出すとしても、それはまったく無意味なのである。
その意味で、量子力学は、マクロの世界に適用することはできるとしても、まったく無意味なのだ。
たとえて言おう。「真か偽かはっきりしている命題は、真と偽のどちらかである」という命題は、常に正しい。しかし、正しくても、何の意味もない。
量子力学も同様だ。量子力学をマクロの世界に適用すれば、(たとえ正しくとも)意味のない命題しか出せない。猫について言うなら、「真空中に浮かんだ猫の死骸食は、宇宙線の影響を受けなければ、そのまま何百年も消滅せずに残る。猫の全分子が確率的に消滅してしまうことはない」と言えるだけだ。量子力学は、そういう無意味なことを言える。そして、それ以上のことは、何も言えない。……このことを、ノイマンは勘違いしている。
【 参考3 】 力と空間
上の 【 参考1 】 で述べた発想(波と粒子の相互転換という発想)を取ると、「力とは何か」という疑問に、自然に答えることができる。
従来の発想では、こうだった。
「力とは、粒子の交換である。たとえば、陽子と中性子がくっつく力は、中間子の交換のことである」
厳密には「相互作用」とか「ゲージ粒子」とかの用語を使うが、原理的には、そう説明される。
ところが、この説明は、陽子と中性子ならまだいいが、もっと小さな量子になると、いささか不自然になる。ごく小さな量子をつなぐための力が、かなり大きな粒子の交換によってなされるからである。
たとえて言おう。サッカーボール二つを結びつけるために、ピンポン玉を交換する、というのなら、わかる。しかし、サッカーボール二つを結びつけるために、重たい砲丸投げの鉄球を交換する、というのなら、あまりにも不自然だ。
従来の発想では、こういう不自然さがある。(論理矛盾というわけではないが。)
新しい発想(私の発想)では、こうなる。
「力とは、粒子の交換ではなく、波の交換(波の伝播)である。たとえば、陽子と中性子がくっつく力は、一定の波長の波が伝播することでなされる。……ただし、波が粒子に転じると、中間子として現れる」
この場合、観測されたものを見る限りは、同じく中間子が観測されるだけだから、従来の説と比べて、まったく同じである。とはいえ、新しい解釈では、「観測されなくてもいい」という場合が残されている。
だから、非常に重い粒子の場合には、波が粒子にならなくてもいいのだ。波は観測されないまま、波として伝播する。それだけで、力は伝わる。そして、波が粒子になった場合には、とても重い粒子になる。ただし、重い粒子になる力の場合には、波が粒子になることは、ごく稀である。つまり、確率的にたいていの場合、粒子は現れないまま、力が生じる。(これは従来の解釈とはまったく異なる。)
では、力とは、何か? 新しい発想では、力の意味が、まったく新しい意味合いで解釈される。それは、次の二点だ。
二番目によれば、力を「空間の歪み」として認識してもいいことになる。
- 電子が発射されると、電子の粒子が一定方向に進むように見える。しかし本当は、波が伝播しているだけである。その波の伝播とは垂直方向に、磁力とクーロン力が働く。(フレミングの法則。)(なお、波の伝播と同じ方向に進むのが、重力である。)
- この力は、単独の粒子によって生じるものではなく、空間の歪みによって生じる。力とは、空間の歪みが、周囲の物質に波及することだ。
そして、これは、一般相対論の発想と、まったく同じである。つまり、新しい発想では、「力とは何か」を考えるとき、量子論と相対論とが統合されるのだ。
一方、従来の解釈では、「粒子の交換」というふうに、空間のかわりに物質によって力が説明される。これは、相対論に対する古典力学の発想に相当する。
結局、従来の発想では、「力とは何か」について古典力学的な発想をしているのだが、新しい発想では、「力とは何か」について相対論的な発想をしているのだ。……両者は、このように、本質的に異なるものだ。
【 付録 】
カシミール効果の意味
カシミール効果については、すでに「観測の意味」のページで、簡単に言及した。( → 該当箇所 )
そこでは、カシミール効果は、コペンハーゲン解釈が間違っていることの根拠として示された。
ただし、何が間違っているかは判明したが、何が正しいかは判明していない。そこで、カシミール効果が何を意味しているかについて、正解を説明しよう。
まず、「観測の意味」のページで示したのと、同じ図表を掲げる。
コペンハーゲン解釈(観測前)
(観測後)
or or 無
カシミール効果
真空 ←→ +
(確定後)
or or 無
ここで、左下の欄が、カシミール効果を示す。では、この現象は、何を意味するか?
その問題に対する解答は、すでに本ページで何度も繰り返して説明してきたとおりだ。すなわち、こうだ。
「波と粒子の相互転換」
このことを、カシミール効果に当てはめれば、次のように書ける。
カシミール効果
《 真空・波 》 《 粒子 》
正のエネルギー ←→
‖ 相殺
負のエネルギー ←→
この図表を説明しよう。
量子は、波と粒子の間で相互転換する。波とは、エネルギーの波だ。正のエネルギーは粒子になり、負のエネルギーは反粒子になる。
では、エネルギーのない状態では、どうなるか? エネルギーのない状態とは、エネルギーがゼロである状態だが、それは、「正のエネルギーと負のエネルギーが釣り合っている状態」(相殺している状態)でもある。(図の縦方向)
しかも同時に、次のことが起こる。(図の横方向)
・ 正のエネルギーは、粒子との間で相互転換する。
・ 負のエネルギーは、反粒子との間で相互転換する。
このことが、すぐ上の図表で示される。( ←→ は、相互転換を示す。)
ここで、「存在」という言葉をとらえ直そう。
・ 正のエネルギーや粒子のある状態を「存在」と見なす。
・ 負のエネルギーや反粒子のある状態を「反存在」と見なす。
こうすると、「存在」の値を、正負の値で示すことができる。そして、その中間的な状態を、ゼロで示すことができる。
この場合、存在がゼロであることは、「何も存在しないこと」を意味するとは限らず、「存在と反存在が同時に起こっていること」を意味することもある。……そういう事情が、カシミール効果の図表からわかる。
( ※ コペンハーゲン解釈では、このことを理解できないが、本サイトの解釈では、このことを理解できる。「存在」の値がゼロである場合の二通りの違いを区別できる。)
結局、「波と粒子の相互転換」という概念を用いれば、カシミール効果はうまく説明されるわけだ。
逆に、「観測が状態を決定する」という発想(コペンハーゲン解釈)を取ると、カシミール効果に矛盾するわけだ。(「観測の意味」のページで示したとおり。)
カシミール効果の意義を考えよう。
そもそも、カシミール効果は、次のことを主張する。
「真空から、粒子と反粒子がたえず発生したり消滅したりする」
このことは、実は、本サイトで取る主張の基本概念そのものだ。そのあらましは、「二重スリット」のページで、初めのあたりのモデルで示したとおりだ。
とすれば、本サイトで主張することと、カシミール効果とが、整合的であるのは、不思議でも何でもないわけだ。原理が同じなのだから。
このあと、さらに詳しい話を知りたければ、「二重スリット」のページを読んでほしい。
なお、カシミール効果を示す実験のあらましは、次の文書を参照。
→ カシミール効果の重要性
[ THE END ]