「川柳」の言葉の意味は知らずとも

 人権標語の募集とやらが人権週間ということであった。
 私はこんなの苦手である。差別の対象がはっきりしており、それをどうやって無くすかという問題意識のはっきりしたものなら標語を作ることもできようが、ご存じの通り日本は差別用語の言い換えによって、できるだけ差別対象を表示しないようにしようという社会通念が出来ている国である。いきおい「差別をなくし、つくろうみんなの明るい社会」という結局何も言っていないようなものとなる。攻撃していいのは「差別」という単語だけであって、それ以外のものを具体的に取り上げることすら「ちょっと」ということになる。
 いまだに不思議なのがNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」がなぜ途中で「片方の目に障碍のある人政宗」とタイトル変更にならなかったかということである。

 まあ、世はインターネット時代。WebPageを「人権啓発標語」でサーチして見つかったものを並べて、端から適当にアレンジした。
 こういうとき便利なのは日本人に深く染みついた詩形「俳句」である。とりあえず目についたものを五・七・五に書き換えるとそれなりに格好が付く。おっと「季語」があるとは限らないから川柳か。で、今回はこの「川柳の話」。(しかし「人権標語募集のお知らせ」というWebページはやたらヒットするけども、応募された作品を表示したサイトは少ないねえ。あーあ、長い前ふりであった。)

 川柳の募集が社内報とかであった。
 私はこんなの苦手である。季節感に代表される日本人の共有意識に訴えようという意図がはっきりしている「俳句」なら何とか作ることもできようが、ご存じの通り川柳とは同時代的な事象を諧謔味を含ませて表現するというものである。いきおい差別意識を助長するような笑いを含ませたものとなってしまい、人権擁護派から何といわれるか分からない。朝日新聞朝刊の「フジ三太郎」ですらサラリーマン差別漫画といわれたんだ。意識的に差別の要素を取り去った笑いというと植木等くらいなものか?(萩本欽一は微妙。)

 で、あー川柳は苦手なんだよなあ、と言っているとうちの若いのが「川柳ってなんですか?」(^^;「しらないのかお前」「僕理系ですから」「おいおい、小学校で習っただろ」と問うがやはり「しらない」そうな。なんと。
 しばらくしてから彼は言った「川柳って、伊藤園のお茶の缶に書いてある奴ですか」、「そうそうそんなやつ」。

 もっとも、自分も同じように言われる可能性はある。「ゴッホのオーヴェールの教会が・・・」などと切り出されたら。小学校の教科書に載っているとはいえ、すぐに思い起こせる人は稀であろう。(私はたまたま覚えているのでこうして例に出せたわけだが)
 これが「御成敗式目」の成立年号を忘れたのであれば「いやあ歴史は苦手でして」と逃げてもだれもとがめはしないが、ゴッホの芸術作品だと何かしら恥ずかしい。実際に言う奴はおるまいが「えー、小学校の教科書にも出ている有名な作品ですよ、知らないんですか?」と笑われても仕方がない。

 小学校の国語の教科書の内容は遠い昔のことで忘れたとしても、漢文の教科書に載っている程度の七言絶句の一つや二つは暗記しておくとかっこいいなあ。
 それを考えると、我々は誰もがかなりの教養人であったのではなかろうかという気になる。だってテスト前は教科書のものとはいえ漢詩を暗記していたでしょ。またこんなことも言える「いやあ、昔は俳句とかも詠んでいましてね」嘘じゃないぞ。国語の時間作らされただけだけど。

 そうだ。誰もが教養人なのだ。得た情報の量にそんなに差があるわけがない。なぜならたいていの人は、目があって耳があって鼻がある。産まれてからこれまでに、吸収した情報量にそんなに差があるわけがない。であれば、摂取した知識量にそんなに差が出るはずがない。
 ではなんでいわゆる教養人とそうでないものができるか、というと、ここで学問のススメの世界につながるわけですね。先ほど冒頭の有名な文章「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」でWebを検索しましたところ、差別の排除を主張するページが大量にヒットしました。
 でも福沢君はこれを主張しているわけではない、ようするに「なのに差があるのは何故か」を問題にしている。
 Webの時代になって、この差が更に大きくなるのではという気がする。Webをうろついて得ることのできた情報の差は、本を読む量に起因する情報量の差以上に個人によるばらつきが大きかろう。
 デジタルデバイドの問題は、パソコンをばらまき、コンピュータ教育をすると次世代において解決すると楽観視している人も多いが、Webによって得た知識をどう選別し整理し応用してゆくかという部分が、次世代においては差となってきそうである。さあ、カリキュラムに載せることが出来るのだろうか。まずは福沢諭吉のかの本を買ってきて読まないとね。

 もうひとつ重要なのは、例えばWebで見かけたちょっとしたことを自分のどっかに引っかけるフックのようなものをたくさん用意することかな。かの川柳を知らなかった若いのも伊藤園の缶茶に五七五の詩が印刷されていることには気がついていた。ならば川柳が何であるかを理解するのはそれほど難しくない。
 どこかで見たもは、どこかで知っているのだ。だから人間の感覚器官にそれほどの差がない以上、基本的な知識量にさほどの差がないと思っている。しかも、絵画や漢詩など教養あふれる学校教育を受けてきているではないか。


 まあ、誰も見たことがないのに誰でも知っているというものもあるわなあ。子どもに絵本を読んでいて見つけたのが「もぐら」。実際に見たことある人いますか?写真ですら見た覚えがない人がほとんどではないでしょうか。その意味でパンダ以上の珍獣かもしれない。でも、当たり前のように絵本に出てくる。私はかつて一度だけミカン畑で見ましたが、それもまだ毛も生えていない「あかちゃん」でした。ものすごくかわいいんですよ。でも、今考えると農作物に害を与えるとかで、文字通り日干しになっていたんだろうなあ。

 冒頭書いたように人権標語は五・七・五にしたくなる。日本語ではそれがいちばんきれいに響くからだ。でも天才はその上をゆく。

かめのせなかにまたがった
ほら、このうさこちゃんのとくいがお
(「うさこちゃんとどうぶつえん」いしいももこ やく)
「ほら」でわざと七五調を崩している。だから印象が深くなる。これに気がついたとき、全身鳥肌が立った。
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