芝生でのびのび

 かの、東京ドイツ村に行ったときです。東京ドイツ村の売りの一つにとても広い芝生広場、というのがあります。近くにいたヤングパパ&ヤングママが「これだけ広かったらこどもたちにはいいだろう」と言うておりました。でも、実際にはどうだか。
 たまに、こどもをのびのびと遊ばせよう、と広い芝生に連れて行ったりすると、どうしていいか分からずにいる、そこで誰かがゲームボーイを出すと皆さん目を輝かせる、といった記事を見かける。最近の子どもは遊びが下手になった、想像力がなくなったということを嘆いているのかもしれないが、別にそれほどのことではない。そういうことを感じる人は、あるいは冒頭にあげたヤンパパは、子どもというものは広い芝生に連れて行くとひたすら鬼ごっこをするとでも思っているのだろうか。

 のびのびと遊びなさい、と言ったとき、子どもに「じゃあ何をすればいいの」と問われてたとき、どう答えるのだろうか。「自分で考えなさい」というのは簡単だが、「例えば?」と聞き返されたときの答えを用意しているのだろうか。
 まあ、芝生が平らで、サッカーボールがあれば話は別なのだが。あ、サッカー禁止の盾看板がないという条件付よ。

 こういう「のびのびと遊ばせる」というときの「のびのび」は時間ではないかと思った。
 正確には「やりたいことのじゃまをしないこと」である。確かにドイツ村で娘が気に入ったのは砂場だった。
「あそこまで行って砂場」と思ったが、周りに競合する子どもがいない。本人ひたすら砂を掘っては積み上げていたが、これはなかなか得がたい経験ではなかろうか。

 あるいは、せせらぎがあったとすれば、そこにずっと手を入れてつめたいなあ、と思っているだけというのも、本人やりたがっているかもしれない。うちの子はよく水道に手を浸して「つめたい」と延々ぴちゃぴちゃやっておるが通常であれば水道料金を気にして、あるいは洗面台に来た本来の目的である歯磨きを気にして途中で止めさせてしまう。たまには気の済むまでやらせておいたほうがいいわけであろう。

 まあ広い芝生に連れて行ったとき、子どもは足元の草をちぎりつづけるだけかもしれない。「そんなことをしちゃ駄目」と、怒ってしまいそうである。が、邪魔をせずに気の済むまでやらせることが「芝生でのびのび」の意味なんだろう。
 大人から見れば取るに足らないことでも、子どもは何時までもやっていたがることがある。つい、何を意味のないことやっているんだろう、と思う。でもたまにはそれにずっと付き合ってやらないと、とも思う次第。
 私には芝生で何をやって遊べばいいのかすぐには想像できない。でも、子どもは芝生の草を延々むしるという遊び方を考え付くのだ。考えつかない人間が、考えつく人間のやることを邪魔してはいけない。とりわけ、何か考えつくのを期待している場合には。
 だって、芝生でのびのび、何かをさせたいと、芝生に連れてきているわけだろう

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