もっと勇気を

 夏の甲子園で優勝した時の平井投手のコメントが良かった。
「船舶免許を取って、父親を自分の運転する船に乗せたい」
島育ちなので、練習が遅くなったときは父親が船で迎えにきてくれていたそうな。その恩返しをしたいということらしい。

 そこまでかっこよくはないが、私も念願かなって父親を助手席に乗っけて高速道路を走っていた。そのときされた質問。「さっきまで渋滞していたのが、なんで急に流れはじめたんだ?」同じような疑問は誰もが持つだろう。それについての私の回答はだいたいこんな感じだった。

 さっきのように渋滞してノロノロであろうと、今のようにガラガラでスイスイであろうと、高速道路上の特定の断面が単位時間的に通過させている車の数は変化がないはずである。つまり、空いているかどうかというのは、輸送量の問題ではなく、その上を走っている車の速度の違いである。
 ということは、誰もがもう少し勇気をもってアクセルを踏めば渋滞は解消されて誰もが幸せになれるはずである。どこかで聞いたようなイメージであるが、その理由は「ひとりひとりがもう少し勇気を持って取り組めば、世の中は住みやすくなります。さあみなさんもっと勇気を!」という言い回しと構造的に同一だからである。

 ところが「高速道路の渋滞」となると、誰もが勇気を持てない理由が少しだけ具体的に分かる。つまり心がけだけではどうにもならない理由が分かる。

 分かりやすいのは合流点。通常の運動神経で、合流時に事故を起こさない程度に速度をゆるめる。
 カーブやトンネルの入り口も速度を落とす。事故が起こりやすいがゆえに制御可能な速度までは落とす。これは合理的な理由である。かくして、ドライバーの技術向上を図れば渋滞は解消されることになる。
 先ほどは、社会運動をもじって「ひとりひとりがもう少し勇気を」と書いたが、今度は会社の生産性向上運動の標語のような結論に達する。「一人一人がスキルアップを」。

 逆にドライバーの心がけを変えて渋滞を起こすことはできるだろうか、もちろん可能である。例えば「この先事故渋滞」の表示を電光掲示板に出すとする。みなさん心持ちアクセルをゆるめる。交通量によってはこれだけで渋滞が始まることもある。渋滞の原因となった事故車が取り除かれているのを見て、みなさん「なんだ、もうきれいになってるじゃないか」などといいながら安心して速度を上げる。で、渋滞が解消する。予言の自己成就というやつかな。

 では、勇気をもち、更にドライバー技術を向上させると渋滞は解消するのか?これについてはアプリオリに言ってしまう。無理だ。
 要するに他の車を信用していないのだ。自分が大丈夫でも他がどうかは分からない。上り坂になるので渋滞しやすいところなど、ある程度知っている人であれば心持ちアクセルを踏み込んで速度を保つ。ところが前の人がそうするとは限らない。で、ちょっと様子を見る。結果として自分の速度も落ちてしまう。

 最後の例、何の標語に例えられるだろう。
 信用し、信用されているから、勇気を出せる/スキルを出せる。。。か?
 あるいは情報開示の重要性か?それこそ周りの人間が全てF1ドライバーという情報があれば、よほどのことがない限り渋滞はしないだろう。せめてここは坂道だから少しアクセルを踏み込むべきだという情報を誰もが知っており、周りの人間がそれに従うという情報を誰もが知っていれば、ここでは渋滞しないはずだ。

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