バケツでウラン

 東海村で、ウラン溶液をバケツで作っていたら臨界に達してしまったという事件。
これを聞いてまず私が持った感想は、例によってやや妙なものだった。

 なんで、バケツくらいでウランを臨界にもっていけるんだ。

 バケツでウランを臨界にもっていけるのなら、マンハッタン計画のような巨大プロジェクトが実際に必要だったのだろうか。発電用程度に濃縮されたウランがあれば爆弾が作れるということだからね。それが判明したことってすごく危なくないだろうか。このご時世。命知らずのテロリストが町の真ん中でバケツを出して溶液をかき混ぜる、あり得ないことではない。

 作業員達の教育がなっていない、という批判も出たが、作業員達としては「ウランを核反応させるのはとても大変らしい。なら、多少のことをやっても問題はないだろうな」と理路整然と判断しバケツでウランを溶かしていたのかもしれない。(実際には研修等がなされていなかったようだが、最初に私が思ったのはこれ。)

 承認されていない行為を現場の判断でやっており、管理者もそれを黙認していた、ということがやり玉に挙がったが、ここで問題なのはバケツでウランを溶かすという作業は、彼らにとっては「業務改善」だったということだ。作業員達がQCサークルで知恵を出し合った結果こうしたのかもしれない。マニュアルができていたことからもそれは伺える。
 更には作業員達の教育をやっていたとしても、作業員達は「バケツでウランを溶かしても安全」と判断するかもしれない。なんといっても動燃はプルトニウム水は飲んでも安全というビデオを作ったわけだから。濃縮ウランは安全、と教育することであろう。
 つまり彼らは、バケツでウランを溶かすという作業を「よかれ」と思ってやっていたわけだ。暴走したとき止めようがないという意識があったとしても、まず暴走するとは考えないだろう。

 さらにそのような「業務改善」のあと、誰かが臨界に到達するかもしれないという恐れに気がついたとして、今度は元の手順に戻せるかどうかという問題が発生する。

 まず無理だろう。もし誰かが「業務改善」のもたらしたリスクに気がついて直そうとしても、他の作業員からは「仕事が面倒になる」と反発を喰らうだろうし、管理者に報告しても「そんな作業をやっているとは聞いていない」でチョンである。下手に騒ぐとそういったリスクのある手順をとっていたことの責任が自分に降りかかってくる。だとすれば、普通は元の手順に戻そうとはしないだろう。
 なおこの種の反発は「業務改善」を元の手順に戻す場合だけでなく、現行の手順に何らかの問題点を発見した場合にも予想される。実働部隊からは「手順が面倒になる」と反発され、管理者からは「なんで今までそういうことをしていたんだ」と文句を言われる。

 問題点発見者に相当な情熱に期待するしかないが、景気が悪くなると情熱にも陰りが出るだろう。作業の人員は減らされているのに業務を大変にしようとすると反発はより大きくなる。問題を修正しても利益を生むわけではないので、管理者も話に乗ってくれにくい。

 かくしてバケツにウラン、のみならずバケツでミルクをかき混ぜることになる。これが問題だというのは従業員教育を行わずとも分かり切ったことであろう。でも雪印は改善しなかった。

 同種の問題が起こると「事なかれ主義」「先送り主義」と一括りにして批判されることがあるが「主義」というイデオロギーの問題ではない。「事なかれ」と「先送り」にするような誘因が構造的に存在するのだ。だって今より悪くならない。「事があるから」「今すぐ」何かすると少なくとも忙しくなる。コストはかかる。誰だってやりたくはないだろう。そんなこんなで構造改革が必要になる。少なくとも「問題点を発見して、リスクを回避した部署は増員」というくらいの誘因は必要である。
 そのうち、問題点を発見して何とかして改善しなければ、と思い詰めた人間は考えつくぞ「よし、出所不明のインターネットメールを出してリークしよう。そうすればトップダウンで問題点が改善されるから」と。で、この行動でバケツの中のウランが核反応を起こさなかったとすれば、それは道徳的にも正しいことと判断されるのではないだろうか。

 ちなみにシステム屋は暴走の怖さを知っているので、普通改善には慎重である。コンピュータは一人の人間が一生かかるような量の計算を一瞬でやってのける、という触れ込みで導入されたが、人間が一生かかってもできないようなミスを一瞬でやってのけもする。
 身にしみた人間はそのへんを危惧する。正常な感覚だ。99.9%問題なくとも起こる可能性のあることは(計算の回数が多いので)確実に起こる。
 ですから対応が遅いと、皆さん責めないでください。99.999%まではなんとか詰めたいんですよ。
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