牛丼tribute

 吉野家の牛丼が目の前に差し出されるとき、我々は高校時代の部活の帰りの友人との語らいや、準備に夜遅くまでがんばって成功にこぎつけた学園祭のことを思い出すのである。牛丼はもはや日本人に深く根付いた文化であり、生活の一部なのだ!
 残念ながら上の主張、私のオリジナルではない。「冷たく固い瓶が転がり落ちる音を聞くとき、我々は初めて行ったフットボールの試合や、ティーンエージャーのころのデートを思い出すのだ」というコカコーラへの賛辞のもじりである。(又聞きなのではっきりしないが、ペプシの会長がこういったらしい。)
 吉野家の牛丼だといまいち決まらないが、この気持ちが分かってくれる人は決して少なくないだろう。

 しかし、駆け込みで食べに行くほど私はノスタルジーにおぼれる人間ではなかった。やはりBSEの危険性を冷静に避けた。そして「日本向けの牛だけでも全頭検査すると早く言ってくれよ」と合衆国に対して思った。危機管理がなっていないと言われる日本のお役所ですら全頭検査にためらいはなかったんだし。おかげで日本の畜産業は壊滅することなく、逆に高い利益を上げているはずである。それをやらないとは合衆国の牛、何かやましいことでもあるのだろうか。例えば国内にBSEが蔓延しているのがばれてしまい、大統領が次の選挙で落選するかもしれないとか。

 そういえばこんな記事もあった。
「牛肉の安全 全頭検査しかない」 異常プリオン発見者
 ノーベル賞学者までもが全頭検査を主張しているのだ。なのに頑なに拒み続ける合衆国政府は何を考えているのだろうか。でも、まてよ。多少は合衆国政府の側にも立とう。この学者の言うこと信じていいのか?
 この学者、異常プリオンを発見したということは、異常プリオン発見法についての特許を持っている可能性がある。つまり全頭検査するとこの学者にはとてもたくさんお金が入るのかもしれない。だからこの学者、別に方法があったとしても「全頭検査」と言うんではないだろうか。
 知的所有権の負の側面が出た。知的所有権を持っていると主張が眉唾にとられてしまうこともあるのだ。多分言っていることは正しいのだろう。でも彼が求めているのは、例えば日本人の食の安全だろうか、それともロイヤリティーだろうかと思われたら、その主張は割り引いて受け取られてしまう。そして、全頭検査に何とかして反対したいと思う人は「主張している人間を利するだけだから、全頭検査は不要」と考えてしまうものなのだ。かくして本当に必要と思うのであれば、ロイヤリティーを放棄しなければならない。
 なんとまあ、不便な世の中になったことか。

 まあよい。合衆国市民がBSEで死ぬかもしれないがかまわないと合衆国政府が判断しているというだけのことだ。イラクに行った兵士が劣化ウラン弾で被爆しても気にしない政府なんだからさもありなん。でも日本に輸出する分の検査コストはきちんと払うと日本人は言っている筈なんだけどなあ。日本人は客なんだぞ。奴らは接客意識がないのか?
 国際競争力の算出基準に「接客意識」があれば、合衆国は相当順位を落とすであろう。

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