デジタルデバイド新時代

 インターネットの「質問掲示板」ってので、こんなのがあった。「ビリヤードのキュー、○○でできたものを10年探していますが見つかりません。」
 ここは楽器関係の質問箱なのだが、なんでビリヤード。当方ビリヤードについては素人で佐伯陽子の北斗七星が物理的に不可能ということがまだ理解できないのだ。が、ちょっと刺激されたので調べた。○○は素材名ね。でこれをキーワードにして質問者さんは何回も調べただろう。だからこれでは出てこないはずだ。ということは○○は一般的な名称ではない。商品名だろうから、それを修飾語部分と普通名詞と思われる部分に分割。「ビリヤード」「キュー」という単語とともにAltaVistaじゃなかったGoogる。これかな?解説文を見ると質問にある特徴と一致している。かくして取扱店判明。

 きちんと教えてあげたが、おい、礼がないぞ。でもまあ本人代価は払ったつもりなんだろう。自分のプライドという形で。ひょっとしてぼく答えない方がよかったのかな?いや役に立ったはずだし。。。とめんどくさいことを考えさせられてしまった。
 何がいいたいかというと、ここで起こった「マニアの10年の調査を素人の5分が上回る」の一見不可思議な現象はなぜもたらされたかということ。検索ワードの選び方の差だ。たったこれだけのことなんだ。つまり同じインターネット環境を前にしてぼくとその人は一つの商品を探すにおいて既有の知識の圧倒的な差にも関わらず劇的な逆転がおこってしまった。インターネットの検索エンジンという単純なものですら使い方の勘があるひととそうでない人では大きな差が付くのだ。つまり少なくともこの場合において、インターネットが普及したために、この人と僕の勘の差は、実知識の大きな差として返ってきたということだ。
 少々センセーショナルな書き方をすると「インターネットは使う人の格差を拡大する」のだ。使える人と使えない人に格差をもたらすのではない。うまく使える人とそうでない人の差を拡大するわけだ。そう、デジタルデバイドだ。ただしちょっと傾向が違う。
 何年も前から「調べ学習」というのがもてはやされている。ネット検索の普及のおかげでWikipedia丸写しというのが一般的になってから下火になっているかもな。でもさ、逆にいうとWikipedia程度の知識は誰でもインスタントに得られる、つまり今まではある程度いい顔をできた程度に知っているだけの人は、Wikipediaとネット検索によってその価値を大いに減じられ、それ以上のものを持っていないと相手にされないかも、ってことだ。

 となると、今後の「コンピュータ教育」はこの「調査能力」に重点を置く必要があるだろうと言うことだ。おい、娘よ、おまえん学校コンピュータ教育に力入れてるそうだが、こういうこと教えてもらっているか?・・・聞くだけ悲しくなるだけか。いやあ、すごい学校ですよ。はやりの学校裏サイトというのがないか調べたのですわ。見つかりました。wikipedia丸写しの学校紹介でした。なんと平和な。というわけで僕が教えます。なんか社会科見学に行くというところを調べてたんですよ。例によってGoogleで調べて「大した情報がない」とわめいてます。じゃあ本探しに行く?

 うちのガキは当たり前のように備え付けの端末を叩いてキーワード検索。「この本に載っているらしい」。ここまではいい。が、該当の本を読んで「ちょっとしか書いてない」とぶーたれてあとが続かない。「ちょっとその本見せて?」ふーん。これは「郷土史家」が扱ってそうなトピックだな。ということで郷土史の棚に。この本にありそうだな、とのあたりをつけて索引を見て該当ページを開く。巡礼の札所になっている、ってことが分かる。ということはその巡礼の云われについて調べた本とか、巡礼した人の紀行文を見れば相当なことが分かってくると。こんどはそっちの方に・・・。
 扱いきれないほどの資料が揃うのにそんなに時間はかかりませんでした。。。でもさ、娘よ、私が教えたかったのはそのお寺についての知識ではなくて、その知識に至るまでの過程、連想の方なのだが。これが分かると圧倒的な速度と密度で知識が貯まっていくよ。
 ただし、おまえのように課程を無視するのも分からんでもない。残念ながら社会的には理解されない能力なのだ。僕が何かを唱える。読んだ人は(自分で妥当性を考える代わりに)ほんまかいなとネットで検索する。wikipediaには出てこない。「なんだ、違うのか。」

 結論、安易な検索能力を与えられると人間は劣化する。これが新時代のデジタルデバイドだった。コンピュータを持たないものが恵まれないのみならず、中途半端にコンピュータリテラシー持ち合わせた人間の知力が退化するのだ。そりゃそうだ「調査」の代わりに「検索」を持ってきて安心するんだから。
 コンピュータの普及が始まった時期のデジタルデバイドは、持つものと持たざるものの格差であった。普及した後のデジタルデバイドは、使い方による格差になったということだ。

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