同性愛教の導くもの

 日本という国はあまり宗教戦争をしない。
 一向一揆も反乱の旗印として宗教があっただけで、とくに宗教同士の争いというわけではない。
 これがいかに世界的に優れた(平和な)歴史であることか、は世界史を学習せずとも、現在の近東・欧州情勢を見るだけで十分推測できることであろう。
 自分の知らない神を祀っているところで手を合わせることまではしないが、不敬なことはしない。この礼儀が八百万の神を守ってきたわけである。
 なので、一神教で自分以外の文化を破壊しようとするキリスト教が入ってきて、社会不安の要因となったとき、鎖国までして平穏な文化を守ったというのは、十分に評価できることといえよう。

 なのだが、文化、に関しては多数意見に反するものは圧殺するということが当たり前の国でもある。これが「戦争賛成」の太平洋戦争で滅びてくれていればよかったのだが、平気で言論を圧殺する要因として脈打っている。
 いま、危ういと思っているのは同性愛のもんだいだ。急に容認する動きが主流になった。そして「生物学的には異常じゃないの?」とツィートすると炎上するという動きになっている。同性愛を容認しないという意見もあってしかるべきだし、しかも「生物学的に異常」という科学的根拠を示しても叩かれている。こういうのが「言論の自由を奪う」ことではないかと思っている。
 日本人なら、宗教上の理由でムハンマドの絵を描くのはやめてくれましてや風刺画など、という要請を「言論の自由を奪うな」という理由でフランス人のように無視する事はないと思っていたのだが。手は合わせないが不敬はしない、と相手を尊重する文化があるからね。これがあっての言論の自由だと思うのだが。

 当方、同性愛には反対である。生物学的に異常というのもあるが、ここは別の流行に乗って
「少子化対策という国益に反する行為である」
と言っておこう。性同一性障害、というのとは別よ。病気に対する偏見をなくそう、というならわかる。しかし病気という仕方がないものとゲイという嗜好を混ぜて、性同一性障害への偏見撲滅を足場にゲイの市民権獲得、という発想が垣間見えるのが論理的に怖いのよ。
 何故怖いか?

 そのうち憲法24条「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」にある「両性」は「男女」ではなく「男男/女女」でもよい、と「憲法解釈の閣議決定」がなされるかもしれん。 そのとき反対意見は「炎上」で「粛清」されているから、誰ひとり文句を言えずに容認されるだろう。
 国民の皆が賛成した以上「憲法解釈は閣議決定で変更してよい」という共通理解ができたように見えてしまう。
 さかのぼって「憲法9条の解釈を閣議決定で変更したのも正当である」とみなされるのが怖い。

 問題は自衛権の範囲ではない。憲法の規定が「閣議決定(=総理大臣の頭の中)」で任意に修正されるのが法理学上おかしいことなのだ。それが十分にバイアスをかけた後の「いい/悪い」で何となく決まるところがおかしいのだが。
 「生物学的に」異常な事態を「自由」で片づけて、他人の言論の自由を抑圧している人には分からないのかもなあ。
(この意見に反論する人がいたら「へー、そんな人いるんですか?それってあなたですか?」と返すと「自分は違う」というだろうから「原告不適格」で門前払いできてしまう。ずるいか?そうでもないぞ。)

 では当方の原告適格要件を。同性愛が普通に認められると、反動が怖いのよね。
 「同性愛は正常、拒むのは偏見だ!」 なんて思い込む奴が出てきかねない。
 というわけで、アプローチを断ると「差別だ!」と逆切れされる恐れがある。だから「アブノーマルだ」という自覚は持っといてくれないと困る。「愛」ってのはその程度には盲目なものだからね。
 同性からのアプローチが大手を振ってやられるようになると、KEY新宿店からイシバシ新宿店まで、怖くて歩けなくなるので遠回りしないといけないではないか。
 二丁目がどういうところか知らずに歩いていた若かりしころ、確かに身の危険を感じたのよ。

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