創造性選抜手段?

 うちのガキが定期テストで低得点にあえいでいる。勉強しないのだから仕方がない。もっとも設問もいいとはいえない。社会科(地理)で先生の方も生徒ができないのでショックを受けたそうだが、そりゃそうだろう。ひたすら地名の暗記である。
 中近東の問題で「自然破壊」のキーワードだけで「アラル海」「アムダリア川」「シルダリア川」を埋めさせ、その自然破壊の原因を中学一年生に書かせるのは「酷」である。せめて「20世紀最大といわれる塩害」程度のガイドは問題文中に入れておくべきだ。私が解けたのは「たまたま知っているから」というより「この地域で問題に出るのはアラル海の塩害しかない」という、いわば出題者の手の内が読めるからだ。(それでもアムダリア川・シルダリア川は出てこなかった。何十年と使ってない知識だからな。)

 「おい、先生はアラル海とその周辺の状態を、例えばGoogleEarthで見せてくれたのか?」と尋ねたがそんなことは全くやっとらんようだ。これでは印象に残るわけがない。覚えとけという方が無理と分かっているので、生徒のみなさんはじめからやらない。かくして(娘の言うことだから話半分としても)地理の授業時間はお嬢様たちのまどろみの時間と化しているらしい。

 教え方はとやかく言うまい。せっかくインターネットがあるんだから現在のアラル海の悲惨な状況を見せれば皆さんそこそこ覚えているだろうに。ところで塩害が広がった理由として「干上がったアラル海の底に堆積した塩が風で流される」が正解なのかしら、「灌漑した水が岩塩層に到達し、溶けた塩が毛細管現象で地表に上がってくる」が正解なのかしら。
 塩の粒の大きさで見分けることができると思うよ。では早速自由研究で・・・そういう宿題はないのだった。(たしかに受験その他には役に立たないこととして自由研究をカットするのは分かるが、こういう「疑問を実験で確かめる」訓練をしておかないと結局のところ、せいぜい「優秀な秘書」しか育たない。アナリストは無理だ。好意的に捉えると身の丈を知っているということだろう。)

 でもさあ、徹頭徹尾暗記問題というのはいかがなものか。うちの父親は定期テストでも最後に考えさせる問題をおいたよ。印象に残っているのは「千葉市が政令指定都市になりました。これで変わったことはなにか考えて書きなさい。」
 政令指定都市の特徴を書いたら一応マルになる。が、それを覚えてない生徒であっても、何かは書ける。「人口が多いので、ロッテが本拠地を移した」とかね。これである程度点はあげられるのでやる気はそれほど削がずに済む。より大きいのは知っていることから何かを捻り出す訓練になることだ。「しぶとく考えればなんとかなる!と実感した生徒が地理という教科を捨てることは少なくなる。
 うちのガキの学校は生徒に高度な教育を与えているつもりなのかもしれないが、実は細かい知識を覚えさせているだけである。確かにこのレベルの知識をもとにして何かを考えさせようとしても中一のキャパシティを超えていることは認めよう。だから丸暗記させるしかないという判断かもしれない。が、生徒は全く考えないわけではないのだよ。こう考えるにきまっておるではないか。「地理は負担が大きいから捨てよう。大学入試は他の科目で受ける。」

 中高一貫教育はこういう落とし穴がある。中一から目は大学入試に向いているのだ。だから科目の取捨選択を早々にしてしまえる。問題は適性が分からないうちに捨ててしまう、ということだ。「ひとつ目に習った教科は難しかった。まず捨てよう。」一方、大学入試までの間に高校入試が挟まれば当然「苦手だけどやんなきゃいけない」となる。だから仕方なく勉強しているうちに、何となくわかってきて、ということも十分にありうる。あとから習う歴史よりも実は適性があった、って可能性は普通にある。結果、大学入試での選択肢が広がる。ところが中高一貫だと生徒が未熟な時期に本人が判断して捨ててしまう。
 確かに単位はとらんならんが、本番での選択者が極端に少ない「地学I」を中一でやってしまって忘れるに任せる。つまり学校として選択科目から捨てる!は判断としてアリだと思うが。(化学Iの選択率が40%近いのに、地学Iは3%を切るんだぜ。)

 難しい問題をやらせる副作用はもう一つ。「満点取れなくて当然」と思うことだ。これは中学受験のときから痛感しているのだが子ども達は「できない問題飛ばしてしまう」癖がついている。学校の方もわざと解けない問題を混ぜて難しく見せている、ってところもあるので、これはこれで必須のテクニックなのだが、これをやると「粘り強く考える」習慣ができない。問題を見て解法がわからなければ「ひらめきません」でハイ終わり。かくして質問内容はこうなる。「考え方はいいから、答え教えて」。今まで以上に強力に指示待ち世代が量産されそうだ。んで中高一貫教育の方が大学入試成績はいいもんだから一流大学にこういうのがはびこることになる。お先真っ暗である。

 ただしセンター試験のおかげでちょっとだけ救いがあるかも。
 ようするに中学入試段階から難問/奇問を潜り抜ける訓練を受けた中高一貫の出身者は「満点をとったことがない」。満点が取れなくて当然と思っている。一方「義務教育内で絶対に解ける」ことが必要とされている公立高校の入試を相手にした人間はとりあえず完答、そして満点を目指す。満点はとれるものだからね。
 この感覚が残ったままで、必要以上の難問が構造的に出ないセンター試験を受けると、やはり心のどっかで満点を目指している。するとしぶとく考えて・・・そこそこの点を取るだろうね。一方、中高一貫校で難問に鍛えられた子は満点なんて取れるわけがないと考えている。そこに脆さがある。

 共通一次が導入されたとき「マークシート式では個性や創造性が分からない」という批判が相次いだ。ところが大学入試を目指した中高一貫校の教育が一流大学合格者数でシェアを伸ばしてきた結果、逆に「頑張れば解ける」という共通テストならではの難易度が、自分で考える習慣に乏しい、つまり「何とかして解こう」という気概にかけた、すなわち創造性がイマイチと推測される生徒を低く評価する、という結果につながっていそうだ。
 ホントかどうかは分かりません。でもセンター試験から逃げなかった人間を評価したいなあ。だって「正答率6割でもいいや」という気分で仕事をされたら、こっちとしてはたまらない。「参考書見てもいいのなら、石にかじりついても10割を!」って気概がどこかにないとね。

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