知る権利と報道の自由

 今の学校ではディベート、なんて妙なものを教えている。
 個人的には議論術よりも、何とか一貫した理由を付けて結論を捻り出す思考力を鍛えてほしいのだが、多分ディベートの方が動作が目で見え、耳に聞こえるだけ分析しやすいのだろう。
 確かに思考力を鍛えようにも計算が立たない。つまり定型化できないから教えられない。「核廃棄物の処理法を考えよ」と言われても無理である。最初の原発導入時に考えていた人がいるはずだから、その人に尋ねてくれ、としか言いようがない。でもディベートのネタになる程度のことなら結論を捻り出せるのだがな。
 うちの子が持ち帰ったのは、犯罪者の実名報道、是か非か。知る権利とプライバシーの対立くらいならいいが、容疑者段階だったりあるいは被害者だったりした場合、あるいは精神異常と判断される前の場合、法的に保護されていないのでワイドショーで実名が出ることがあるので話がややこしくなる。ネットで追究されて晒されて、なんて話になるとネットリテラシーの問題も絡んで更に焦点がぼけてくる。うちの子は資料をそろえてブーブーいいながらまとめていた。「パパどう思う?」

 未成年の場合、実名は禁止されているからダメとしても顔写真ならいいんじゃない?昔、14歳の子が神戸で遊び友達を殺した「酒鬼薔薇事件」ってのがあったのよ。写真週刊誌だったかが顔写真をのっけて問題になったのだわ。そのとき「町行く人にインタビュー」でとあるOLが答えたのが秀逸だった。「この人はいずれ社会に出てくる。その時、その人から自分の身を守るための情報は絶対必要です。」

 「報道の自由」「知る権利」「プライバシー」なんて複数の権利を作ってそれらを対立させるから話がややこしくなるのだな。複数の権利の間に上下を付ける価値判断は難しい。だから一元的な価値観に基づいて状況を整理すればいいんじゃないかな?先ほどのOLさんの話に出てきた「身を守る権利」という観点でね。
 一般市民は、命を守るために元殺人鬼を避ける権利がある。加害者も被害者も生活を守る権利がある。報道の自由を掲げるマスコミだって結局は「ニュースをできるだけセンセーショナルにして稼ぐ」(経済的側面を向上させる)権利があるってことでしょう。

 では、どの権利が最も優先されるかということだ。もちろん被害者だ。特に罪もないのにピンポイントでいじられるからね。我々一般市民は身を守る必要があるが、実生活で元殺人鬼に出会う確率は低いから、被害者ほどの優先権は求めない。ふたつは決まった。次はどっちか。更生していれば犯罪者を優先したくなる。「報道の自由」なんて言葉はマスコミが自らの利益のために必要以上のあおり方をしてきた口実、という垢にまみれているからどうしたって分が悪い。(まあ犯罪者はあまり反省をしないようで、更正してない限りでは犯罪者への圧力団体としてマスコミを優先したいね。マスコミの役割なんてその程度。今や政治に対する圧力団体としての機能を放棄して個人への圧力団体に堕しているわけだ。それを例えば「文春砲」と言う。)

 もちろん議論の余地はある。でもすっきりしただろう。なにしろ「自己保存」の原則に基づいた権利の主張だ。プライオリティ無茶苦茶高いぞ。

 ここで気が付いてほしいことがある。
 「知る権利」と「報道の自由」。同じ側にあるものとして認識されがちだが、自己保存本能の具体化、というプリミティブな見地から見ると、全然違うものなのだ。私は元凶悪犯今どこにいる誰なのかを知りたい。だからと言って騒ぎまくる気は毛頭ない。ただそっと離れていたいだけなのだ。

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